2024年日経・経済図書文化賞を受賞した『教育投資の経済学』(日経文庫)。教育に関するトピックスを経済学の手法で分析、注目を集めました。著者の神戸大学大学院経済学研究科教授の佐野晋平さんに、教育経済学を志したいきさつや、教育経済学の視点から見た受験、さらに教育経済学や教育をめぐる社会課題を考えるうえでお薦め本について聞きました。(全2回の後編)
1回目 「どんな教育投資が成功につながる? 経済学の手法で分析」 から読む
神戸大学大学院経済学研究科教授
『教育投資の経済学』は 「日経・経済図書文化賞」を受賞 したほか、経済誌の 2024年「ベスト経済書」にも選出 されました。佐野さんはなぜ教育経済学を研究しようと思われたのでしょうか。
佐野晋平氏(以下、佐野) 今も専門の一つですが、もともとは労働経済学という分野に興味を持って研究を始めました。「労働」と「教育」は非常に近しい関係にあり、労働経済学と教育経済学も近接する学問分野です。労働経済を研究するなかで、教育に焦点を当てた分析にも興味があったことから、自然な流れで教育と関連する分野の研究も増えていきました。今は労働経済学と教育経済学の両輪で研究を進めています。
こうした分野に興味を持ったきっかけは、1979年生まれの氷河期世代だったことが大きいと思います。「必死に勉強して、難関といわれる大学に進学したのに就職先がない」という周りの状況を目の当たりにし、学校で学んだこと、教育はその後どのように役立ち、仕事や収入にリンクするのだろうかと考えました。そこから、貧困や学力格差との関係など、教育とお金との関係にも興味を持つようになりました。あと個人的な話ですが、身近に教育に関わる仕事をしていた人たちがいたことも、経済格差や教育費をめぐる問題を身近なものとして感じてきたことも理由のひとつです。
教育経済学では教育を「人的資本」と考え、著書では教育のリターンとして大卒と高卒の賃金差にも触れています。近い将来、大学受験者数が入学定員を下回る「大学全入時代」となっても高卒と大卒の生涯賃金の差は開いたままだと思われますか。
佐野 本著でも大卒と高卒では10%ほどの差があると紹介していますが(注釈:『ユースフル労働統計2021』によると、生涯賃金平均は大卒男性で約2億9000万円、高卒男性約2億6000万円)、この数字はあくまでも平均ですので、その差がさらに大きい人もいれば、小さい人もいます。
比較的入学しやすい大学に進学したとして、その大学が学業指導やキャリア指導において手厚い教育を行っていれば、4年間で多くの学びを得て、さらに違いが出るかもしれません。また、今後の技術進歩で高度なスキルを要求される仕事が増えると、さらに大卒への需要は増えるかもしれません。
大学に入るのが当たり前の時代になると、大学院に進学する学生も増えそうですね。
佐野 その通りです。他の先進国と比べると、日本の修士と博士の数はさほど多くありません。本書でも紹介していますが、修士や博士は「教育投資」という面では意外とお得で、リターンが大きいという研究があります。大学院では、学問的な作法に基づき研究を進め、その成果を論文としてまとめ、プレゼンするという、一連のプロジェクトを進めていきます。これは、大学での研究に限らず、社会で仕事をするうえで必要なスキルと共通しています。
修士課程や博士課程では、社会で仕事をするうえで必要なことを当たり前のようにこなしていく必要があります。それは社会に出たときに十分役立つと考えています。私が大学院に進学したときと比べ、今は状況が大きく変わってきたと思います。海外はもちろん、日本でも修士や博士の学位を持つ人が社会で活躍し、企業側も大学院修了者を高く評価をしてきたのではないかと考えています。
経済学的な観点から考えると、教育は、我が子が将来「リターン」してくれることを願って「先行投資」しがちです。金融商品と同じように、親としては投資した分の見返りを子どもに期待してしまうからこそ、子どもが受験のときは親も目先の合否に目を奪われて視野が狭くなってしまいがちです。
佐野 受験に関しては、結果がすぐに分かる分、余計に一喜一憂しがちですよね。ただ、あくまでも現時点での結果でしかないわけです。短期的にうまくいってもその後伸び悩むこともあるし、逆に長期的にじわじわと上昇を続けることもある。10年後は分からない。
子どもたちは親よりも先の未来を生きるます。今、仮に結果が出なくても、子どもの未来の人生で結果が出ることもあります。私も子を持つ親なので、つい目の前の結果に左右されがちな気持ちもよく分かりますが、そこは投資と同じで、長い目で見ることが大事です。何より株式などと違うのは、「人的資本の投資(=教育)」のメリットとして、知識や経験は必ず蓄積されていくことです。今、一生懸命やっていることが、たとえ受験のような短期的結果には出なくても、子どもが得た知識や学びの蓄積が減ることはありません。それが金融商品への投資と大きく違うところです。分かりやすいリターンが見えなくても、教育は必ずや子どもの血肉になっているはずです。
現在の教育をめぐる課題や教育経済学についてお薦めの本はありますか?
佐野 一般の方が最も手に取りやすいのは、発行部数が37万部突破したという大ベストセラーの『 「学力」の経済学 』(中室牧子著、ディスカヴァー携書)でしょう。教育経済学が専門の慶應義塾大学教授である中室牧子さんが教育の効果を科学的根拠(エビデンス)から解き明かし、執筆された本です。10年前の2015年に刊行された本ですが、この本によって「教育経済学」の学問自体も広く認知されるようになりました。本書の執筆を含め、中室さんの活動によって教育経済学の認知度が高まり、研究が一層進みました。中室さんは2024年末にも新著を出されました。
2冊目は松岡亮二さんの『 教育格差 』(ちくま新書)です。2019年に刊行され、2020年新書大賞(3位)にも選ばれた本です。松岡さんは教育社会学の専門家で、経済学とはまた別の視点から、教育の実態とデータを丁寧に調べられています。生まれた家庭や地方で格差があることをデータに基づいて解説され、読み応えがあります。
そして、やや専門性がありますがお薦めしたいのが『 少人数学級の経済学 エビデンスに基づく教育政策へのビジョン 』(北條雅一著、慶應義塾大学出版会)。著者の北條雅一さんは労働経済学と教育経済学の専門家で、私の先輩でもあります。既に導入が始まっている小学校での35人学級を取り上げ、学級規模に焦点を当て、その教育的・経済的効果を生徒レベルの詳細なデータを用いてエビデンスを重視しながら分析、検証しています。硬派な分厚い本ではありますが、非常に面白い内容です。
経済学には全体を俯瞰(ふかん)するマクロ経済学と細部をみるミクロ経済学があります。教育経済学に関しても、全体を俯瞰する見方と、細部に寄った分析が非常に重要になります。中室さんの本でまずは教育経済学の全般を知り、そのうえで松岡さんや北條さんの本のようにトピックスベースで見ていくと、理解が深まるのではないでしょうか。
本書をきっかけに「教育経済学」を知り、身近に感じた読者も多いと思います。
佐野 だとしたら、とてもうれしいことです。社会問題に興味がある学生は法学や社会学を選びがちだと聞いたことがあります。実は経済学も教育をはじめとする多くの社会問題を扱っています。金融のイメージが先行しがちな経済学への先入観が変わり、教育についても、多くの方がより俯瞰的、論理的に見ることができるようになればいいなと思っています
取材・文/若尾礼子 構成/市川史樹(日経BOOKプラス編集) 写真/今紀之(ナイスマックス)




