2022年春。急激なインフレに見舞われた米国では、食品やガソリンをはじめとするあらゆるものが値上がりした。インフレは一時的とする米連邦準備理事会(FRB)の読みは外れ、生活費の上昇に賃金が追い付かない多くの労働者は実質的な賃下げを強いられる。生活が苦しくなった人々の不満は、政権に対する批判へと膨らんでいく。『パウエルFRB 迷走の代償』(高見浩輔著/日本経済新聞出版)から抜粋・再構成。
卵が1パック700円に
「何の値上がりが気になるかって? 全部だよ、全部。何もかもが値上がりだ!」。2022年春。米国でウーバーのドライバーに尋ねると、ほぼ例外なくこんな答えが返ってきた。少し前まで物価は年2%も上昇しなかったのに、レギュラーガソリンは1年前の1.6倍、ガスは1.4倍、航空料金は1.3倍になった。バターや冷凍食品、小麦粉、男性用スーツ、保険料も1.2倍だ。何がどれだけ上がったかという話題ばかりだった。
米首都ワシントンではまだ電車に乗るときにはマスクが義務付けられていたが、レストランをのぞくとこれまで控えていた大人数での会食が再開されつつあった。ようやくにぎわいを取り戻しつつある町並みに、高インフレは混乱をもたらしていた。
ホワイトハウスから西側に歩いて20分。ジョージ・ワシントン大のキャンパスに近い住宅エリアの小型スーパーで、私は4月1日から商品棚の定点観測を始めた。調査を始めてすぐに気づいたのは、すべての商品が常に値上がりするわけではないということだ。消費者物価指数(CPI)など経済指標は多くの店舗で調査した結果を平均するため、毎月細かく価格指数が変動する。だが実際にはそれぞれの店舗やメーカーにとって値上げは重大な決断であり、インフレに慣れた国であっても頻度は思ったより少ない。そして、その分、動いたときの変化率や消費者に与えるインパクトは大きい。
最初の値上げは7月で、品目はパスタだった。イタリアのディ・チェコ社のリングイネ(1ポンド=約450グラム)が2.79ドルから3.29ドルに上がった。小麦の産地であるウクライナの戦災が、5カ月かけて米国のスーパーの商品棚にまで波及したことになる。値上がり率は実に17.9%。低所得層になればなるほど、支出に占める食材の比率は大きい。日常的に購入する顧客にとっては衝撃だったに違いない。
次に動いたのはベーコンだ。軽く燻製(くんせい)で風味付けをした米スミスフィールド社の定番商品「ホーム・オリジナル」は1ポンド8.99ドルが7月末からセールで7.99ドルになった。まさか値下げに転じたのかと思いきや、表示の上部に小さく書かれた文字を読むと「通常価格は9.29ドル」とある。特売を隠れみのにした定価の値上げだった。そのまま9ドル台に引き上げることに抵抗を感じた店舗側の戸惑いがにじんでいるようだった。
1年を通してみると最も異常な値動きとなったのは鶏卵だった。ペンシルベニア州で生産されているアルダーファー・ブランドの鶏卵は12個入りケースで3.96ドル。これが8月1日時点では3.49ドルにいったん下落。その後23年4月には一気に5.29ドルまで跳ね上がった。
CPIで確認すると、鶏卵の値上がり率は21年12月に10%の大台を突破した後、23年1月に記録した70%まで拡大。23年4月時点でもなお21%と急騰を続けていた。輸送費や人件費などの高騰だけでなく鶏卵の場合は鳥インフルエンザが猛威を振るった影響もある。当時の円相場に換算して卵が1パック700円というのはさすがに高い。卵を食材として利用する飲食店への影響も気になった。
インフレの思わぬ影響
この卵コーナーの上段に置かれていたのが、カリフォルニア州の新興企業イート・ジャストが生産する植物由来の「卵」だった。見た目も味も溶き卵と区別の付かない液体がシャンプーのようなデザインのペットボトルに入っている。ハンバーガーの主要チェーンでメニューに組み込まれた培養肉のビヨンド・ミートなど、フード・テック業界はコロナ禍前から積極的な資金調達で急拡大していた。手間も時間もかかる畜産が逆風を受けるコロナ禍は千載一遇のチャンスでもある。実際、ジャストの「溶き卵」は4月1日の5.99ドルから8月1日時点では4.39ドルに値下げされた。「初めて実際の鶏卵価格を下回りました」。徹底した原価開示を続けてきたジャストのサイトをのぞくと、8月15日付けでこんなプレスリリースが掲載されていた。災難を技術革新(イノベーション)の原動力に変えられる米国の強さを感じた。
小さなスーパーで1年間続けた調査を通してみると、商品の入れ替えの早さも気になった。同じ商品で内容量も変わっていないか確認しながら調べたが、途中で棚から消えたものも少なくない。企業側が商品の装いを変えるケースもあるが、スーパーが安価な別ブランドを仕入れるパターンも目立った。
ワシントンの住人たちを悩ませたのは、スーパーの買い物だけではない。深刻だったのは家賃の値上げ交渉だ。買い手の付かないコロナ禍では、家賃の引き上げが止まっていた。たまっていた分を一気に挽回するかのように、契約終了時期の手前で2割程度の引き上げを要求される例が相次いだ。賃貸を契約した際は自分の給与から払える賃料を逆算し、なるべく良い物件を選ぶもの。給与がそこまで増えないなか生活が行き詰まることが明らかになり、引っ越しを迫られる人も少なくなかった。
米国全体で起きていたのは住居のミスマッチだった。コロナ禍でテレワークが増え、多少不便な郊外でも大きな家に住みたい需要が高まり、それに住宅建設が追いつかなくなった。家賃の先行指標であるS&Pコアロジック・ケース・シラー指数(20都市)は22年4月に前年同月比の上昇率が21.2%に達した。
「数年前に買った中古車が、購入時よりも高く売れた」。なかにはインフレの恩恵を受けた人もいる。特に住宅や車など資産を保有する層だ。だがほとんどの労働者は生活費の上昇に賃金が追いつかず、実質的な賃下げが進んだ。米ギャラップのアンケート調査では財務状況が1年前より悪くなったと答えた個人の割合は20年1月の20%から21年1月には35%に、22年1月には41%まで高まった。
インフレ、遅れた利上げ、銀行破綻――カギを握るFRBの金融政策はどのように決まり、どのような影響を市場に及ぼしたのか。パウエルの人柄から、政治的・社会的な影響要因、豊富なインタビューから見える舞台裏までを現地駐在の日経新聞記者が描く。
高見浩輔著/日本経済新聞出版/2090円(税込み)


