『SHIFT解剖 究極の人的資本経営』(飯山辰之介著、日経BP)は、そのタイトルが示す通り、SHIFTという企業の人的資本経営をつまびらかにしている。ただし本書のスコープは人材戦略ばかりではなく、経営戦略にも及んでいる。経営戦略や競争戦略と切り離して人的資本経営を語ることはできないからだ。では競争戦略の第一人者はSHIFTをどう見ているのか。一橋大学大学院の楠木建・特任教授に聞いた。

人的資本経営に大きな注目が集まるようになりました。

楠木建・一橋大学大学院特任教授(以降、楠木氏):経営の世界では、いつの時代にもバズワードが登場するもの。最近で言えば人的資本経営がそれに当たるでしょうね。ただ単なる「掛け声」に終わってしまっている場合がほとんどです。

 一方でSHIFTはモノが違う。書籍の副題には「究極の人的資本経営」とありますが、そこに嘘はないでしょう。同社は一つのモデルを提供していると思います。

 そもそも人材を資本として捉え、人材への投資を成長エンジンにする考え方は特別なものでもなんでもない。いつの時代にあっても、経営の中核に位置する重大ごとであったはず。ですから人的資本経営という言葉を軽々しく使っている企業の関係者には認識を改めてほしいと思いますね。

人的資本経営は普遍的であるがゆえに、結局のところ何を意味しているのか、捉えどころがないイメージはあります。

楠木氏:SHIFTの取り組みを交えながら、あえて人的資本経営という言葉にこだわって考えてみましょう。人的資本経営を「人的」「資本」「経営」と単純に3つに分解します。

SHIFTの人材に対する「飢餓感」

 「人的」、つまり人が重要であるという考え方は、それこそ皆が口にしていることですね。ただSHIFTの場合は重みが違った。彼らはソフトウエアのテストという、全然華やかではない、極めて地味な領域で事業を始めました。何かしらの先端技術を持っていたわけでもありません。

 競争力のあるポジションにいたわけではないし、競争力のある技術があったわけでもない。つまり彼らは人材以外に勝負できるカードがなかったのです。ここが肝です。人材に対する「飢餓感」が他社とは比較にならないほど強かった。だから生産性を上げてくれる人材を渇望し、自分たちにとって本当に戦力となる人材を次々と受け入れていった。学歴や前職で人を採用している場合ではなかったのです。

 結果、SHIFTには多様な人材が集まりました。多様性も少し前にバズワード化しましたが、重要なのは多様性そのものではありません。「必要な人材を見極めて採用した結果、多様になった」ということがポイントなんです。

 生産性を高めることが目的ですから、人材のROI(投資利益率)を重視する。丹下大社長は「人ほどレバレッジが効く商品はない」という言い方をしていますね。確かに、人間って可塑性(かそせい)が高い。やりようによっては生産性は3倍にも4倍にもなるけれど、逆に3分の1、4分の1にもなる。だとすれば、生産性を高めてもらうべく手を打たなければならない。

人材しか勝負できるカードがないのだとすれば、人材が生み出す価値をいかに最大化できるかが鍵になる。

楠木氏:ここに2つ目のポイントがあります。価値に注目すると、人材をわざわざ「資本」と呼ぶ意義が見えてきます。

「人的資本」とは何か

 そもそも資本とは何でしょうか。これは逆から考えてみた方が分かりやすい。「資本でないものとは何か」という問いです。答えは「ウェルス(富)」。例えば金銀財宝です。これは富ではあっても資本ではない。なぜなら、「将来において価値を生み出すものではない」からです。

 つまり資本とは、「将来において価値を生み出すという期待」を持っているものなんです。金融資本が典型ですね。例えば企業がキャッシュを大量に抱え込んでいたところで、資本市場は評価しない。投資しなければ価値を生み出せないわけですから。キャッシュを持っていたところで「それは資本じゃないよね」という話です。

 人的資本も同じ。「うちには優秀な人材がいます」と言ったところで、価値を生み出す対象として捉えていなければ、それは富に近しいものであって資本ではない。単なる労働力なんです。労働力が欲しいのならば、労働市場でフリーランスの人を「調達」すればいい。

 人材を資本として捉えるということは、投資の対象として捉えることと同義です。だから私は丹下社長の「社員の年収はコストじゃない。成長への先行投資である」「先に給料を上げておかなければ社員にやる気なんて起きるわけがない」という発言にはしびれました。

 株式投資は先払いですよね。価値の向上を見越して先払いをする。同じように、SHIFTでは一人ひとりの従業員が生み出してくれるであろう価値を見越して、経営が先に動いて投資しているんですよ。人材に期待をして、先に給料を上げ、より大きな仕事を任せる。当然、投資にはリスクが伴います。つまりリスクを取って先行投資をしているのです。一般的な企業とは順序が逆なことが分かるでしょう。

 ここを突き詰められていない経営は少なくないと思います。先行投資だと考えていないから、業績が悪くなると給料から手を付けてしまう。資本の観点から見れば、人件費の削減は禁じ手です。投資の縮小であり、経営が投資戦略を持てていないことを意味するわけですから。

確かに、SHIFTは人材への報酬を先行投資であると明確に位置付けています。

楠木氏:もし自分のお金を使って株式に投資するとすれば、企業を評価して、そのパフォーマンスもきっちりと見ます。同じように、将来価値を見極めて人に投資するには、生産性を緻密に評価することが求められます。だからこそ、SHIFTの経営陣は評価に莫大な時間と手数をかける。社員一人ひとりについて、単なる成果ではなくて、働きぶりやポテンシャルまで評価する。

なぜ経営は社員に「頑張れ」と言えないのか

 ここで誤解してほしくないのは、SHIFTのような評価会議を他社もやるべきだ、という話でないということです。『SHIFT解剖』は同社の様々な人材関連の施策や取り組みに触れていますが、私はこの本をテクニカルに、ハウツー本として読むべきではないと思う。

 例えばSHIFTは市場価値に照らして人材を評価しています。「この人を採用するとすれば、いくらか」と考え、報酬を市場価値に連動させていく。それはそれで重要な話だと思いますが、こういう評価のやり方をまねればいいというのではなく、人を資本として見るとはどういうことか、その根本的な考え方を理解すべきです。

人的資本経営を構成する最後のピース「経営」の在り方が問われるわけですね。

楠木氏:SHIFTでは経営陣と社員の役割を明確に区別しています。ここがポイントです。言われてみれば当たり前なんだけれど、なかなか実践はできない。

 会社の構成員の皆が皆、経営者みたいに会社のこと、全体のことを考えるなんて絶対にあり得ない。多くの人にとって、会社は働く場でしかない。経営者みたいに考えろなんて言われたところで、まっぴらごめんでしょう。

楠木 建氏[くすのき・けん]
楠木 建氏[くすのき・けん]
一橋大学大学院特任教授。専攻は競争戦略。著書に『ストーリーとしての競争戦略 優れた戦略の条件』『楠木建の頭の中 戦略と経営についての論考』など多数。

 会社をリードするのは明確に経営の役割なんです。どこで勝負するのか、成長できるマーケットを選択して意思決定し、持続的に収益を上げていくための競争戦略、ストーリーを練り上げる。経営の手腕が問われるわけです。そして丹下社長が言うように「社員が頑張れば頑張るだけ自然と成果が出る」というロジックをインストールできれば、後は社員に気持ちよく投資し、それに見合った生産性を発揮してもらえばいい。

 経営がその役割をきちんと果たしているのだから、社員も役割を果たす必要がある。どっちが偉いというわけではなくて、役割が違うということなんです。この区別をきちんとつけられている会社は多くありません。でも経営が役割を果たしていれば、(社員に対して)躊躇(ちゅうちょ)なく「頑張れ」と言える。

 社員に「もっと頑張れ」とか「思いっきり頑張ってこい」と言える経営者は少ないですよ。「社員が頑張れば成果が上がり報われる」という状況を整えていないから、躊躇しちゃうわけです。

SHIFTは人的資本経営のモデルを提示していると私も考えています。ただ最近の株式市場におけるSHIFTの評価は芳しくありません。株価は厳しい状況が続いています。投資家はSHIFTの成長性に懐疑的な目を向けているようです。

楠木氏:まさに経営の手腕が問われている局面だと思います。ソフトウエアのテストという、一見したところ地味で裏方的な仕事に同社は価値創造の宝を見いだした。ものすごく戦略的な慧眼(けいがん)があったと言えます。では今後はどうなのか。

SHIFTは今こそ戦略を示せ

楠木氏:コモディティー化した仕事を効率的に手掛けるのがSHIFTの強みだけど、こうした仕事は人工知能(AI)に代替されるんじゃないか、はたから見ている人はこう考えています。投資家や株主が不安に思うのは当然のことでしょう。だから足元の業績は伸びているのに、株価が振るわない。

 SHIFTもAIは使い倒していますから、そのインパクトについてはよく分かっているはず。あれだけの経営陣なのですから、戦略だって当然あるはず。だからこそ、株式市場に対してもっと強いメッセージを打ち出してもいいのではないかと思います。「心配するな」と。ただ経営陣は「ガタガタ言うな、成果を見ていろ」と言いたいのかもしれません。

AIによって人の業務が次々と代替されていくとすれば、人材の資本としての価値は落ちていくのではないでしょうか。つまり人的資本経営をやる必然はなくなるのではないか、そんな課題意識が個人的にはあります。

楠木氏:人的資本経営なるものが、AIの登場で誰でもできるコモディティーの領域になるということでしょうか。そんなことは絶対にないですよ。それは既にAIを使い倒しているSHIFTが身をもって証明している。

 評価会議に費やす時間がAIの登場で10分の1になるとか、そういう話ではないでしょう。皆が同じようにAIを手にすることはできるかもしれない。けれど、AIをどう使うかとか、どこまでAIに任せるのか、といったところには人の判断が求められます。

 磨き抜いてきた人的資本経営こそSHIFTの屋台骨です。今後も競争力の源泉であり続けることは間違いありません。SHIFTの人的資本経営はそれほどの価値を持っていると思う。ただし、人的資本経営は競争戦略なしには機能しない。ゼロに何を掛けたところでゼロですから。長期利益を見据えた戦略あってこその人的資本経営です。これからSHIFTの経営陣がどのような戦略を示すのか、そこに注目しています。

日経ビジネス電子版 2025年12月25日付の記事を転載]

IT企業でありながら「元警察官だろうがキャバクラだろうが引きこもりだろうが、前職を問わない」採用、「トップガン」と呼ばれる社員の隠れた能力を引き出す仕組み、急成長した社員が稼げば「前年比で600万円の昇給」が当たり前に行われる風土。これらが「上場10年で売上高50倍」という驚異的な数字に結実した。人の能力をとことん引き出し、企業の成長につなげる。丹下社長ら経営陣、そして現場への密着取材で、SHIFTの「究極の人的資本経営」を徹底解剖する。

飯山辰之介著/日経BP/1980円(税込み)