今年はドル高是正を図ったプラザ合意から40年。世界の要人が集まったニューヨークへの旅立ちは、日本から極秘裏に行われた。その場では、次の首相を目指す思惑なども渦巻いていた。『円ドル戦争40年秘史 なぜ円は最弱通貨になったのか』(河浪武史著、日本経済新聞出版)から抜粋、再構成してお届けする。

ニューヨークへの旅立ちは極秘裏に行われた

 1985年9月21日、新東京国際空港(成田空港)を15時30分に飛び立ったのは、ニューヨーク行きのパンナム機だった。乗り込んだのは後に第74代首相になる蔵相の竹下登だ。「創政会」を結成して派閥領袖の田中角栄に反旗を翻したのは、7カ月前の85年2月だった。竹下は中曽根康弘内閣で4期続けて蔵相を務め、次期首相の有力候補となっていた。

 米国人乗客ばかりのパンナム機には、財務官の大場智満ら複数の大蔵省高官も乗り込んだ。最後に日銀総裁の澄田智らが加わった。

 83年から財務官のポストにあった大場は、小学校時代にフランス語を学び、旧制第一高等学校ではドイツ語、さらには大蔵省入省後に赴任したローマでイタリア語を習得した語学の天才である。澄田は大蔵次官を2年務め、日本輸出入銀行(輸銀、現在の国際協力銀行)総裁を経験したのちに日銀に転じている。当時の大蔵官僚の黄金コースを歩んだ人物である。

 竹下、澄田ら大蔵省・日銀の首脳陣が「ナショナル・フラッグ」である日本航空機を使わなかった理由は、ニューヨークへの渡航そのものが厳秘の扱いだったからだ。北米行きの日航機には、竹下らの顔を知る多くのビジネスマンが乗り込む。澄田や大場まで同乗しているとわかれば、ただ事ではないとすぐに広まってしまう。一団は、翌22日に開かれる日米欧主要5カ国(G5)財務相・中央銀行総裁会議の日本側代表団だった。

 21日朝、竹下が番記者らをかく乱するため、自宅からわざわざ成田近くのゴルフ場に向かい、ハーフラウンドをこなして空港に到着したことはよく知られるエピソードだ。当時を知る関係者によると、竹下らは空港でも大蔵省所管の成田税関支署長室で隠れるようにしてフライトを待ったという。日銀総裁の澄田は、風邪を引いたと周囲にウソをついて顔がすっぽり隠れる大きなマスク姿で成田空港に現れた。

ニューヨークへの旅立ちは極秘裏に行われた(写真:T.sasaki/stock.adobe.com)
ニューヨークへの旅立ちは極秘裏に行われた(写真:T.sasaki/stock.adobe.com)
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 前日20日のドル円レートは1ドル=238円だった。IMFの購買力平価でみれば1ドル=209円(85年)であり、当時の名目市場レートが円安水準にあったことは間違いない。

 米国の84年の貿易赤字は1223億ドルと前年比で2倍も増加した。米国の有力半導体メーカーは軒並み赤字に転落し、貿易黒字を積み上げる日本への批判が強まった。米連邦議会上院は85年3月、対日報復措置を実行するよう大統領のレーガンに迫る決議案を全会一致で可決した。日本を不公正貿易と断じて、輸入制限を含む「あらゆる対抗措置」を求める厳しいものだった。

 米国の経常赤字はGDP比で2.8%もあった。日本の経常黒字は同2.8%であり、西ドイツも同1.6%あった。米国内には鉄鋼や自動車の輸入制限だけではなく、国際収支の不均衡を是正するため為替レートを操作しようという発想が生まれていた。日米独の国際協調によるドルの切り下げや円の切り上げ策がそれだった。

このままでは首相になれない――竹下の野望

 ニューヨークのセントラルパーク東南にあるプラザホテルは、1907年に建てられた歴史ある名門ホテルである。G5会議が開かれた3年後の88年、のちに米大統領になるドナルド・トランプがその建物を購入した。その後はインドの大富豪やサウジアラビアの王族などが株主となり、今ではホテル部分を大幅に縮小して富裕層が住む高級コンドミニアムになっている。

 米国側はもともと、G5会議をウォール街にあるニューヨーク連銀で開く予定にしていた。直前になって財務長官のジェイムズ・ベーカーが開催地をプラザホテルに変更したという。ニューヨーク連銀は米連邦準備理事会(FRB)の管轄下にある。FRBと米財務省はマクロ経済政策をつかさどる双頭でありながら、ライバル関係ともいえる微妙な間柄だった。政治的野心があふれるベーカーに対して、当時のFRB議長のポール・ボルカーは公僕としての誇りを持つ男だった。最終的にG5会議という舞台で自身の成果を存分にアピールしたいベーカーがプラザホテルを会場に選んだ。

 ニューヨークに主要5カ国(G5=日本、米国、英国、西ドイツ、フランス)の財務相と中央銀行総裁が集結したのは9月22日の日曜日だった。

会場はニューヨーク連銀ではなく、プラザホテルになった(写真:Gabriele Maltinti/stock.adobe.com)
会場はニューヨーク連銀ではなく、プラザホテルになった(写真:Gabriele Maltinti/stock.adobe.com)
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 「米国の大幅な国際収支赤字と日独の国際収支黒字は、世界経済の発展の面からも放置できない。我々は現在のドルが高すぎるという共通の認識を持たなければならない」。会議の冒頭、米財務長官のベーカーはこう宣告した。

 日本にとっての円買い・ドル売り介入は、一段の円高を許容することを意味していた。輸出で外貨を稼いで戦後復興を進めた日本にとって、円高は経済構造の抜本転換を迫る一大事である。それでも蔵相の竹下は、円の切り上げに賛成することにしていた。ベーカーの後を受けて発言を求められた竹下は「今のような円安のままでは大蔵大臣をなかなか卒業できない」と冗談めかして話した。

 竹下には、米国の苦境を日本が救う歴史的使命に、ある種の高揚感があった。第2次世界大戦の敗戦から40年がたったが、日本が国際政治の場でここまで決定的な役割を果たしたことはなかった。大蔵省の国際金融局長としてG5会議に携わった行天豊雄も「世界2位の経済大国になったことで、世界が日本を見る目が変わったということはありますよね。日本でもある意味で大国としての責任感が生まれてきた時期だった」と述懐する。

 竹下には、レーガンに手を貸すことで次期首相への地歩を固めたいという思いもあった。「大蔵大臣をなかなか卒業できない」という竹下の発言を、その場にいた通訳が「このままだと首相になれない」と訳したという出来すぎたエピソードを本人が後に語ったこともある。

 中曽根康弘政権が1982年に発足してから既に3年がたっていた。その頃、ポスト中曽根として名前が挙がっていたのは、竹下と外相の安倍晋太郎、自民党総務会長として閣外にいた宮沢喜一の3人だった。

 3人の中で竹下の弱点は国際舞台の経験に乏しいことだった。安倍は外相として岳父の岸信介(元首相)が持つ米国人脈を使って、中曽根とレーガンの橋渡し役を着実に務めていた。中国との国交回復に尽力した田中角栄の下にいた竹下は、米国とのパイプづくりで安倍に出遅れていた。今回のG5会議は、竹下にとって国際経験と米国人脈の双方で安倍に追いつく絶好のチャンスだった。

通貨の盛衰は国力の盛衰

暗躍したキーパーソンの行動をたどりながら、いまここに至る過程を丁寧に解きほどいた意欲作。米国の厳しい要求は今に始まったことではなかった!

河浪武史著/日本経済新聞出版/2420円(税込)