当代随一の読書家として知られる楠木建・一橋ビジネススクール特任教授が「90年前の著作だが、ラッセルの主張と議論はいまなお重要な示唆を与えている」と称賛する名著『 怠惰への讃歌 』(バートランド・ラッセル著)は、何を説いているのか。『経営読書記録 裏』(楠木建著/日本経済新聞出版)から抜粋・再構成してお届けする。
仕事は良いものという信念は、害を招く
1932年から35年にかけて書かれた15編のエッセイが収録されています。仕事場の本棚を整理していて、はるか昔に読んだ本書が出てきたので再読してみました。表題作『怠惰への讃歌』はラッセルの思想が凝縮されている名文として有名です。議論が上手い巧い。
ナポリの旅行者の話。12人の乞食が日向ぼっこをしていた。旅行者はその中で最もなまけものに1リラをやろうと言います。12人の乞食はわれ先に得ようと飛びあがります。ところが1人だけじっとしているのがいる。1リラを得たのはその12人目の乞食でした——この旅行者のやったことは正しいというところから、ラッセルは議論を起こします。
ラッセルは良心に基づいて一生懸命に働き続けてきた。しかし、仕事は良いものだという信念は多くの害を引き起こしている。幸福と繁栄に至る道は組織的に仕事を減らしていくことにある、と考えを変えます。
ラッセルは仕事を3つに分類しています。第1のタイプは、「地球の表面上、またはその近くにある物体の位置を相対的に変えること」。要するに肉体労働なのですが、こういう定義を与えるところが数学者らしい。第2は、人々にそのような仕事を命令する人。第3に、土地を所有しているために、人々に居住し働くことを許可する代わりにその対価を支払わせる地主階級。
地主は怠惰で仕事をしていないのですが、彼らはラッセルの礼賛の対象とはなりません。怠惰でいられるのは他人の勤勉のおかげだからです。歴史的に見ると、彼らの怠惰への熱望が勤労至上主義を生み出している。
ラッセルの時代から90年たった現在
言うまでもなく、ラッセルの怠惰礼賛は彼の自由、平等、平和を希求する反権力的社会主義についてのひねりを利かせた主張です。相当のヒマがないと人生の最も素晴らしいもの――文明と教育――と縁がなくなる。この素晴らしいものを奪われている理由はヒマがないということにある。ばかげた禁欲主義に突き動かされて犠牲的に働く必要がなくなった1932年でも、過度に働く必要があると思い込んでいる。
労働は1日4時間でイイ。人々は疲れていないので、消極的で味気ない享楽だけを求めることはない。ごく一部の人は勤労に使っていた時間を公共的に意味のある研究に注ぐだろう。普通の人々もすり減った神経や疲労の代わりに幸福な生活を享受するようになる。もっと人に親切になり、人を苦しめることも少なくなり、他人を疑いの目で見ることもなくなる。何より、戦争をしたがる気持ちがなくなる。なぜならば戦争は最も長く苛烈な労役を強いるからです。
ラッセルがこの文章を書いてから90年以上が経過しています。ラッセルが今の世の中(日本や韓国や台湾や欧米のような「先進国」)を見たらどう思うか。第1種の労働は明らかに低減している。労働時間は4時間にはなっていないけれども、当時の肉体的疲労は相対的にはるかに軽減されています。おそらく当時と比べれば、程度問題としては、人々は「人に親切になり、人を苦しめることも少なくなり、他人を疑いの目で見ることもなくな」っている。普通の人々の間で、戦争をしたがる気持ちがなくなったのは間違いない。
ただし、疲れてはいなくとも「消極的で味気ない享楽だけを求める」人は依然として多い。「すり減った神経、疲労、消化不良の代わりに、人生の幸福と歓喜が生まれるだろう」というところまでは行っていない。
本書を読み直した僕の感想を端的に言うと、「社会は進歩する。しかし時間がかかる」ということです。大学生のころに読んだときと比べて、この真実に対する確信は深まっています。ラッセルが思い描いたような社会主義に確実に近づいてはいますが、あと400年はかかると思います。
『怠惰への讃歌』が出版された当時のヨーロッパ(ラッセルはイギリス人)は政治的な緊張状態にありました。第三インターナショナルの理論に基づく共産主義が広まり、その反動としてヒトラーやムッソリーニが主導するファシズムが台頭します。当時は、政治的に見て共産主義とファシズムだけが実際に取ることができる道であり、一方を支持しないものは結局他方を支持することになる、と思い込んでいる人が多数派でした。
ファシズムの成り行きを見抜く
こうした時代状況にあって、ラッセルは『怠惰への讃歌』に収録されている一編「前門の虎、後門の狼(おおかみ)」で、共産主義とファシズムのどちらにも反対であると主張し、その理由を述べています。なぜ共産主義はダメなのか。まず、マルクスの哲学に同意できない。レーニンの唯物論も理解できない。歴史的変遷に弁証法的必然があるという信念の理由が分からない。第2に、マルクスの余剰価値説を承認できない。マルクスの経済学は論理的ではなく、資本家に反対する立場を強化するためにリカードやマルサスの話を断片的に拾い集めている。第3に、権威崇拝をもたらす。人間に過失がないと考えるのは無理がある。第4に、民主的ではない。
プロレタリア独裁は実質的に少数の支配階級の独裁であり、支配階級の利益を追求して運営されることになる。第5に、私的自由を制限する。第6に、精神労働者に反対するものとしての筋肉労働者を不当に賛美する傾向がある。
この先もリストは続くのですが、まったくその通りで、90年後の今となっては、当時のヨーロッパがなぜ共産主義にあれほどの期待を寄せたのかが不思議なぐらいです。もちろん当時はそうした同時代の雰囲気があったわけですが。
ラッセルがファシズムに反対する理由は共産主義に対するそれよりもいっそうシンプルです。いわく、共産主義の目的は分からないでもない(というのは、当時の資本主義にはあまりにも多くの問題があったから)。ただし、手段については上記の理由で賛成しない。一方のファシズムについては、手段はもちろん目的も好まない。
ファシズムは根本的な意味で反民主だとラッセルは言います。最大多数の最大幸福を政治原理として認めない。特定の国家や階級を最上のものとし、残りのものは選ばれた者のために尽くすように力によって強制される。たとえ一時的に成功したとしても、こんな体制が長続きするはずがない。なぜならば、経済的な国家主義に陥るから。ナチスを支持する勢力は国家的に組織された重工業で、彼らは戦争を必要としている。ファシズムが勝利を得るにしたがって戦争が近づく。戦争になるとすべてが崩壊し、ファシズムも一掃されてしまう。
ようするにファシズムは自殺的だということです。ファシズムはレッセフェール(自由放任主義)や社会主義のようなきちんとまとまった信念ではなく、感情的な反抗にその本質がある。経済的に苦しめられている一部の中産階級や誇大妄想の産業界の大立者が反抗しているだけ。ファシズムはその支持者が求めていることを果たし得ないという意味で不合理だ、と言い切っています。ラッセルの慧眼(けいがん)はその後の成り行きを正確に言い当てています。この文章の結論としてラッセルはこう言っています。
共産主義およびファシストの独裁のいずれも望ましいものでないとするなら、かような独裁をそれだけが選ぶべき道として、民主主義を古臭いとけなす傾向はなげかわしい。人々が以上の独裁をそれだけが選ぶべき道と思うなら、そういう道になるだろうし、そう思わないなら、そうならないだろう。
今の世の中は1930年代前半と比べものにならないほど穏健なものですが、相対的に権威主義が復興し、民主主義への懐疑が強まっているのは事実です。プーチンのような乱暴者が邪悪なのは言うまでもありませんが、それ以上に民主主義国家の政治が変なことになっている。「そう思わないなら、そうならない」——これが基盤にして基礎でありまして、結局は一人ひとりの人々が何を価値基準として生きるのかに帰結します。ラッセルの主張と議論はいまなお重要な示唆を与えていると思います。
「紹介されている本を読むよりも面白い」と評される、楠木建氏の書評を網羅した珠玉の書籍解説集。経営書から教養書まで、縦横無尽に語り尽くす。「今すぐに読みたくなる本」と出合える1冊。
楠木建著/日本経済新聞出版/2090円(税込み)

