人間の非合理な意思決定のメカニズムを解明する「行動経済学」と、我々はどのように付き合えばよいのだろうか。「経済学の書棚」第31回前編では、生活や仕事の中で使えるようになることをテーマにした『世界は行動経済学でできている』、非合理な意思決定をもたらす要因によって様々な理論を分類し「体系化」を目指す『行動経済学が最強の学問である』、行動経済学を活用してより良い意思決定を実現しようとする考え方、ナッジに焦点を当てて解説する『行動経済学の使い方』を紹介する。

米国の行動経済学者がノーベル経済学賞を相次ぎ受賞して一般の知名度も上がり、行動経済学を取り扱う一般向けの書籍をよく目にするようになった。「経済学の書棚」第31回前編では、行動経済学との付き合い方が分かる本を紹介する
米国の行動経済学者がノーベル経済学賞を相次ぎ受賞して一般の知名度も上がり、行動経済学を取り扱う一般向けの書籍をよく目にするようになった。「経済学の書棚」第31回前編では、行動経済学との付き合い方が分かる本を紹介する
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日常生活や仕事で使える学問

 人間の非合理性に注目する行動経済学が日本の経済学界に根を下ろすようになったのは2000年前後からである。米国の行動経済学者がノーベル経済学賞を相次ぎ受賞して一般の知名度も上がり、行動経済学を取り扱う一般向けの書籍をよく目にするようになった。今回は、そんな本の一部を取り上げ、行動経済学との付き合い方を考える。

 橋本之克著『 世界は行動経済学でできている 』(アスコム/2025年2月刊)は、具体的な行動経済学の使い方を伝え、面白く、分かりやすく行動経済学を学べることを重視した本。著者は「行動経済学コンサルタント」として企業の戦略策定などに携わってきた。

『世界は行動経済学でできている』(橋本之克著)。具体的な行動経済学の使い方を伝え、面白く、分かりやすく行動経済学を学べることを重視した本。画像クリックでAmazonページへ
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 行動経済学の本は、企業のマーケティングや商品開発、公共関係など行動経済学をうまく活用して人々を「誘導する側」向けになりがちだが、著者は、個人が生活や仕事の中で行動経済学を使えるようになることをテーマにしたと説明している。

 伝統的な経済学では、正確な情報を集め、合理的な判断を下す人間像を前提に議論を展開する。一方、行動経済学では、人間の行動が現実には必ずしも合理的ではなく、しかも行動のズレには一定の規則性があることを様々な実証実験によって明らかにしてきた。

 同書では、定番となっている行動経済学の概念を順に取り上げ、日常生活での活用法を指南する。

 例えば、「アンカリング効果」の項では、「同期が自分より先に出世してしまった」「後輩がどんどん成績を伸ばして活躍している」という描写から入り、こんなとき心がモヤモヤして妬(ねた)ましい、腹立たしいという気持ちになってしまうとすれば、あなたは行動経済学で言う「アンカリング効果」にハマってしまっているかもしれないと注意を促す。

 その上で、アンカリング効果とは、「アンカー」(船のいかり)の位置によって、情報の判断が歪(ゆが)められてしまうことだと解説する。人間は最初にたまたま見た数字や、他人の行動など間違った位置にアンカーを下ろし、誤った判断をしてしまう傾向がある。

 出世した同期や後輩に嫉妬してしまうのは、アンカーの位置を間違えているためであり、嫉妬の感情に苦しみ、自己肯定感を下げていると診断する。自分は自分、他人は他人と割り切り、他人の行動や立ち位置を気にしないというのが根本的な対処方法だが、なかなか難しい。そこで、同僚や後輩ではなく、3年前や1年前の過去の自分にアンカーを下ろせば、「3年前はできなかったことが、今はできるようになっているな」「あのころと比べたら、余裕をもって商談の準備ができているな」など、自分にとってプラスとなる評価ができるようになるはずだと助言している。

 同書には、○○効果、○○バイアス(偏り)といった行動経済学の基本概念が次々と登場し、それぞれの概念の根拠となっている実証実験にも触れている。実験の詳細や理論的な説明には踏み込んでいないが、行動経済学の応用範囲の広さがよく分かる。日常生活や仕事、消費行動などの改善に役立つ項目や助言が見つかれば、参考にすればよいだろう。

 相良奈美香著『 行動経済学が最強の学問である 』(SBクリエイティブ/2023年6月刊)は米オレゴン大学大学院やビジネススクールで行動経済学を学び、「行動経済学コンサルタント」として活動する著者による入門書だ。

『行動経済学が最強の学問である』(相良奈美香著)。米オレゴン大学大学院やビジネススクールで行動経済学を学び、「行動経済学コンサルタント」として活動する著者による入門書。画像クリックでAmazonページへ
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 行動経済学は人間の非合理な意思決定のメカニズムを解明する学問であり、経済学と心理学が融合してできた。経済学は人間を研究対象としているにもかかわらず、非合理である人間の心理面を考慮していなかった。2つの融合によって行動経済学が誕生し、経済活動における人間の行動全般を解明できるようになったという。

主要な理論を3つに分類

 同書によると、行動経済学は人間の行動を理解する理論の集まりだが、分野やカテゴリー分けがされておらず、混沌として理論同士にもつながりがなかった。行動経済学は新しい学問であり、まだ整理されていない。行動経済学を学ぼうと思ったら、それぞれの理論を断片的に丸暗記するしかない。そこで、非合理な意思決定をもたらす要因(認知のクセ、状況、感情)によって、様々な理論を3つに分類し、「体系化」を目指している。

 1つ目の要因である認知のクセとは、人間の「脳の情報処理の仕方」そのものに存在する「歪み」を指す。人間の脳の中にそもそも非合理な意思決定を生む仕組みがあるのだ。この仕組みを解明する中から、「システム1(直感)とシステム2(論理)」、計画の誤謬(ごびゅう)、自制バイアス、確証バイアス、メンタル・アカウンティング(心理会計)といった様々な概念が生まれている。3つの要因のうち最も基盤となる要因だとみる。

 2つ目の要因は状況である。人間は自分で主体的に判断しているのではなく、周りの状況に判断させられている。天気の良し悪し、周りに人がいるか否か、物や人の位置や順番などが人間の判断に大きな影響を与えている。情報量や選択肢の多さも人の判断を左右する。

 「選択アーキテクチャー(選択の環境設計)」が有名であり、環境を操作して人を自分が望む方向に動かすというものだ。これ以外にも「フレーミング効果」「おとり効果」「感情移入ギャップ」など数多くの概念がある。

 3つ目の要因は感情だ。感情には強い感情を示す「エモーション」と淡い感情である「アフェクト」があり、人はアフェクトの方を頻繁に感じているため、非合理な意思決定の原因を考えるときにもアフェクトに注目するべきだと指摘する。ここからも、「心理的所有感」「境界効果」「目標勾配効果」といった概念が生まれている。

 企業や政府、公的機関などは行動経済学の知見を活用して人々の行動に影響を与えている。行動経済学を教養として身につければ、消費者側としては企業の戦略に乗せられないように賢くなれる、企業側としては顧客にサービスや商品をより多く楽しんでもらうための戦略家になれるとアピールしている。

社会課題の解決にも有効

 最終章では、自己理解・他者理解、サステナビリティ(持続可能性)、DEI(ダイバーシティ=多様性、エクイティ=公平性、インクルージョン=包括性)といった課題に対しても行動経済学の知見が役立つ事例を挙げている。

 大竹文雄著『 行動経済学の使い方 』(岩波新書/2019年9月刊)は行動経済学を日本の経済学界に定着させるのに大きく貢献してきた著者による入門書だ。

『行動経済学の使い方』(大竹文雄著)。行動経済学を日本の経済学界に定着させるのに大きく貢献してきた著者による入門書。画像クリックでAmazonページへ
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 行動経済学の考え方、中核となる理論、行動経済学を活用した介入の手法であるナッジについて解説し、その応用例を仕事、健康、公共政策の分野ごとに紹介している。ビジネスの世界だけではなく、防災や医療、税の徴収など公共の目的にも幅広く応用できると説く。

4大理論の基礎を解説

 同書によると、人間の生活は意思決定の連続だ。行動経済学は、伝統的な経済学で考えられている合理性から系統的にずれるバイアスの存在を示し、整理してきた。

 人間の意思決定のクセは、確実性効果と損失回避からなる「プロスペクト理論」、時間割引率(現在と将来を比べ、現在の楽しみを優先する傾向)の特性である「現在バイアス」、他人の効用や行動に影響を受ける「社会的選好」、合理的な推論とは異なる直感に基づく意思決定である「ヒューリスティックス」の4つに大別できる。

 第1章では、4大理論の基礎を順に解説している。プロスペクト理論は、行動経済学の創始者といえるダニエル・カーネマン(2002年にノーベル経済学賞を受賞)とエイモス・トベルスキーが考案した理論で、行動経済学の根幹をなす。プロスペクトは、見通しや期待を意味する言葉だ。確実なものと、わずかに不確実なものがあるとき、確実なものを強く好む傾向を確実性効果と呼ぶ。同じ金額の利得と損失では、損失の影響の方が大きいと感じ、損失を避ける傾向が損失回避である。同書では4大理論から派生した様々な概念や仮説も取り上げており、行動経済学の全体像をつかめる。

 第2章はナッジの解説だ。ナッジの意義、設計の方法、実用例を取り上げ、ナッジの効果を示す。

 人間の意思決定の歪みを行動経済学の特性を活用して、よりよいものに変えていこうとする考え方がナッジで、軽く肘でつつくという意味の英語が由来である。リチャード・セイラー(2017年にノーベル経済学賞を受賞)はナッジを「選択を禁じることも、経済的なインセンティブを大きく変えることもなく、人々の行動を予測可能な形で変える選択アーキテクチャーのあらゆる要素を意味する」と定義している。

 ナッジに対しては、(1)人々の自由な選択を歪めている、(2)学習の機会を奪う、(3)ナッジを作る政府や官僚にも偏見やバイアスがある、(4)ナッジによって特定の製品が好まれるようになると、自由な市場競争に影響を与え、最終的に消費者が不利益を被る、といった批判がある。

 こうした批判には、(1)ナッジでは選択の自由が保障されており、また、選択の自由が必ずしも本人の満足度を高めることにならない、(2)人生で何度も行わないような意思決定には当てはまらない。また、情報や学習機会を提供するようなナッジであれば問題ない、(3)政府がナッジを用いる場合には透明性と説明責任を課すことで対応すべきである、(4)ナッジは市場が失敗する場合に、外部性を減らしたり、市場競争を促進したりするような形で導入すべきものであり、自由な市場競争と対立するものではない、とそれぞれ反論している。

人間の満足度を上げる仕組みを考えよう

 第3~第8章は応用編である。仕事の意欲、同僚の影響、長時間労働、年功賃金、治療方法の選択、ワクチン接種、献血、消費税と所得税の比較、社会保険料の負担などテーマは幅広い。「教育をして、正しい判断ができるようにすることは大事だが、わかっていてもできないのが人間だ。そうした人間の特性を考えた上で、世の中の仕組みを考えた方が私たちの満足度は上がるのではないだろうか」と訴えている。

(後編へ続く)

写真/スタジオキャスパー