人間の非合理な意思決定のメカニズムを解明する学問として注目されている「行動経済学」だが、その信頼性については重大な疑問符が突きつけられている。「経済学の書棚」第31回後編は、行動経済学の中心理論であるプロスペクト理論に注目してこの問題の経緯を詳しく紹介する『行動経済学の真実』、同じ著者がこの問題をさらに掘り下げた『行動経済学の死』、経済学者の間では常識でも一般社会では常識になっていないことも多いと警鐘を鳴らす『行動経済学の処方箋』を取り上げる。

行動経済学は本当に信頼できる学問なのか。「経済学の書棚」第31回後編では、行動経済学の研究者の立場から、この問題を一般向けに解説し、行動経済学との付き合い方を提言する書を紹介する
行動経済学は本当に信頼できる学問なのか。「経済学の書棚」第31回後編では、行動経済学の研究者の立場から、この問題を一般向けに解説し、行動経済学との付き合い方を提言する書を紹介する
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実験の再現性に疑問符

 2020年、1人の研究者が行動経済学に重大な疑問符を突きつけ、大きな反響を呼んだ。著名な行動経済学者のデータ捏造(ねつぞう)疑惑も浮上し、行動経済学は本当に信頼できる学問なのかという声も広がった。後編では、行動経済学の研究者の立場から、この問題を一般向けに解説し、行動経済学との付き合い方を提言する書を紹介する。

 川越敏司氏は『 行動経済学の真実 』(集英社新書/2024年9月刊)で、この問題の経緯を詳しく紹介している。川越氏は現在、行動経済学会会長を務めている。

『行動経済学の真実』(川越敏司著)。行動経済学会会長を務める著者が、行動経済学の信頼性に対する疑問に答える。画像クリックでAmazonページへ
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 問題の発端は、米ウォルマートの行動科学研究グループのリーダーであったジェイソン・フレハが2020年に公表した「行動経済学は死んだ」というタイトルのブログ記事だ。フレハが行動経済学に投げかけた疑問点は主に2つあった。

 1つ目は、「損失回避性」など行動経済学の主要な発見には再現性がないという主張だ。損失回避性はプロスペクト理論の重要な構成要素である。行動経済学の中核といってよい。ところが、損失回避性の検証を試みた最近の研究では、その存在を支持する証拠が得られず、再現性がない信用できない理論だと結論付けた。

 2つ目はナッジの効果についてである。英国や日本などでは、ナッジの成功事例を集め、活用を支援する組織を政府内に設立し、すっかり定着しているように見える。フレハはナッジが効果を発揮しなかったり、効果があっても微々たるものであったりした事例を示し、ナッジの効果はほとんどないとの結論に達した。

 同書は、行動経済学の中心理論であるプロスペクト理論に焦点を当てる。参照点依存性(第2章)、保有効果(第3章)、損失回避性(第4章)、フレーミング効果(第5章)といった、プロスペクト理論から導かれる主な効果や「傾向性」について検証を試みた研究を順に取り上げ、再検証している。

 各章の冒頭で古典的な実験を紹介し、その結果を、プロスペクト理論を使って理解する。これに続いて後続の主な研究を紹介し、プロスペクト理論が検証されたかどうかを確認している。厳密に再検証をしているため、専門的な記述が多く、難度はやや高い。

決定的な証拠はない

 プロスペクト理論は反証されたのか。検証を試みた様々な研究を精査したところ、「プロスペクト理論は検証されたとか、あるいは逆に反証されたといった決定的な証拠は得られなかった」と率直に述べる。その上で、「そもそも理論上の仮説を検証・反証する実験が計画されたとき、その仮説は様々な補助仮説とともにしかテストできない」とするデュエム=クワインのテーゼに言及し、プロスペクト理論を検証する、あるいは反証する決定的な実験はありえないとの見方を示す。理論を覆せるのは理論だけだという考え方だ。そうであるなら、プロスペクト理論を検証した、あるいは反証したという論文や記事には一喜一憂しない方がよいという教訓を導き出している。

学会で不可欠な存在に

 加えて、保有効果やフレーミング効果、損失回避性といった概念は経済学の研究においてもはや不可欠なものとなっている。プロスペクト理論は決して「決定的証拠」によってサポートされているわけではないが、経済学に実り豊かな研究課題をもたらしている。有益な仮説を生み出す理論としては、もうすでに学会に受け入れられていると強調する。

 ただ、保有効果やフレーミング効果は損失回避性の概念を導入しなくても説明できる場合があり、行動経済学の理論を研究やビジネスの現場で用いる際には注意が必要だと断っている。

 再現性が低い行動経済学は信頼に足る学問なのかという問いに対する直接の回答にはなっていないが、研究者としての誠実な姿勢が表れている。

 川越氏は『 行動経済学の死 再現性危機と経済学のゆくえ 』(ハヤカワ新書/2025年4月刊)で、この問題をさらに掘り下げている。本のタイトルだけを見ると、行動経済学の終焉(しゅうえん)を認定した本だと想像する人もいるかもしれないが、同書は前掲書と連結しており、基本的な主張は変わらない。

『行動経済学の死』(川越敏司著)。行動経済学は学会でどのように取り扱われ、伝統的な経済学との対立関係がどう変化してきたのかを振り返り、「行動経済学の死」の受け止め方について論じている。画像クリックでAmazonページへ
『行動経済学の死』(川越敏司著)。行動経済学は学会でどのように取り扱われ、伝統的な経済学との対立関係がどう変化してきたのかを振り返り、「行動経済学の死」の受け止め方について論じている。画像クリックでAmazonページへ

 同書では、フレハが唱えた「行動経済学の死」を詳しく取り上げた上で、経済学全般における再現性危機の問題に触れる。さらに、行動経済学は学会でどのように取り扱われ、伝統的な経済学との対立関係がどう変化してきたのかを振り返り、「行動経済学の死」の受け止め方について論じている。

裏付けが乏しい損失回避性とナッジ

 第1章では、損失回避性の有無を検証する研究を再検討し、ダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーがプロスペクト理論に関する論文を公表して以来、今日に至るまで経験的証拠によって実証された仮説ではないと断じる。

 第2章では、ナッジの効果に関する研究を取り上げ、「ナッジの効果は特定の分野や特定の介入手段を除いては、全体的には非常に小さいか、ほぼゼロに近いということが明らかになった。したがって、ナッジの効果は限定的であると結論せざるをえない」と述べている。

 ここまでの記述では完全に白旗を揚げているかのような印象を受けるが、川越氏は後半で行動経済学の歴史を振り返りつつ、前掲書と同様の主張を打ち出す。

 川越氏によれば、行動経済学は2000年ごろまでは、伝統的な経済学と対立関係にあり、学会には行動経済学の成果を受け入れるのに否定的な傾向があった。しかし、2000年前後を境にそうした傾向は変わった。それは、行動経済学の知見が経験的証拠によって確証されたからではない。行動経済学と伝統的な経済学を両極端として含む一般理論が登場したことで、学会の態度に変化をもたらした。これらの一般理論を用いれば、行動経済学の主張は決して異端ではなく、伝統的な経済学の延長線上にあることを示せるようになったという。

 「行動経済学の死」についても独自の受け止め方を披露する。行動経済学は2020年にフレハによって死を宣告されたのではない。2000年前後に伝統的な経済学に取り入れられたときに「最初の死」を迎え、「二度と死ぬことはできなくなった」というのだ。仮に行動経済学が反証されるのなら、伝統的な経済学も同時に反証されることになるからだ。

プロスペクト理論は一般理論か

 プロスペクト理論は、損失回避度λを変数として、λ>1の場合には行動経済学、λ=1の場合は伝統的な経済学を表すような一般理論なのだ。行動経済学の理論は不合理な行動を表現したモデルではない。一見、不合理に見える選択も、損失回避性や利他性を組み込んだ効用関数のもとで効用を最大化した結果であり、合理的選択であることを主張する理論になっている。伝統的な経済学の理論もまた行動経済学の一種といえるとの認識を示している。

 川越氏の見解に対する賛否はともかく、そもそも行動経済学の仮説や理論は、様々な実験結果による帰納推論から生まれてきたはずである。数々の実験結果に疑義が生じている以上、行動経済学の存在自体に疑義が生じるのは当然だ。理論や仮説の根拠が揺らいでいるのであれば、個人や企業、政府などに行動経済学の活用法を安易に説くのは無責任な行為ではないだろうか。

 プロスペクト理論を中核とする行動経済学の理論が伝統的な経済学を包摂する一般理論たりえているのかどうかも議論の余地が大きい。

 この問題に直接、言及した本ではないが、大竹文雄著『 行動経済学の処方箋 働き方から日常生活の悩みまで 』(中公新書/2022年11月刊)の中に参考になる記述がある。

『行動経済学の処方箋 働き方から日常生活の悩みまで』(大竹文雄著)。行動経済学をはじめとする経済学の研究成果を一般向けに紹介する本。画像クリックでAmazonページへ
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 同書は、行動経済学をはじめとする経済学の研究成果を一般向けに紹介する本だ。研究の蓄積を、貯金、仕事、人間関係、感染対策や税制などに生かす方法を伝授する。

経済学者と世間の常識にギャップ

 同書のプロローグ「経済学の常識、世間の常識」では、専門家の知識である専門知を政策に生かすためにはいくつかの前提条件があると指摘している。

 第1は、専門家の間での判断がある程度一致していること。第2に、専門家の間で判断が一致していることが、社会にも理解され、受け入れられること。論理的に複雑で、世間一般の人に理解できない場合であれば、専門家への信頼が重要になる。

 第3に、専門家が前提としている価値判断と、世間の人々の価値判断が一致していること。

 大竹氏は、経済学者の間では常識でも、一般社会では常識になっていないことも多く、経済学者の常識と世間の常識の間にギャップが生まれているとみる。

 ギャップには様々なタイプがあるが、その一つに「経済学は冷酷な人間を前提にした学問だ」という世間の常識がある。現在の経済学は他人のことを考える人間を想定している。このような現実的な人間像を取り入れた行動経済学は経済学の一分野になっていると説明し、常識のギャップを縮めようとしている。

 川越氏や大竹氏が指摘するように、行動経済学の理論や仮説は専門家の間での議論や実証実験を経て学会全体の「常識」といえる存在になったのだろうか。経済学者の間にはなお、行動経済学の存在意義を問う厳しい声が少なくない。行動経済学の研究者には引き続き、説明責任が求められるだろう。

写真/スタジオキャスパー