学校の成績、人事考課、健康指標から幸福度まで、人々は数字に取り囲まれながら生活している。数値化には利点がある一方で、問題もある。「経済学の書棚」第43回前編は、数字に振り回される人生からの脱却を説く『「数値化」中毒』、人間の成功と失敗を定量化する類の測定を問題視する『測りすぎ』、経済学史を交えながら国内総生産(GDP)の限界を突き、測定基準の根本を問い直す『今こそ経済学を問い直す』を紹介する。

現代人は数値やランキングに取り囲まれながら日常生活を送っている。こうした「数値化」には利点がある一方で、問題も引き起こしている。「経済学の書棚」第43回前編では、「数値化」をテーマとする著作を取り上げる
現代人は数値やランキングに取り囲まれながら日常生活を送っている。こうした「数値化」には利点がある一方で、問題も引き起こしている。「経済学の書棚」第43回前編では、「数値化」をテーマとする著作を取り上げる
画像のクリックで拡大表示

数字で評価される自分の価値

 現代人は数値やランキングに取り囲まれながら日常生活を送っている。学校の成績、労働の生産性、経済成長率、健康状態、収入や資産の規模から「幸福度」に至るまで、数値はミクロとマクロの両面にわたる。こうした「数値化」には利点がある一方で、問題も引き起こしている。今回は「数値化」をテーマとする著作を取り上げる。

 心理学者の小塩真司著『 「数値化」中毒 なぜ手段が目的に変わるのか 』(PHP新書/2026年3月刊)は「数字に振り回される人生」からの脱却を説く書だ。

『「数値化」中毒 なぜ手段が目的に変わるのか』(小塩真司著)。心理学者の著者が「数字に振り回される人生」からの脱却を説く書。画像クリックでAmazonページへ
『「数値化」中毒 なぜ手段が目的に変わるのか』(小塩真司著)。心理学者の著者が「数字に振り回される人生」からの脱却を説く書。画像クリックでAmazonページへ

 受験、就職、職場など私たちは普段の生活の中で「数字で自分が評価される」ということに、あまりにも慣れすぎている。数値は測りやすいものだけに集中して測定されるものだが、私たちが結果として示される数字を見たときには、あたかもあらゆるものがそこに含まれているかのように思ってしまう。「これがあなたの結果です」と示されれば、それが「私の価値そのものだ」と感じてしまう。

 こんな描写に続き、著者は「常に自分の位置を明確にする必要というのは、実はそれほどないはず」であり、「自分の位置が曖昧であることにも意義はある」との認識を示す。

 さらに、測定や数値化の結果が意味を持つようになると、測定のための指標が、行動の目標に転化し、問題を引き起こす。

 例えば、死亡率の低さを医療機関の成果指標にすると、手術に成功しやすいリスクの低い患者ばかりを選別する傾向が見られるようになった。高校全体が、国公立大学の合格者数という数値の改善に向かうようになり、「どんな学びを実現したか」という、本来はより重要な側面が見えにくくなっていく。

 数値が評価や報酬、あるいは社会的信用に結びつくと、人々の行動の理由づけは、「より良い成果を得るため」から「数値を高めるため」へとすり替わっていく。

 このような「手段の目的化」は教育、医療、ビジネス、行政など、あらゆる分野に浸透しており、「私たちは数値を信じ、数値のために動き、数値に動かされる社会に生きている」と懸念する。

「経済指標に頼った管理は無効」と説いたグッドハート

 イギリスの経済学者、チャールズ・グッドハートは、政府が経済指標を使って金融システムを管理しようとすると、人々がその指標の動きを予測して行動を変えるため、政策の効果が失われてしまう現象に注目した。これを一般化したものが、「グッドハートの法則」(ある指標が目標となると、それはもはや良い指標ではなくなる)であり、あらゆる分野に適用できる普遍的な洞察として知られるようになったと、数値化の弊害を裏付ける仮説を紹介している。

 数値化の問題と関連するのが「予測」である。現代社会では、うまく将来が予測できるような概念に「価値がある」と見なされる。模擬試験の偏差値によって受験の結果を予測できると多くの人々が考えているから、偏差値を重視するのはその一例だ。

 しかし、実際の人間の発達や創造的な変化は、しばしば「予測を裏切る」ところにこそ起こる。「予測できないもの」にも意味があることを忘れてはならないと強調する。著者は同書のまとめとして、これから私たちが意識すべきポイントを列挙する。以下にその項目だけを示す。

  1. 測定は「道具」であり「目的」ではない
  2. 測ることができないことの価値を忘れない
  3. 集団の最適化と個人の幸福を混同しない
  4. 予測は未来を保証しない
  5. 多層的な自己理解を取り戻す
  6. 不完全な道具と賢く付き合う

 最後の項目にある「道具」とは、評価指標やAI(人工知能)モデルを指す。不完全な道具とともに変化し続ける自分自身と世界を理解しようとする姿勢が、「測定の時代」を生きる私たちに求められる新しい知恵ではないかと結んでいる。

 小塩氏が参照した文献の中に、ジェリー・Z・ミュラー著『 測りすぎ なぜパフォーマンス評価は失敗するのか? 』(松本裕訳/みすず書房/2019年4月刊)がある。2026年1月に第18刷を刊行したヒット作だ。

『測りすぎ なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?』(ジェリー・Z・ミュラー著)。歴史学者の著者が、専門家として経験した「測定基準の暴挙」が、社会におけるもっと幅広いパターンを反映するものだと気づき、執筆を思い立った書。画像クリックでAmazonページへ
『測りすぎ なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?』(ジェリー・Z・ミュラー著)。歴史学者の著者が、専門家として経験した「測定基準の暴挙」が、社会におけるもっと幅広いパターンを反映するものだと気づき、執筆を思い立った書。画像クリックでAmazonページへ

 著者は歴史学者である。専門家として経験した「測定基準の暴挙」が、社会におけるもっと幅広いパターンを反映するものだと気づき、執筆を思い立ったという。

 「なぜ測定基準がこれほど人気になったのか」と題する章では、いくつかの要因を挙げている。以下は原文からの一部抜粋だ。

権力への不信感が数値信仰を生む

  • 開放的で入れ替わりが多いエリート層が存在する能力主義社会では、判断の基盤とするために一見客観的に思える基準を求める可能性が高い。
  • 説明責任の数値的測定基準の探求は、社会的信頼が低いことが特徴の文化では特に魅力的に映る。権力に対する不信感は、1960年代以来ずっとアメリカ文化の基調であり続けた。
  • 職業倫理に疑問が持たれる専門家たちを監視するため、より多くの測定を要する。消費者選択イデオロギーの影響の高まりが、こうした傾向と密接にかかわっていた。
  • 組織(企業、大学、政府機関)がより大きく、より多様になっていく中、経営トップがすべてを理解することは不可能。新任のトップが組織にダイナミズムや変化を注入したいのであれば、「数字」に手をつけることが、組織を理解するのに一番の近道のように思える。
  • 情報技術(IT)の広がりでデータを集める機会が増え、それにかかるコストが減ったことが、データこそが答えだというミームを広めた。

 測定基準の普及が意図せぬ弊害をもたらしている事例を紹介するパートでは、大学、学校、医療、警察、軍、ビジネスと金融、慈善事業と対外援助などにそれぞれ1章を充てている。

 例えば、大学を取り上げた章では、大学の卒業率、大学ランキング、教育の質評価、学術的論文の数などの問題点を明らかにしている。「人的資本と経済成長への貢献を研究する、世間知らずの経済学者たちは、測定単位の妥当性にはたいして関心を持たずに、統計的妥当性の確実な測定をあれこれ組み合わせて使っている」と厳しい視線を注ぐ。

大学が果たすべき役割とは

 大学の果たすべき正当な役割の一つは、高校生や大学生を市民、友人、伴侶としての役割が果たせるように備えさせること、知的な豊かさを得られる人生に備えさせることである。市場で売れる技術を教えることも正当な役割ではあるが、将来、高賃金を得る力だけに高等教育をまるごと従属させるというのは、曲がりきった定規で測るのと同じことなのだと糾弾している。

 著者は「実績を測定するのに、内在的に有害なことは何もない」と測定の意義を認めている。測定データは「客観的な判断に役立つ対照点」となり得るが、「人間の成功と失敗を定量化する類の測定」を問題視しているのだ。

 最終章では、実績測定を成功させるためのチェックリスト(全部で10項目)を示している。測定実績を得る際にかかるコスト、測定方法を誰がどのようにして開発したのか、などの確認を求める実践的な内容だ。

 経済学史が専門の中村隆之氏は『 今こそ経済学を問い直す 切実な「必要」の声を聴くために 』(講談社現代新書/2026年1月刊)で測定基準の代表格である国内総生産(GDP)の限界を突く。測定基準の根本を問い直す書だといえる。

『今こそ経済学を問い直す 切実な「必要」の声を聴くために』(中村隆之著)。測定基準の代表格であるGDPの限界を突いた測定基準の根本を問い直す書。画像クリックでAmazonページへ
『今こそ経済学を問い直す 切実な「必要」の声を聴くために』(中村隆之著)。測定基準の代表格であるGDPの限界を突いた測定基準の根本を問い直す書。画像クリックでAmazonページへ

 同書では、GDPを大きくすること(金銭の支払意思で示される購買欲求をより多く満たすこと)とは別に、人々が本当に求めているものという意味で、「必要」の概念を中核に据えている。

 豊かに生産して財(およびサービス)を生みだすことがよいという価値観は、経済学の始まりから強く存在し、われわれの思考を道徳的にも拘束している。生産に貢献した人を称え、あまり貢献しない人を低く評価する。そこで、「必要」概念を広くとり、本当に求めるものに近づけることで、GDPを追求する従来の価値観を乗り越えたいと力を込める。

経済学には「平等」のロジックがない

 著者によると、通常の経済学には規範として「平等」を主張できるロジックがないが、効率としての平等論は古くからある。貧しい家庭を減らせば全体の効率が上がり、「誰もが得をする」からよしとする思考法は、アダム・スミスからジョン・スチュアート・ミル、アルフレッド・マーシャルに引き継がれた。ミル、マーシャルは普通の経済学者たち以上に公平を気にし、貧困を問題視する優しさを持っていたが、カール・マルクスに由来する「必要に応じた分配」という理想を現実には追求できないという判断を下した、と解釈している。

 市場の秩序形成機能に異を唱えたジョン・メイナード・ケインズの思想にも触れる。市場が適切な評価を与えるとは言えず、雇用・所得の安定、リスクへの保障、公正な評価を求める「必要」に応えるべきだとの考え方は、第2次世界大戦後の福祉国家体制につながるとの見方を披露する。

 以下は著者による戦後史の抜粋である。

 福祉国家体制は「必要」に配慮するという理念をもって開始し、高度成長という大きな成果を達成した。しかし、経済成長の下で「誰もが得をする」分配をくりかえすことで、なぜ「必要」に応えるのか、なぜ分配するのかを考えなくなった。

 経済成長率が低下すると、「必要」に応えるという理念を捨て、市場こそが正しいとする新自由主義が採用された。

 ここで著者は、「福祉国家の失敗への対処法は市場化の推進ではなく、コミュニティの再建だ」と唱えた経済学者、カール・ポランニーに言及する。どんな「必要」に応えるべきかについて異なる立場の間での水平的な対話が成り立つコミュニティを作ることだとポランニーの主張を読み替える。

 さらに、厚生経済学の祖であるアーサー・セシル・ピグー、『正義論』のジョン・ロールズの思想に触れたうえで、アイリス・マリオン・ヤングの思想に着目する。ヤングはフェミニズムから出発し、研究対象を、社会問題全般を扱う政治哲学に広げた。

「責任の社会的つながりモデル」に注目

 ヤングは、責任ある者と責任ない者の選定を行わず、構造に荷担した者たちすべてが責任を分有する「責任の社会的つながりモデル」を提唱した。ヤングには「構造的不正義を是正するための負担を一体誰がするのか」との批判が向けられた。

 著者はヤングの構想を実現する方法として、企業の社会的責任を法制度上の義務とし、(1)企業の利益が、社会的に正当な方法によって得られたことを説明する責任と(2)企業の富の一定割合を公共の目的のために使用する責任を法律に盛り込むことを提案する。

 もう一つの案が、「必要ポイント制」の導入である。難病などの「必要」を抱えた個人には専門家が判定してポイントを付与する。性差別など構造的な不正義の問題を社会の人々が認知すれば、その程度に応じて個人にポイントを与え、問題解決に貢献する企業や団体はポイントを得られる。金銭で動く市場経済とは別の、「必要」で動くもう一つの経済を作り出すのが狙いだ。

 われわれは、GDPが大きいという意味では豊かな社会に生きているはずである。にもかかわらず、幸福で充実しているとは言えない。それは多くの人が「必要」を抱えながら、それが満たされず、表明することすらなく生きなければならないからではないか、と問いかけている。

(後編に続く)

写真/スタジオキャスパー