デジタル化は経済分析や経済政策にも様々な影響を与え、経済学そのものの再考が必要なのではないか。「経済学の書棚」第22回後編は、デジタル化に既存の経済学が追い付いていない現状を報告し、新たな枠組みを提案する『経済学オンチのための現代経済学講義』、経済政策決定の最重要指標である国内総生産(GDP)の欠陥が経済の変化によって顕著になっているとする『GDP 〈小さくて大きな数字〉の歴史』を取り上げる。

前編「 現代経済学の基本と成り立ちを学べる入門書

経済学には数多くの入門書や教科書がある。「経済学の書棚」第22回後編では、デジタル化が経済分析や経済政策に与える影響を様々な角度から論じる「問題提起型」の入門書を紹介する
経済学には数多くの入門書や教科書がある。「経済学の書棚」第22回後編では、デジタル化が経済分析や経済政策に与える影響を様々な角度から論じる「問題提起型」の入門書を紹介する
画像のクリックで拡大表示

デジタル化で揺らぐ「合理性」の仮定

 経済や社会にデジタル化の波が押し寄せ、現代経済学に変革を迫っている。後編では、デジタル化が経済分析や経済政策に与える影響を様々な角度から論じる「問題提起型」の入門書を紹介する。

 英ケンブリッジ大学教授のダイアン・コイル著『 経済学オンチのための現代経済学講義 』(小坂恵理訳/筑摩書房/2024年1月刊)は、デジタル化の進行に既存の経済学が追い付いていない現状を報告し、新たな枠組みを提案する書だ。

『経済学オンチのための現代経済学講義』(ダイアン・コイル著)。デジタル化の進行に既存の経済学が追い付いていない現状を報告し、新たな枠組みを提案する書。画像クリックでAmazonページへ
『経済学オンチのための現代経済学講義』(ダイアン・コイル著)。デジタル化の進行に既存の経済学が追い付いていない現状を報告し、新たな枠組みを提案する書。画像クリックでAmazonページへ

 同書の原題は「COGS AND MONSTERS」。COG(コグ)は歯車の歯の意味で、主流派経済学が仮定する利己的な個人を指す。MONSTER(モンスター)は束縛のないデジタル経済が引き起こす現象のたとえであり、社会への影響が雪だるま式に拡大しているとコイル氏は認識している。

 同書では、デジタル化というモンスターが、合理的な個人(コグ)を仮定する主流派経済学を脅かしつつある現状を詳細に綴(つづ)っている。経済学の基礎を体系立てて解説する通常の入門書とは記述のスタイルが大きく異なるが、通読すると現代経済学の現状と課題を把握できる。

 経済学者が効率を基準に「何が機能するか」を評価する内容と、人々が信じる内容や望む内容とが食い違うケースが増えた。合理的な経済人という構成概念が一部の状況で通用しないことを示す、圧倒的な証拠がある。「たとえ合理的でなくても、いや筋が通らなくても、人々がそちらのほうを優先したいときはある」。

 また、デジタル経済には巨大な相互依存性があり、個人や企業の選択は他の個人や企業に影響を及ぼす。人々はそれぞれ安定した選好を持つというミクロ経済学の前提が崩れている。

GDP統計の限界

 コイル氏は、マクロ経済政策を決定する際の基礎データとなっている国内総生産(GDP)の欠陥も顕著になっているとみる。GDPはそもそも戦時中にできた指標であり、経済厚生の測定には明らかにふさわしくない。1人当たりGDPの増加と、生活水準が停滞または落ち込んでいる大勢の人たちの経験は、多くの国で食い違っている。GDPの数値は国内の所得分布を正確に反映しておらず、GDPの増加は経済厚生の利益を誇張しているという批判もある。

 その一方、テクノロジー分野や金融市場からは、「デジタルへの移行がもたらした利益を考慮しておらず、確実に過小評価している」と非難する声が上がっているという。

 コイル氏は『 GDP 〈小さくて大きな数字〉の歴史 』(高橋璃子訳/みすず書房/2015年8月刊)で、GDP統計が誕生した経緯を紹介し、統計としての限界について論じている。同書でもデジタル化の影響に触れており、この時点ですでにモンスターの存在を強く意識していたことが分かる。

『GDP 〈小さくて大きな数字〉の歴史』(ダイアン・コイル著)。GDP統計が誕生した経緯を紹介し、統計としての限界について論じている書。画像クリックでAmazonページへ
『GDP 〈小さくて大きな数字〉の歴史』(ダイアン・コイル著)。GDP統計が誕生した経緯を紹介し、統計としての限界について論じている書。画像クリックでAmazonページへ

 先進国経済では、サービスや「無形資産」が存在感を増し、形のない無償のオンライン活動などが活発になっている。質と量を区別するのが難しくなったばかりか、量という概念さえ当てはまらなくなっている。GDPと人々の豊かさとの隔たりは以前よりも大きくなった。商品の多様化とカスタマイズはますます進み、クリエイティブな職業では仕事と遊びの境界線が薄れてきているという。

 『経済学オンチのための現代経済学講義』では、こうした認識を踏まえ、20世紀の経済学と21世紀の経済学を特徴付けるキーワードを列挙し、前者から後者への転換を求めている。

 線形 → 非線形/静的 → 動的/収穫の一定または逓減→収穫の逓増/外部性は例外 → 外部性の蔓延(まんえん)/均等な配分 → 不均等な配分/固定的な選好 → 流動的な選好/個人重視 → 社会重視

経済学者は「部外者」ではない

 経済学に変革が必要だとすれば、経済学者と社会の関係も変わらざるを得ない。研究対象の社会から距離を置き、自分と切り離して考える「部外者」としての視点は、分極化が進む社会ではもはや維持不可能になったと分析する。

 経済学者の公的責任にも言及し、「何よりも、経済学者と一般市民とのコミュニケーションを改善しなければならない。なぜなら、一般市民から正当性を認められなければ、あるいは経済学に関する一般市民の理解が低ければ、優れた経済政策の実行は不可能だからである」と強調している。

 コイル氏の認識によると、政策を取り巻く環境は、新古典派経済学の合理的モデルである自由市場にかなり長い間、依存しすぎていた。近年では、規制緩和や市場志向の政策は大きく信用を失い、政府による介入の人気が復活している。「取り残された」地域の成長を押し上げるため、昔ながらの地域政策への関心が高まっている。「政治経済学」が復活しているのだ。

 ただし、現時点では統一された枠組みが提供される段階には至らず、政策の形を決定する土台となる明確な世界観が存在しない。

 経済学の現状を見ると、手に入るデータセットが増えた結果、経済学者は狭い範囲の政策問題には専門家として答えられるようになった。応用ミクロ経済学は良い状態にある。ところが、繁栄する都市と貧しい町の間で拡大するギャップの解消に取り組む方法や、勝者総取りの経済にイノベーションや競争を吹き込む方法、経済成長に伴う利益を公平に分配する方法など、差し迫った政治的な問題へのアプローチはほとんどが説得力に欠けるという。経済学者は今後、収穫逓増の経済に関する指針を政策立案者に提供する必要があると訴えている。

 現代経済学が一般市民から正当性を認められているとは言い難い。コイル氏によれば、個人の合理性を仮定する新古典派経済学(ミクロ経済学)、GDPを経済政策の判断基準とするマクロ経済学は共に足元が揺らいではいるが、両者に取って代わる体系はまだ登場していない。

 今回紹介した入門書は、「経済学は役に立つ」といった宣伝に終始しがちな入門書とは異なり、経済学が抱える課題や弱みにも踏み込んでいる。一般市民との距離を少しでも縮めたい研究者たちの熱意は伝わるだろうか。

写真/スタジオキャスパー