経済活性化の特効薬として賃上げが求められているが、議論の整理が必要だ。「経済学の書棚」第23回前編は、ベースアップ、定期昇給など賃金に関する基本概念の起源を明らかにし、日本の賃金制度の変遷をたどる『賃金とは何か』、日本の賃金が上がらない理由を多角的に分析する『人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか』を紹介する。

賃上げが不十分だとすれば、何が必要なのか。「経済学の書棚」第23回は、賃金を巡る論点を整理し、解決策を探るのに役立ちそうな本を取り上げた
賃上げが不十分だとすれば、何が必要なのか。「経済学の書棚」第23回は、賃金を巡る論点を整理し、解決策を探るのに役立ちそうな本を取り上げた
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 主要国に比べて伸び悩む日本の賃金。石破茂首相は2024年10月4日の所信表明演説で「物価高を上回る賃上げの実現」を訴え、岸田文雄政権の路線を引き継ぐ考えを示した。10月27日の衆議院選挙で与党の議席数が過半数を割り込み、石破政権の先行きは不透明になったが、野党側も最低賃金の引き上げなどを訴えている。今後の政権運営がどうなるにせよ、経営側に対する賃上げ圧力が一層、強まりそうだ。

 厚生労働省による2024年の賃金調査では、1人当たりの平均賃金の引き上げ率は4%を上回った。大企業だけではなく中小企業の間でも賃上げの動きが広がりつつあるものの、なお不十分だとの声も多い。現状をどのように評価するのか。賃上げが不十分だとすれば、何が必要なのか。賃金を巡る論点を整理し、解決策を探るのに役立ちそうな本を取り上げた。

 労働法と社会政策が専門の濱口桂一郎氏は『 賃金とは何か 職務給の蹉跌と所属給の呪縛 』(朝日新書/2024年7月刊)で、ベースアップ、定期昇給など賃金に関する基本概念の起源を明らかにし、日本の賃金制度の変遷をたどっている。ここ数年の日本政府の取り組みの効果を判定するうえでも、日本の賃金制度の基本を整理した本書は大いに参考になる。

『賃金とは何か 職務給の蹉跌と所属給の呪縛』(濱口桂一郎著)。ベースアップ、定期昇給など賃金に関する基本概念の起源を明らかにし、日本の賃金制度の変遷をたどっている。画像クリックでAmazonページへ
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戦時体制が生み出した日本型雇用システム

 同書によると、日本型雇用システムの特徴である長期雇用慣行、年功賃金制、企業別組合の原型ができたのは第1次世界大戦後の大正時代。濱口氏は、日本型雇用システムの第1次成立期と呼んでいる。第2次成立期は、第2次大戦の戦時体制下。国民の勤労は国家への奉仕だという勤労観に基づいて国家が年功賃金制を強制し、日本的な生活賃金(生活給)の考え方が生まれた。

 第2次大戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)と世界の労働組合運動家たちは日本の賃金制度を批判し、年齢と扶養家族の数に基づく生活給ではなく、仕事の性質に基づく「職務給」の確立を求めた。

 1950年代から60年代には日本政府と当時の経営団体(日本経営者団体連盟=日経連)も職務給の導入を唱えていた。日経連の賃金政策は、職務給の推進という旗を掲げる一方で定期昇給を推進する二本立ての時代だった。

 ベースアップという言葉が登場したのは1950年。賃金を抑制する手段として流通していた「賃金ベース」という呼び名を、労働組合側が賃上げを実現するための言葉として使うようになった。一方、経営側は1950年代半ば、ベースアップに対抗するために定期昇給を推進する方針を打ち出した。労働者の年齢構成が一定なら、定期昇給だけなら総人件費は変わらないが、ベースアップを実施すると総人件費は増加する。

 1960年代末、経営側は職務主義の旗を降ろし、能力主義に転換する。能力とは職務遂行能力を指し、年功制の欠点を改めると説明した。年功制の維持を意味しており、労働組合側にとって好都合だった。以来、年功的に運用する「職能給」が普及する。石油危機の発生を受け、政府の労働政策も180度転換し、雇用維持が最優先の課題となった。

3つの雇用類型を示した経営側

 1970~90年は賃金制度論の無風時代となったが、90年代に再び賃金制度論が俎上(そじょう)に載せられるようになった。経営側は成果主義を唱え、「長期蓄積能力活用型」、「高度専門能力活用型」、「雇用柔軟型」の3つの雇用類型を提起した。ここから「雇用柔軟型」である非正規労働が拡大し、日本の労働社会を悲惨なものにしたと非難を受ける原因となってきたと説明している。

 同書に沿って戦後以来の賃金制度の推移を見ると、総人件費を抑制したい経営側と、賃上げを求める労働側という構図は変わらないものの、低成長期を迎える中で、労働側の力が弱まっていった様子がよく分かる。

 最近の政府の動きも記述している。安倍晋三政権の下で2018年に成立した働き方改革関連法は、長時間労働規制と同一労働同一賃金の二枚看板だが、同一労働同一賃金の規定は「羊頭を掲げて狗肉(くにく)を売るが如きものといわざるを得ない」と厳しく評価している。

 職務給の導入を唱えた岸田文雄政権は「賃金の決め方(賃金制度)を職務給の方向に向かわせ、各職務の値段を引き上げていくというジョブ型雇用社会ではごく普通の在り方を展望しているようにも見える」と評価しつつも、「その道がなめらかであるわけではない」との見通しを示す。

 最後に、職種別の賃金設定システムを世の中に広げていくために活用できそうな制度として、地域別最低賃金が普及する前から存在し、現在も存続している産業別の「特定最低賃金」などを紹介している。

 玄田有史編『 人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか 』(慶応義塾大学出版会/2017年4月刊)は日本の賃金が上がらない理由を多角的に分析する解説書。総勢20人を超える研究者や行政官らが分担し、様々な視点から論じている。

『人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか』(玄田有史編)。日本の賃金が上がらない理由を多角的に分析した解説書。画像クリックでAmazonページへ
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 出版から数年がたち、掲載されているデータはやや古くなってはいるが、日本の賃金を巡る主な論点は網羅されており、議論の出発点として活用できる。

賃金が上がらない理由を多角的に解明

 同書では賃金が上がらない理由を、労働市場の需給変動、企業や労働者の行動特性、賃金制度などの諸制度の影響、賃金に対する規制などの影響、正規・非正規問題、能力開発・人材育成、高齢化や世代問題の7つのポイントから分析している。

 16章で構成しているが、各章がどのポイントに注目した論考なのかを表示しており、関心がある章を選んで目を通せばよい。

 例えば、第7章「人手不足と賃金停滞の並存は経済理論で説明できる」(川口大司、原ひろみ著)は、正規・非正規問題、労働需給、能力開発の観点から問題にアプローチしている。

 同章の分析では、2000年代以降に一般労働者の実質賃金は横ばい、パートタイム労働者の実質賃金は上昇している。にもかかわらず、常用労働者全体の実質賃金指数が横ばいもしくは低下したのは非正規雇用者の比率が高まった影響が大きい。

 労働市場における労働者の構成変化が、平均賃金が下がったかのようにみせかける現象を「構成バイアス」と呼ぶと解説している。

 非正規の比率が高まったのは、女性・高齢者といった就業率が低かった層の就業率が2000年以降の15年間で大幅に高まり、非正規の立場で就労している人が多いためである。この仮説が正しいとすれば、女性や高齢者などの層が枯渇すれば賃金は上がり始めると予測している。

 そのうえで政府に対しては、賃金決定に介入して労働市場をゆがめることなく、なぜ賃金が上がらないのかを正しく国民に説明し、幅広い層の労働者に技能蓄積の機会を与えるような政策を求めている。経済学界を代表する見解の一つといえるだろう。

(後編に続く)

写真/スタジオキャスパー