企業が人件費を捻出する流れに注目し、経済学者たちは様々な処方箋を提案している。「経済学の書棚」第23回後編は、労働生産性が低いから賃金が上がらないと断言する『日本人の賃金を上げる唯一の方法』、長期停滞の真因は過剰な企業貯蓄だと批判する『日本経済の故障箇所』、古代から近代までの賃金の推移を追った数量経済史の本『賃金の日本史』を取り上げる。

前編 「 『人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか』が分かる本

2023年ごろからようやく賃上げの動きが広がってきた。今後もこの流れは続くのか。企業は再び利益剰余金の積み増しに走らないのか。「経済学の書棚」第23回では、政府、企業、労働者が着地点を探るうえでの座標軸を提示する本を紹介する
2023年ごろからようやく賃上げの動きが広がってきた。今後もこの流れは続くのか。企業は再び利益剰余金の積み増しに走らないのか。「経済学の書棚」第23回では、政府、企業、労働者が着地点を探るうえでの座標軸を提示する本を紹介する
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労働生産性が低いから賃金が上がらない

 賃金はどうすれば上がるのか。賃金の主な原資は企業の売り上げであり、企業は売り上げから原材料費などを除いた売上総利益(粗利益)の中から人件費を捻出し、労働者に分配する。この流れのどこに注目し、政府の役割をどう考えるか。経済学者たちは様々な処方箋を提案している。

 名古屋商科大学ビジネススクール教授の原田泰氏は『 日本人の賃金を上げる唯一の方法 』(PHP新書/2024年2月刊)で、「日本の賃金が上がらないのは労働生産性が低いからだ」と断言する。

『日本人の賃金を上げる唯一の方法』(原田泰著)。本書では「日本の賃金が上がらないのは労働生産性が低いからだ」と断言する。画像クリックでAmazonページへ
『日本人の賃金を上げる唯一の方法』(原田泰著)。本書では「日本の賃金が上がらないのは労働生産性が低いからだ」と断言する。画像クリックでAmazonページへ

 労働生産性とは労働者1人が生み出す粗利益(付加価値)を指す。日本と米国の労働生産性を比べると、製造業からサービス業までほとんどの業種で日本の方が低い。米国の1人当たり実質国内総生産(GDP)が日本の5割以上も高いのは当たり前であり、賃金を上げるには生産性を引き上げるしかないという。

 こうした見方をする経済学者は多い。本連載第3回 「インフレに苦しむ世界経済を理解するための3冊」 で紹介した、一橋大学名誉教授の野口悠紀雄著『 どうすれば日本人の賃金は上がるのか 』(日経プレミアシリーズ/2022年9月刊)の趣旨も同様だ。野口氏は賃金や給与を考える場合には、付加価値=「稼ぐ力」が最も重要な指標だと指摘する。日本人の賃金が上がらないのは労働生産性の低迷が原因であり、賃金を上げるには新しいビジネスモデルや新しい技術を開発して生産性を引き上げる必要があると説く。

米国へのキャッチアップが急務

 原田氏の著書に戻ろう。米国との労働生産性の差を念頭に置き、日本に「キャッチアップ」を求める。「日本はキャッチアップを果たしたのだから、これからは独創性を発揮しないと発展できない」という言説はまったくの誤りだと強調する。

 企業から労働者への分配(労働分配率)は十分なのだろうか。原田氏は、国民所得はすべての賃金と利潤の合計であり、国民所得の配分を労働に有利にすれば(労働分配率を高めれば)実質賃金は上がるとしながらも、継続的に上がるわけではないと指摘する。賃金を上げるには分配よりも成長が大事だと重ねて主張している。

 一方、国が決定できる保育士や介護職員の給与引き上げは望ましいとの考えも明らかにしている。さらに、「日本の貧困問題とは、シングルマザーの問題と言ってもよい」としたうえで、ひとり親世帯のための児童手当の増額などを提案する。最低賃金にも言及し、最低賃金引き上げとともに賃金に補助金を払うよう求めている。

 企業や中間層には自助努力を求める一方、貧困層には政府が一定の支援をするという経済・社会像を思い描いているようだ。

 日本企業が生産性を上昇させるために政府にできることはあるだろうか。原田氏は政府による成長戦略は難しいとの認識を示す。岸田文雄政権は「新しい資本主義」を唱え、対応が急務の気候変動やデジタル、経済安全保障分野で政府が方向性を示し、企業に投資を促すとしていたが、政府が民間に有効な方向性を示せるとは考えられないと疑義を唱える。

高圧経済で雇用拡大を

 同氏が政府に求めるのは「高圧経済政策」だ。高圧経済とは、経済に金融、財政両面から圧力を加え、経済を需要超過気味に運営すること。

 同氏は2015~20年、日本銀行政策委員会審議委員の1人として、異次元緩和によるリフレ政策を推進した。リフレ政策は、安倍晋三政権による経済政策「アベノミクス」の柱であり、高圧経済政策はアベノミクスの延長線上にある考え方といえる。

 高圧経済は、雇用拡大、雇用の質上昇、労働技能の向上、資本蓄積の強化、研究開発投資の拡大を通じて成長率を高めるとみている。

 対照的な意見もある。東京都立大学教授の脇田成氏は『 日本経済の故障箇所 』(日本評論社/2024年7月刊)で、日本経済の長期停滞の真因は過剰な企業貯蓄だとの見方を示す。

『日本経済の故障箇所』(脇田成著)。日本経済の長期停滞の真因は過剰な企業貯蓄だとの見方を示す。画像クリックでAmazonページへ
『日本経済の故障箇所』(脇田成著)。日本経済の長期停滞の真因は過剰な企業貯蓄だとの見方を示す。画像クリックでAmazonページへ

 脇田氏は政府の統計などの基礎データを点検し、日本企業の過剰貯蓄をかねて問題視してきた。「政府が企業に賃上げを求める『官製春闘』など前例がない」、「生産性が上がらないから賃上げできない」といった主張は企業の言い訳だとみる。

 そうした言い訳がようやく下火になったと思ったら今度は「春闘で賃上げするまで、輸入インフレを家計は我慢せよ」というロジックが広まったと懸念している。

利益剰余金を積み増してきた日本企業

 同書によると、金融危機が広がった1998年を転機に、日本企業はさながら要塞を固めるように銀行に借金を返し、人件費を節約し、内部留保(利益剰余金)を大幅に積み増してきた。1990年代半ばから現在までのデータを追うと、人件費総額、物的資本を表す有形固定資産は横ばいで、負債も増えていないにもかかわらず、企業の純資産と利益剰余金は一方的に増えた。

 利益剰余金のフローの年間増加幅は平均25兆円。雇用者報酬は合計約270兆円であり、2%の賃上げに必要な原資は約5兆円である。毎年の利益から追加して利益剰余金ばかりに振り向けるのではなく、もっと人件費に回すよう求めている。

 「資金を借りるべき企業が逆に貯蓄をしているのだから、いろいろと不思議なことが起こる。非や逆のついた政策(非伝統的金融政策、マイナス金利や逆所得政策)を政府が強いられるのはそのためだ」と企業の対応を批判する。

生産性の上昇に追いついていない賃金

 「労働生産性が上がらないから賃金を上げられない」という説明に対しては「労働生産性が上がっているのに賃金が追いつかない」が正しい認識だと反論する。

 1990年代以降の日本、米国、韓国と経済協力開発機構(OECD)平均の労働生産性を見ると、米韓の時間当たりの平均労働生産性の上昇傾向は確かに日本より大きいが、日本はOECD平均を若干下回りつつも、ほぼ同じ勾配で推移している。

 また、生産性を賃金率(労働時間当たり賃金)で割った値を見ると、米韓に比べて日本は高い。日本の労働者は生産性に見合う賃金を得ていないことを示している。

 その結果、消費の原資である家計所得が増えず、消費増大の見込みがないため国内投資が進まない、人口が増大しないという低成長と低賃金の悪循環という「合成の誤謬(ごびゅう)」に陥ってしまったと診断する。

 本連載第3回 「インフレに苦しむ世界経済を理解するための3冊」 で著書を取り上げた早稲田大学教授のスズキ・トモ氏の『 「新しい資本主義」のアカウンティング 「利益」に囚われた成熟経済社会のアポリア 』(中央経済社/2022年7月刊)も日本企業の「分配」に疑問を投げかける書である。

 同書では、財務省の法人企業統計を基に、1960年度から2020年度までの日本企業による分配のデータをグラフで表している。

 2000年ごろから当期純利益と株主還元が急伸した。政府は四半期開示制度の導入や配当原資規制の緩和などを推し進め、投資家・株主の自由や権利を保護・強化した。ところが、過去20年間、投資家は資金を提供する機能を果たさず、逆に資金の回収を急いだ。「成長の期待されない成熟経済市場において、投資家を保護・優遇する制度を強化すれば、短期利益最大化と投資回収行動が加速するのは経済合理性に適(かな)っており、当然の帰結である」と説明している。

 最後に、賃金をテーマとするユニークな著書を紹介する。関西学院大学准教授の高島正憲著『 賃金の日本史 仕事と暮らしの1500年 』(吉川弘文館/2023年8月刊)は、古代から近代に至るまでの賃金の推移を追った数量経済史の本だ。

『賃金の日本史 仕事と暮らしの1500年』(高島正憲著)。古代から近代に至るまでの賃金の推移を追った数量経済史の本。画像クリックでAmazonページへ
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 数量経済史は数量データを主に扱う経済史学の1分野。前近代の賃金労働者を代表する大工・職人の労働形態に言及する文献研究はあるが、前近代の賃金そのものを対象とした研究はそれほど多くないという。

前近代の賃金は十分な水準だったのか

 昔の人びとの賃金は高かったのか低かったのか。その賃金は生活していくのに十分だったのか。社会の背景にあったメカニズム、例えば労働市場はどのように機能し、今と同じ論理で働いていたのか。様々な文献やデータを駆使し、賃金という指標をフィルターとして読み解いていく。

 高島氏自身が文中で断っているように、データの性質やデータベースの作り方、推計の手順や結果に関する記述が多いが、具体的な研究手法に関心がない読者であれば、その部分は読み飛ばしても差し支えないだろう。

 古代編「日本の賃金のはじまり」では、建築労働者の賃金、写経事業で働く下級役人、銭の使い方、中世編「職人の誕生とその時代」では、中世職人の賃金、近世編「都市化の進展と職業の多様化」では、都市に生まれた職業、災害と賃金といった項目を設けて各時代の実態に迫っている。近世編の後半では、中世から近世に至る職人らの実質賃金の長期推移を紹介している。

 同書の分類では、中世に建築工事や日用の手工業品のものづくりを担っていたのが「職人」。古代に朝廷や貴族などに徴用されて労務作業をした人たちは「工人」であり、場合によっては建設官僚でもあったと整理している。

 近代編「近代へ」では、職人ではない賃金労働者が誕生する一方、従来の職人たちは姿を消さず、明治期後半でも、農林業以外の就業者におけるシェアは80%以上を保っていたといったデータを示している。

明治時代に誕生した富裕層

 明治時代になっても職人たちはその技術を武器に在来産業や近代工業で存在感を発揮していた一方、非熟練労働者の賃金は低かった。資本主義の成長の果実を労働者とは比較にならないほど大きく手に入れた富裕層が誕生し、格差が拡大していったのもこの時代であると描写している。

 2023年ごろからようやく賃上げの動きが広がってきた。今後もこの流れは続くのか。企業は再び利益剰余金の積み増しに走らないのか。今回取り上げた本は、政府、企業、労働者が着地点を探るうえでの座標軸を提示している。

写真/スタジオキャスパー