人間は独自の「適応」システムを確立してきたが、近年、その足元がぐらついているのではないか。「経済学の書棚」第13回後編は、現代社会や経済の基盤として「信頼」が大きな役割を果たしている姿を明らかにし、その揺らぎを懸念する『信頼の経済学』と、人類の精神史を3つに区分し、現代人はどんな難題に直面しているのかを民族学や生物学などの知見を活用して整理した『人類精神史』の2冊を取り上げる。

「経済学の書棚」第13回後編では、自然科学と人文社会科学の知見を駆使し、現代社会が直面している問題の根底には何があるのかを追究する2冊を紹介する
「経済学の書棚」第13回後編では、自然科学と人文社会科学の知見を駆使し、現代社会が直面している問題の根底には何があるのかを追究する2冊を紹介する
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 人間は「進化時間」と「歴史・文化時間」の中で独自の「適応」システムを確立してきたが、近年、その足元がぐらついているのではないか。「経済学の書棚」第13回後編では、自然科学と人文社会科学の知見を駆使し、現代社会が直面している問題の根底には何があるのかを追究する2冊を紹介する。

 ゲーム理論が専門のベンジャミン・ホー氏は『 信頼の経済学 人類の繁栄を支えるメカニズム 』(庭田よう子訳/慶応義塾大学出版会/2023年6月刊)で、現代社会の「信頼」の揺らぎを懸念する。

『信頼の経済学 人類の繁栄を支えるメカニズム』(ベンジャミン・ホー著)。ゲーム理論が専門のベンジャミン・ホー氏は、現代社会や経済の基盤として「信頼」が大きな役割を果たしている姿を明らかにした
『信頼の経済学 人類の繁栄を支えるメカニズム』(ベンジャミン・ホー著)。ゲーム理論が専門のベンジャミン・ホー氏は、現代社会や経済の基盤として「信頼」が大きな役割を果たしている姿を明らかにした
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人類の歴史は信頼拡大の物語

 同氏によれば、人類の文明の物語は、いかにして互いを信頼するようになったかという物語である。当初、人間は小さな部族で暮らし、他者と力を合わせるほうが多くを成し遂げられることを学んだ。文明が発展し複雑になると人々は都市へ移り住み、同業組合や都市国家、国家を編成した。より大勢の人々と暮らすためには、それまでとは違う形の信頼が求められるようになった。

 信頼の核心は「この人物に頼るか、否か?」の選択である。信頼は人間のDNAにエンコード(変換)されており、信頼を促進し周囲の人たちに自分の信頼性を証明しようとする本能が備わっている。こうした本能が信頼に及ぼす範囲は当初、自分の家族や部族にだけ向けられていた。信頼をさらに拡大させるために人間は宗教、市場、法廷などの制度を発展させた。

 同書では、金融、シェアリングエコノミー、ブロックチェーン、医療から、気候変動の背後にある科学に対する信頼まで、現代社会や経済の基盤として「信頼」が大きな役割を果たしている姿を明らかにする。協力すれば両者の状況が良くなるような二者間のゲームである「信頼ゲーム」や行動経済学などを分析の基礎に置いている。

揺らぐ専門家への信頼

 文明と科学がいかに連携し、人間の相互信頼を促進する方向に進んできたかを示す一方、近年、一部の専門分野に対する信頼が損なわれている実態を描き出す。

 医療やメディア、政治の世界で信頼の崩壊が見られ、市民を統治する人々に対してますます不信が募っている。情報へのアクセスがいつでもどこでも可能になり、専門知識に対する信頼が影響を受けてきたと指摘する。

 ソーシャルメディアは既存の信念を強めるように意図されたストーリーに私たちをさらす一方なので、私たちはますます自信がつく。自分の信念に自信がつけば、その信念と矛盾することを言う人を信用しにくくなり、同調へと駆り立てる。

 同氏が「究極の信頼ゲーム」と位置付けるのが、気候変動への対応だ。「気候変動の問題に取り組むために信頼が種や世代を超えるようにすることは、信頼の輪が広がり続ける歴史の長い流れを考えれば、それほど困難ではないように思われる」としながらも、乗り越えなければならない3つの困難があると主張する。

 ゲーム理論や行動経済学の知見によると、(1)私たちの今日の行動がもたらす恩恵の大部分を私たちは生きている間に見ることさえできない(未来の長い影)、(2)人間の利他性はソーシャルディスタンス(社会的距離)に依存する。最も危険にさらされる発展途上国と、問題に対処するリソースのある富裕国が遠く離れている、(3)緩やかな変化への無関心、の3つが気候変動問題の前に立ちはだかる。

 共有の天然資源管理などの問題を解決するために、近代以前の部族の小人数の人々の間で生まれた非公式なルールや社会の仕組みは、最初は宗教的な拘束に、後年は正式な法的な拘束へと何世紀もかけて置き換わった。私たちの祖先が協力関係を築くようになった過程から学び、人類文明の誕生をもたらした基本的な人間関係に立ち返ることに価値があるのかもしれないと訴えている。

 宗教民族学者、神話学者の山田仁史著『 人類精神史 宗教・資本主義・Google 』(筑摩選書/2022年12月刊)は、人類は太古から現代に至るまでどんな過程を経て精神を発達させてきたのか、現代人はどんな難題に直面しているのかを民族学や生物学などの知見を活用して整理した書だ。

『人類精神史 宗教・資本主義・Google』(山田仁史著)。人類は太古から現代に至るまでどんな過程を経て精神を発達させてきたのか、現代人はどんな難題に直面しているのかを民族学や生物学などの知見を活用して整理した書
『人類精神史 宗教・資本主義・Google』(山田仁史著)。人類は太古から現代に至るまでどんな過程を経て精神を発達させてきたのか、現代人はどんな難題に直面しているのかを民族学や生物学などの知見を活用して整理した書
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人類の精神史を3つに区分

 山田氏は人類の精神史を3つに区分する。

R1(第1次現実)=生身のヒトが自らをとりまく自然環境に依存し、自他が直接に対峙してきた無文字の時代
R2(第2次現実)=人間が造り出した人工環境の占める度合が非常に大きくなり、文字を介してのコミュニケーションが増加した時代
R3(第3次現実)=ヒトの脳の究極の外部化としての仮想環境が増大し、情報の伝達における速度と量が加速度的に増しつつある時代

 3つの現実は3つの神に対応する。R1の神はGott(宗教的な神)、R2の神はGeld(お金)、R3の神はGoogle(情報)である。

 3つの現実世界は理念型であり、大きく見れば人類社会をとりまく環境はR1 → R2 → R3と進化してきたが、棲み分けながら併存する面もあり、進化よりも棲み分けを重視したいというのが山田氏の立場だ。

 山田氏はユヴァル・ノア・ハラリ著『 サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福(上・下) 』(柴田裕之訳/河出書房新社/2016年9月刊。現在は文庫版を販売中)を随所で参照する。同書によると、約40億年前、地球上で特定の分子が結合し、有機体を形作った。その物語が「生物学」であり、さらに約7万年前、ホモ・サピエンス種に属する生き物が文化を形成し始めた。その後の発展が「歴史」である。山田氏は壮大なビッグヒストリーの開闢(かいびゃく)部分の見取図としてとてもよくできているが、「生物学」と「歴史」の間が一足飛びになっているのは少々解せないうえに、ヒトとそれ以外の動物たちとの間に見られる一番の違いにかんしては明言していないと指摘し、生物学と歴史の間をつなぐ物語を展開する。

 歴史の段階に入った人類にとっての転機は約1万年前の農耕と牧畜の開始だ。「新石器革命」によって人類は文明進歩への輝かしい一歩を踏み出したという、自信に満ちたかつての歴史観はもはや消え失せ、サピエンスの存在こそが地球の未来を危うくしているという反省の声が人類学者の間で高まっている。先を見越して備え、貯(たくわ)えておくという行動はやがて資本主義へもつながっていく。その蓄積の上に今の我々は生きているのだとの見方を披露する。

自分の世界に閉じこもる現代人

 人類の歴史がR2からR3に移行するにつれ、どんな変化が起きているのか。R3では情報源の変化が常態となる。マスクを日常的に着用する「視線耐性」の低下した人たち、情報通信革命による対面コミュニケーションの機会減少、ドーパミンの放出によって麻痺(まひ)させられたような脳内環境、人と争うことを好まず、自分の世界に閉じこもりがちな人たちなど、変化はすでに起きている。現状では日本を含む先進国で主に見られる現象だが、似たような方向に世界は向かいつつあるのかもしれないと危機感を抱く。

 生物種としての存続が危ぶまれている人類は、これからどう振る舞うべきなのか。畑違いの経済学者と民族学者がともに、人類が助け合いを覚えた原点を忘れるなと唱えているのは驚きだ。人類に「歴史・文化時間」を巻き戻す力があるかどうかが問われている。

写真/スタジオキャスパー