その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は外山尚之さんの『 ポピュリズム大陸 南米 』(2023年6月刊)です。「序章」をお届けします。

【序章】

 「ベネズエラに将来はない。リオデジャネイロに行って、仕事を見つける」。夜もふけた午後10時半、虫が飛び交う街灯の下で、17歳のホセ・ゴメスはタバコの火を見つめながら力説した。周囲には数十人のベネズエラ人が疲れ切った様子で、道路に敷いた段ボールの上で雑魚寝していた。静けさの中、興奮で眠れないのか、目をギラギラ輝かせながら、自分に言い聞かせるように繰り返した。「ベネズエラと違って、民主主義国家のブラジルにはチャンスがある」

 ブラジル北部パカライマ。人口2万人弱の国境の小さな町を私が訪れたのは2019年5月だった。ハイパーインフレや物不足で経済が崩壊状態の隣国ベネズエラから徒歩で逃れる人々がひきもきらず、町は混乱状態となっていた。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が設置した難民用のテントは満杯となり、あふれた人々が道路で寝ていた。取材で出会ったホセもその一人だった。

 「独裁政権が支配する国で生きていくことはできない」。ホセはこう語り、反米左派政権が独裁体制を敷くベネズエラがいかに絶望的な状況かを語った。日々の食事もなければ仕事もなく、学校には何年も通っていないという。「リオには知り合いがいる。そこまで行けばなんとかなる」

 ブラジルは広大だ。北部の国境であるパカライマから南部のリオまでは陸路で5000キロメートル離れている。ブラジルの公用語はポルトガル語で、ベネズエラ人の使うスペイン語とは勝手が違う。手持ちの資金もない状況で、どうやってリオまでたどり着くつもりなのか――。こうした質問をするのもはばかられるほど、ホセの目は暗闇の中でギラギラと輝いていた。「ブラジルには自由がある、ベネズエラにはなかったものだ」

 独裁政権が支配する破綻国家として数百万人の難民・国外避難民を出しているベネズエラ。世界中から非難を集める反米左派政権はクーデターで生まれたわけではない。選挙という正統な民主主義の手続きを経て、1999年に誕生したものだ。

 世界最大級の埋蔵量を誇る原油をはじめとした天然資源を海外に輸出して得た富を国民に分配し、経済成長と格差是正を両立する――。21世紀の社会主義」という旗印の下で始まった取り組みは国民から熱狂的に受け入れられ、左派政権は選挙で連戦連勝した。

 しかし、市場経済を無視したポピュリズム(大衆迎合主義)政策は社会にゆがみを生んだ。政治は市民の歓心を得るために財政を無視した大盤振る舞いを続け、将来のための投資は後回しにされた。海外企業は去り、生産性の低下で原油の生産量が減少し財政収入が落ち込む中でもバラマキは止められず、いつしか紙幣は紙くず同然となった。

 市民がおかしいと気がついた時には既に手遅れで、政府は歯向かう野党や市民を弾圧する独裁体制を築き上げていた。17歳のホセが選挙権を得る前に、既にベネズエラの経済は崩壊状態となり、民主主義は終わっていた。

 目先の票欲しさに市民に甘言をささやく政権が誕生し、経済基盤そのものが崩れていくという現象はベネズエラでのみ起きている訳ではない。所得格差が広がる中、「救世主」を求める貧しい市民たちの声に応えるかのように、大衆迎合的な政策を掲げるポピュリズム旋風は南米各国で巻き起こっており、勢いを増している。

 先進国からの没落が止まらないアルゼンチンでは経済が低迷する中、かつて経済運営で失敗し権力を失った左派政党が政権に返り咲いた。腐敗した既存の政治体制と決別すべく、極右の大統領を選んだブラジルでも、市民は現金給付策で支持か不支持かを決め、汚職疑惑を抱える老齢の元大統領を指導者に戴いた。ペルーでも、天然資源の国有化など、ベネズエラを彷彿とさせる経済公約を掲げる極左の大統領が誕生した。「南米の優等生」と呼ばれたチリですら、格差是正を求める大規模な暴動が発生し、急進左派の大統領が誕生した。半世紀にわたる内戦で左派に対する忌避感が強かったコロンビアでも、市民はついに左派の大統領を誕生させた。

 2020年に世界を席巻した新型コロナウイルスは、格差をさらに拡大させ、左派ポピュリズムにとっての追い風となった。貧困街に住む低所得者層が適切な医療を受けられずに息絶えていく中、富裕層は自宅にこもり、食事の調達やスーパーの買い物、犬の散歩まで低所得者層に外注する光景が各国で見られた。貧しい人々の行き場のない怒りは、政治へと向かった。

 植民地支配の影響を引きずる南米では富める者と持たざる者の差が挽回不可能なほど大きく、生まれた家ですべてが決まるといっても過言ではない状況が長年続いている。豊富な天然資源や広大な農地といったアドバンテージにあぐらをかき、格差を放置してきた政治の責任は免れないが、目先の飴ばかりを求め、痛みを伴う改革に反対し続けた国民も責任の一端を担う。

 政治も国民も10年、20年先を見据えた国家の運営ができなかったという点で、南米大陸の失敗は民主主義の失敗といえる。格差が拡大・固定化し、これまでの資本主義や既存の政治への懐疑的な目線が広がるという現象は世界的な潮流だ。南米大陸の現状は、財政状況が危機的で通貨安が深刻になりつつある中にも関わらず、主要政党が揃って票欲しさのために現金ばらまき策に走る、日本にとっても他人事ではない。

 本書は日本経済新聞社のサンパウロ支局長として、2017年4月から21年9月にかけ、ブラジルを拠点に南米大陸各国で取材してきた経験をもとに執筆している。

 日本の約47倍の面積を持ち、4億3448万人の人口を擁する南米大陸は広大だ。赤道直下のブラジルのアマゾン熱帯雨林から標高3600メートルに位置するボリビアのラパス、真夏でも氷河がそびえ立つアルゼンチンのパタゴニアまで地理的環境が違えば住んでいる人々の人種も異なり、ひとくくりにするのは不可能だ。多くの国で公用語となっているスペイン語ひとつとっても、カリブ海に面するベネズエラとアンデス山脈の西側にあるチリでは別言語のような響きを持つ。

 どこを切り取っても多様性を絵に描いたような南米大陸を1冊の本にまとめ、紹介することは不可能だということは重々承知している。しかし、それでも人々は国家という枠組みの中で暮らしており、政治が生活に密接に関わっている以上、民主主義というテーマこそが南米大陸の現状を示す上で相応しいと私は信じている。

 スマホ一つで世界中の情報が手に入る世の中だが、私は特派員として、可能な限り現場におもむき、現地の人々の声を聞くように心がけた。そこには既存の政治や社会に対する人々の怒りがあり、絶望があり、そして希望があった。

 スペイン語・ポルトガル語とも堪能とは言えない日本人がどこまで真実に迫ることができたかは甚だ疑問ではあるが、記者として飛び込んだ私が邪険に扱われることはほとんどなく、皆が自分たちの境遇や主張を世界に知ってほしいと切望していた。新聞記事に書ききれなかった彼らの声や、その背景にある歴史の流れを日本に伝え、民主主義国家としての日本の今後に生かしてほしいというのが、本書を執筆する最大の動機である。

 中南米はかつて米国の「裏庭」と呼ばれ、良くも悪くも米国の影響が大きい地域だ。言論面でも国内外問わず反米・親米といったイデオロギーに縛られがちだが、それが現実に即していないことは明らかだ。本書では可能な限りフラットな立場から、それぞれの主張を分析の上、引用している。

 地球の反対側に位置し、飛行機でもまる1日以上かかるという地理的制約もあり、日本で得られる南米大陸の情報は欧米諸国やアジアに比べて乏しいと言わざるを得ない。「サッカー・サンバ・凶悪犯罪」というステレオタイプな見方が定着している一方で、鉄鉱石や銅、穀物、コーヒーなど様々な分野で日本は南米各国との貿易に依存しており、南米大陸の不安定化は日本経済にも多大な影響を与えかねない。

 本書では、南米各国の近代政治や経済、歴史というマクロ的な観点と、現地で人々が何を考え、どう行動しているのかというミクロ的な視点を組み合わせることで南米大陸の抱える課題や現状を描き出そうと試みている。地理的にも心情的にも日本から遠く、理解が難しい南米大陸だが、少しでも読者の理解に役立てば幸いである。

 登場人物の年齢は原則として取材当時のもので、敬称は省略させてもらった。各国の通貨は取材当時のレートで換算している。

【目次】

画像のクリックで拡大表示
画像のクリックで拡大表示
画像のクリックで拡大表示
画像のクリックで拡大表示
画像のクリックで拡大表示
画像のクリックで拡大表示
画像のクリックで拡大表示
]