その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は森川正之さんの『 不確実性と日本経済 計測・影響・対応 』。「序章」の第5項までをお届けします。
【序章】 不確実性と経済
〈不確実性への関心の高まり〉
「不確実性(uncertainty)」は、古くから経済学の重要な研究テーマだったが、最近は経済予測や経済政策の実務でも、経済の先行きをめぐる議論におけるキーワードの1つになっている。本書は「不確実性」に関する経済学の研究の進展を踏まえつつ、不確実性と日本経済について筆者自身が行ってきた研究を含めて解説する。
ケインズと同時代の経済学者であるフランク・ナイトは、100年前に「リスク」と「不確実性」を明確に区別し、「不確実性は、リスクというよく知られた観念とある意味で根本的に区別されねばならない」と述べている(Knight,1921)。確率分布が既知な場合がリスク、確率分布を特定できない場合が不確実性という二分法である1。その後、この2つの概念は使い分けられることが多かったが、近年の経済学の研究論文では、「不確実性」は「リスク」を含む広い概念として使用されるのが一般的になっている(第1章参照)。本書は最近の慣行に従い、リスクを含めて「不確実性」という単語を使用し、確率分布すらわからないケースは「ナイト流不確実性」ないし「純粋の不確実性」と表現する。
近年の代表的な不確実性ショックが、世界金融危機とコロナ危機である。2008年9月のいわゆるリーマン・ショック後の株価や生産の急激な落ち込みは、2009年春頃までいつ底を打つのか全く見通せない状況だった。新型コロナウイルス感染症(以下、必要に応じて「新型コロナ」と略す)の拡大から生じたコロナ危機は、歴史的にも類例の少ない不確実性ショックで、感染者・死亡者がどれだけ増えていくのか、ワクチンや有効な治療薬がいつになれば開発されるのか、そして最終的にいつになったら終息するのか、2020年の時点ではきわめて不透明だった。最近ではロシアのウクライナ侵攻や中東情勢の緊迫化が、世界経済に大きな先行き不確実性をもたらしている。
こうした中、政策実務やメディアの報道でも「不確実性」という単語が頻繁に用いられるようになっている。国際機関の文書を見ると、国際通貨基金(IMF)の「世界経済見通し(World Economic Outlook)」や経済協力開発機構(OECD)の「経済見通し(Economic Outlook)」では、不確実性という単語がきわめて高い頻度で使われている。日本銀行の最近の「展望レポート」では、「わが国経済・物価を巡る不確実性はきわめて高い」など、不確実性という単語が十数回にわたり使用されている。
政府・中央銀行や国際機関は短期・中期・長期のマクロ経済見通しを定期的に発表しているが、事後評価すると予測誤差は相当に大きく、経済成長率やインフレ率の先行き見通しには大きな不確実性がある(第2章参照)。不確実性をどのように把握し、それにどう対処するのかは、適切なマクロ経済運営にとって非常に重要な課題である。
〈不確実性の源泉〉
不確実性はさまざまな源泉から生じる。経済分野では、そもそも経済成長率やインフレ率といったマクロ経済の先行き見通し自体が不確実性を伴っているし、金融政策、税制、通商政策、規制やその運用など「政策の不確実性」もある(第3章参照)。日本の場合、財政・社会保障制度の長期的な持続可能性にもかなりの不確実性がある。
大地震、洪水、火山噴火など大規模な自然災害が頻発しており、これからも予見せざる大災害が起きる可能性がある。気候変動も世界的な不確実性の源泉で、今後長期にわたって異常気象や自然災害の増加といった不確実性ショックを引き起こすおそれがある。予測技術が進歩しているとはいえ、こうした災害がいつどこで発生するのかを事前に予測するのは難しい。新型コロナの後、次にいつどのようなパンデミックが発生するのかも予見するのが困難である。
政治も不確実性の源泉となる。米国では国民の分断を背景に党派対立が深刻化しており、大統領選挙で誰が勝利するかによって政策は大きく変化する。僅差で決着することが多くなっていることもあり、政策の先行き不確実性を高める要因となってきた。2024年の大統領選挙でも、共和党のトランプ候補が民主党のハリス候補に勝利したが、国民の分断を背景に選挙直前まで両候補の支持率は拮抗しており、どちらが勝つか予測は困難だった。政権交代に伴い政策の不連続な変化が起こり、多くの分野で政策の不確実性が高まるだろう。
米国以外の主要国でも党派対立や政権の不安定化が目立つようになっており、政策の不確実性の源泉になっている。政権交代に至らない場合でも、選挙において候補者・政党がポピュリスト的な政策を打ち出すことが多くなっており、政策の安定性や継続性を弱める要因となっている。
日本では2000年代半ば以降ほぼ1年ごとに首相が交代し、また、いわゆる「ねじれ国会」が続いたという事情もあり、予算・法案など政策の先行きが見通しにくい状況が生じた。その間、政策不確実性が高まったことがデータからも観察される(第3章参照)。自民党が政権に復帰した2012年以降、ねじれ国会も解消され、頻繁な政権交代に伴う政治的な不確実性は10年以上にわたって落ち着いていた。しかし、政治資金問題を背景に与党支持率が大きく低下し、2024年秋には岸田首相が退任して石破新内閣が発足した。そして新内閣発足直後に行われた衆院解散・総選挙で自民党・公明党の連立与党は過半数を失い、政権運営の先行き不透明感の高い状況が再び現れた。当分の間、少数与党による政権運営となり、法律・予算をはじめさまざまな政策において不確実性の高い状態が続くだろう。
グローバルには、世界金融危機、欧州債務危機、英国のEU離脱、米中貿易摩擦も世界経済の不確実性をもたらしてきた。最近は、ロシアのウクライナ侵攻、中東情勢の緊迫化、北朝鮮情勢など安全保障面の不確実性が増大している。グローバル化が進んだ今日の経済において、海外の不確実性ショックは国際金融市場、サプライチェーンなどを媒介して日本にも波及する(第8章参照)。友好国間でも、最近の日本製鉄によるUSスチール買収をめぐる動きなど、グローバルな企業活動の不確実性を高める問題が生じることがある。
最近関心の高い経済安全保障の問題は、不確実性と密接に関係している。供給途絶のような事態に備える事前対応の難しさは、仮に事態が発生したときのコスト(被害)はある程度計算できたとしても、事態の発生確率が予測困難な点にある。発生確率の大きさによって最適な対応策は異なるが、発生確率がわからなければ対策のコストとレジリエンス(resilience)向上による便益を比較するのが難しい。規制的な政策手段が用いられる場合、解釈や運用の不透明性があると政策不確実性が高まるので、企業活動を萎縮させるおそれがあることにも注意する必要がある。
〈企業・個人が直面する不確実性〉
マクロ経済だけでなく、企業レベル、個人(家計)レベルでもさまざまな不確実性が存在する。企業にとって自社の売上高や収益の先行きには、国内・海外経済の成長率などマクロ経済の不確実性に加えて、自社製品・サービスへの需要動向、イノベーションの成否、競合する他社の戦略、原材料やサービスの調達コストなど企業固有の不確実性がある。大企業の多くは年度計画や中期経営計画を立てた上で経営を行っているが、実際の売上高や利益は計画よりも上振れたり下振れたりする。最悪の場合には倒産に追い込まれるリスクもある。
企業にとっての不確実性は、経済情勢に伴って時系列的に変化すると同時に、クロスセクションで見ても個々の企業が直面する不確実性には大きな差がある(第4章参照)。業種、企業規模、販売先などによって不確実性の程度は異なる。最近は、サプライチェーンを通じたショックの企業間での波及が注目されており、自然災害や事故、国際紛争といった想定外のイベントが直接・間接に企業業績を左右するケースが増えている。
個人レベルでもさまざまな不確実性がある。そもそも自分が何歳まで生きられるのか、いつまで健康でいられるのかは個人差が大きく、統計的な平均寿命からは判断できない。消費者としての個人の場合、将来の所得の変化、資産価格の変動、病気や事故に遭う可能性などさまざまな不確実性の中で消費・貯蓄行動を決定している。家計全体として見れば、自分自身だけでなく、配偶者、子供、両親の就労状態や健康の不確実性が自身の行動にも影響する。
労働者としての個人にとっては、いつまで就労を続けられるのか、失業する可能性がどの程度なのか、賃金がどの程度増えるのか、一応の見通しを持っているのが普通だが、実際にどうなるかは決して確実ではない。勤務先の産業・企業規模、年齢、学歴、就労形態によって、雇用の安定性には違いがあるし、賃金の伸び率だけでなくその不確実性も異なる。これから労働市場に参加する学生の場合、学歴や専攻分野によって就職できる確率や就職後の生涯所得に違いがあるが、そこにも不確実性がある。そうした中で進学や専攻分野、そして就職先の選択を行っている。
〈不確実性の経済行動への影響〉
企業も個人も、現在の状況だけでなく将来の予測を前提に現在の行動を決定する2。企業は需要見通しを前提に生産計画を立てるし、中長期的な販売見通しをもとに設備投資や従業員採用の意思決定を行う。家計は現在の所得だけでなく、将来の所得の見込みを前提に現在の消費・貯蓄の意思決定を行うというのが標準的な見方(消費のライフサイクル理論)である。
しかし、将来予測が100%確実なことは稀なので、平均的な見通し(点予測値)だけでなく、その不確実性(確率分布)が現在の行動に影響する。例えば企業が今後毎年の売り上げが平均10%ずつ伸びていくと見込んでいても、それが100%確実なケースと、50%の確率でゼロ成長、50%の確率で20%成長するというケースとで、設備投資や従業員増員の計画は違ってくる。不確実性が高まったとき、不確実性が低下するまで重要な意思決定を先送りするのが合理的になる(「リアルオプション効果」)ことが多いからである(第5章参照)。
家計の場合も同様で、例えば今後の年間所得が年率5%で増加していくと見込んでいても、それが確実なのか、それとも50%の確率で5%減少、50%の確率で15%増加という不確実性があるのかで、現在の消費・貯蓄行動は違ってくる可能性が高い。不確実性が高いと万一に備えて貯蓄を積み増す(「予備的貯蓄」)行動をとる家計が多いからである(第6章参照)。特に不可逆性の高い高額耐久財の購入は先送りされる可能性が高い。その際、客観的な確率よりも主観的な不確実性が意思決定や行動を左右する。つまり、不確実性の高まりは企業や家計の意思決定を慎重化させ、ひいては経済成長率をはじめとするマクロ経済パフォーマンスにネガティブな影響を与えることが多い。
不確実性は古くから理論研究のテーマになってきたが、世界金融危機を契機に再び強い関心を集め、急速に研究が進展している。コロナ危機についても、すでにその不確実性ショックとしての特徴や経済的影響に関する研究が多数行われている。それらの研究を通じて、不確実性を定量的に捕捉する手法が進歩し、さまざまな不確実性指標が実証分析に利用できるようになってきた。その結果、不確実性の高まりが投資・雇用などの企業行動、家計の貯蓄・消費行動、さらにマクロ経済に及ぼす影響が明らかにされてきている。
〈本書の狙い〉
こうした中、筆者はここ10年ほど不確実性の経済分析に取り組み、いくつかの研究成果を学術誌に公刊してきた3。「全国企業短期経済観測調査(日銀短観)」(日本銀行)、「製造工業生産予測調査」(経済産業省)、「法人企業景気予測調査」(内閣府・財務省)といった政府統計のミクロデータを利用し、近年開発されてきた手法を用いて日本経済の不確実性の時系列的な推移、産業・企業規模による違いなどを分析してきた。また、企業や個人を対象に独自の調査を実施し、政府統計では把握できない主観的不確実性の実態、「政策の不確実性」やその影響などを分析した。期待や不確実性に関するサーベイ論文を収録したHandbook of Economic Expectations(Bachmann et al.,2023)には、拙稿のいくつかが日本の研究例として引用されている。
今後もさまざまな不確実性ショックが発生し、世界経済、日本経済に大きな影響を与えると予想される。不確実性をどう抑制するか、また、不確実性が高まったときにどう対応すべきなのかは、政策担当者や企業経営者にとって重要な関心事である。しかし、不確実性に関する経済分析について近年の進展を含めて平易に解説した邦文書籍はない4。
本書は、内外の研究と筆者自身の研究成果をベースに、不確実性の動向や不確実性と実体経済の関係について、いくつかの角度から整理・考察する。本書の副題──「計測・影響・対応」──の通り、①不確実性をどのように計測するか、②不確実性が経済にどう影響するのか、③不確実性にどう対応すべきなのかという3つの課題に力点を置いて議論を進める。不確実性の計測方法と日本のデータを用いた分析に比較的多くの紙幅を割いており、やや技術的な印象を受けるかもしれないが、この点はデータに基づく実証を重視する筆者の立場を反映している。
経済政策や企業の実務者、また、このテーマに関心を持っている、あるいは今後取り組もうとしている研究者や学生を念頭に記述する。経済政策の立案・遂行、企業の経営計画策定や業務上の意思決定において、不確実性は避けて通れない問題であり、不確実性の動向や経済的影響の把握、そして対処のあり方を考える上で、本書が何らかのヒントを提供できることを筆者としては期待している。
不確実性の研究論文は急増しており、言うまでもなくすべてを網羅するのは筆者の知見の範囲を超えるが、最近の研究の中で注目すべきものはカバーするよう努めたつもりである。また、優れたサーベイ論文がある場合にはできるだけ言及するようにしている。参照文献が多いのは、不確実性に関する研究が活発に行われていることを反映しているが、同時に邦文のハンドブックとして役立つものにすることを意図しているためである。ただし、時系列モデルやファイナンス系の技術的な論文など、本書がほとんどカバーしていない分野があることは留保しておきたい。また、個人の主観的不確実性については心理学の分野でも膨大な研究蓄積があるが、本書では広義の経済学の範囲を超える研究は扱っていない。
多くの章で筆者がこの10年ほどの間に学術誌に公刊した論文やディスカッション・ペーパーを素材として使用しているが、不確実性の実証分析としては新型コロナの時期をカバーすることが望ましい。このため、可能な限り最近の時期までデータを延伸してアップデートする努力をした。しかし、データ入手の手続き的・時間的な制約もあり、公刊論文の範囲で記述した部分もあることはご了解いただきたい。
【目次】



