その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は星岳雄さん、松島斉さんの『 日本経済 信頼からの再生 制度信託の設計思想 』です。「まえがき」をお届けします。

【まえがき】

 この本の出発点にあるのは、「私たちの社会はこの先も持続可能なのか」という根源的な問いである。世界金融危機、新型コロナウイルス感染症の蔓延、ウクライナ戦争や中東紛争、気候変動の深刻化、さらには先進国社会の分断など、現代世界は、次々と大きな問題に直面している。

 これらの問題はいずれも、私たちの生活や経済を日常的に支えてきた基盤への信頼が、静かに、しかし確実に損なわれてきた結果として現れているのではないだろうか。これらは単なる偶発的な出来事ではなく、社会を支える基盤が長年にわたって適切に維持・管理されてこなかった結果なのではないだろうか。この問いに答えるために本書が注目するのは、「社会的共通資本」の概念であり、「信託」の仕組みである。

 社会的共通資本とは、経済学者宇沢弘文が提唱した概念で、大気や水、森林といった自然環境、上下水道や交通などの社会インフラ、さらに医療・教育・金融といった制度を含む。これらはいずれも、私たちが意識することなく日々の生活や経済活動を営むことを可能にしてきた、社会の基盤そのものである。社会的共通資本は、すべての人が共通に恩恵を受ける一方で、誰かが使い過ぎても排除しにくく、放置すれば劣化してしまうという難しさを抱えている。

 こうした問題は、スタンダードな経済学の中でも、「外部性」や「コモンズの悲劇」として知られてきた。「社会」の範囲が限定されている場合は、共同体的な管理が有効に機能する場合もあるが、気候変動などのように利害関係者が広がっている場合は、共同体的な方法だけではとても対処できない。宇沢自身は専門家による管理に期待を寄せたが、現実には専門家や制度そのものへの信頼が揺らぎ、様々な分野で「制度疲労」というべき行き詰まりが生じているように見える。これは、個々の制度設計の失敗というよりも、制度が社会から信頼され続けるための条件が、十分に考えられてこなかったことの帰結とも言える。

 問題解決のために本書が注目するのは、様々な財産管理の場面で使われている「信託」という仕組みである。信託とは、財産を特定の目的のために他者に託し、その受託者が受益者の利益のために責任をもって管理する。重要なのは、信託財産が委託者のものでも、受託者の自由な所有物でも、受益者の私有財産でもない点である。信託財産は、目的の達成のためだけに使われる「誰のものでもない財産」として扱われ、受託者には忠実義務(フィデューシャリー・デューティ)が課される。この仕組みによって、財産は短期的な利益や恣意的な判断から守られる。言い換えれば信託とは、当事者間の善意や人格に依存するのではなく、「信頼が裏切られないように制度として支える」ための仕組みである。

 この信託の考え方は、社会全体のために存在する社会的共通資本と高い親和性を持つ。社会的共通資本も本来、特定の個人や組織の所有物であってはならず、社会全体の利益のために管理されるべきだからである。ただし、広く使われている信託の制度をそのまま社会的共通資本の維持・管理のために利用するのは容易ではない。社会的共通資本は規模が大きく、多様な利害関係者を含むため、従来の信託の枠組みだけでは不十分な場面が多い。

 そこで本書は、自然環境、都市、デジタル空間、医療、教育、金融など、社会的共通資本の具体例を検討しながら、信託・信認を幅広い社会的共通資本の維持・管理のために拡張する可能性をさぐる。

 本書は、我々執筆者一同が三井住友信託銀行の委託研究『社会的共通資本と信託』を通じて議論を重ねた結果である。2024年4月から1年半にわたって計7回の研究会を開いて、スタンダードな経済学を超えた様々な視点から検討を加えた。暫定的な結論として到達したのは、「制度信託」という新たな構想である。制度信託とは、公共目的を明確にし、市民と制度が共に支え合い、説明責任と透明性を確保しながら、変化に応じて進化し続ける制度のあり方である。信頼を失いつつある現代社会の制度を立て直すために、社会の未来を社会そのものに「託す」という思想である。実際の仕組みは、対象になる社会的共通資本の種類によるし、その細部の検討は、今後の課題である。本書が託そうとする思いを、読者のみなさまにも共有いただき、現代社会を再生するために協働できることを願っている。

 本書のタイトルが示すように、日本経済の再生にとっていま最も欠けているのは、成長戦略や技術革新以前に、制度への信頼をいかに回復するかという視点である。そしてこの課題は、日本に固有の問題であると同時に、世界各地で持続可能性(サステナビリティ)が問われる現代社会に共通する、避けて通れない課題でもある。


 この委託研究そして本書の作成にあたっては、多くの方々にお世話になった。以下、何人か名前を挙げて感謝したい。

 まず委託研究を提案、支援していただいた三井住友信託銀行の方々に感謝したい。特に高田由紀さん、花田普さん、そして今津剛さんは、企画の段階から研究に参加し、研究会に出席し、原稿にも有益なコメントをしていただいた。日経BPの平井修一さんは、研究の企画の段階から参加していただき、本の完成まで導いてくれた。

 また、委託研究の工程管理は、東京大学エコノミックコンサルティング(UTEcon)が引き受けてくれた。川原田陽介さん、渡辺安虎教授、松山博幸さんに感謝したい。特にプロジェクト・マネージャーを務めた松山さんの忍耐と努力がなければ、この本は計画通りのタイミングで出版できなかったかもしれない。

 本書の第1章から第8章では、8人の研究者がそれぞれ専門とする分野について社会的共通資本の維持・管理に関わる問題と「信託」との関係性について論じている。日引聡教授、神門善久教授、中谷隼准教授、吉見俊哉教授、野田俊也講師、井伊雅子教授、小玉重夫教授、そして佐々木百合教授は、それぞれの章を完成しただけではなく、研究会で他の章に関しての議論に参加し、本書全体の質を高めることに貢献してくれた。また、神作裕之教授は、執筆者の一人ではないが、初回の研究会にゲストとして参加、発表していただいた。信託法の基本的考え方から始めて解説していただき、社会的共通資本も信託もともにフィデュシャリー・デューティが重要になるという点に我々の注意を向けさせてくれた。神作教授も含めた共同研究者全員に感謝の意を表したい。

 2025年12月16日

星 岳雄
松島 斉


【目次】

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