その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日はカーメン・M・ラインハート、ケネス・S・ロゴフ(著)、村井章子(訳)の『 国家は破綻する 金融危機の800年 』です。

【日本語版への序文】

「機会均等」の銀行危機と日本の経験

 本書の日本語版が世に出るのは、たいへん喜ばしいことである。本書は六六カ国にわたる金融危機の長い歴史を綴った本だが、その中で日本が果たした役割はきわめて大きい。現在先進国と呼ばれる国々の多くと同じように、日本も一九世紀から二〇世紀前半にかけては、金融危機の影響を免れることはできなかった。当時は、深刻な銀行恐慌が第二次世界大戦後と比べてはるかにひんばんだった時代である。一九四二年には、日本はその長い歴史の中で唯一の対外債務デフォルトを起こしたし、戦後インフレの際には、日本のインフレ率は最高で五六八%に達した。だが本書で述べるように、大きな戦争の間やその直後には、デフォルトもインフレもめずらしいことではない。

 日本は特別な国である。第一に、戦後に奇跡の経済成長を遂げた点で、特別である。一九五〇年から一九九〇年代前半にかけて、国民一人当たりの実質所得中央値は、年五・九%のペースで伸びた。当時の先進国の成長率中央値は三%だったから、それをはるかに上回る数字である。第二に、先進国において(ほぼあらゆる指標で見て)最も長いリセッションを経験した点で、特別である。一九九二年から始まった日本の「失われた一〇年」が特異なのは、アジアを始め多くの国の危機のようにリセッシヨンが著しく深刻であるとか、失業率が急上昇したということではなく、力強い回復がまったく認められなかったことにある。一九九二年以来、住宅価格は一年として上がった年がない。インフレ調整後の株価は、一九八九年のピークを七六%も下回ったままだ。危機以降、国民一人当たりの国内総生産(GDP)伸び率の中央値は年一・六%に落ち込み、政府債務は約三倍に膨れあがって、GDPのほぼ二〇〇%に達している(下図参照)。

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 だが興味深いことに日本の「失われた一〇年」の全体像は、本書でも示すように、金融危機前後の年に多くの国が経験したこととさしてちがわない。民間の借り入れの大幅増と資産価格の急上昇に続いてマクロ経済の破綻と政府債務の急拡大が起きるのは、どれもきわめて典型的な症状である。

 それでも日本の出来事は、今日のアメリカやイギリスにも同じようなことが起きかねないという点で、とりわけ重要と言える。危機に見舞われたときのほとんどの国とは異なり、日米英政府は危機の間も資本市場にアクセスすることができた。これは、マクロ経済の安定性に関しても、債務の返済履歴についても、おおむねよい実績を収めてきたからである。資本市場にアクセスできたため、この三カ国はリセッションの衝撃を和らげることができた。しかしそのために、金融部門の徹底的な修正を先送りすることが可能になってしまった。先送りすれば、ほぼまちがいなく修正に時間がかかり、回復は遅れることになる。アメリカの危機を目の当たりにしている日本の専門家は、一九九〇年代に米財務省や国際通貨基金(IMF)が激しく批判していた政策の一つをアメリカ政府が採用したのを見て、自国の危機対応を思い起こしたにちがいない。実際、アメリカの債務をグラフ化したら、現在の政策が変更されない限り、日本のグラフとよく似たものになるだろう。

 こうした共通性は、私たちが本書の研究で発見し、非常に驚いたことの一つとぴたりと符合する。銀行危機は、所得水準も政治制度も異なる国々で広く頻発する(すなわち「機会均等の危機」である)だけでなく、マクロ経済統計にひどくよく似た痕跡を残すということである。これは、よく言われるように単に規制当局や中央銀行の不幸な失敗が重なったことが原因なのではなく、人間の性質に根ざす何か根源的なものが働いているからではないだろうか。做慢と無知は、どの時代にも、どんな政治制度の下でも、人間の性質に普遍的に見られる特徴である。最初に現れるのは、金融危機がどれだけひんばんに起きているかを知らない、という無知である。もっとも、「ひんばん」とは半世紀に一度か、もう少し多いという程度だから、知らなくてもふしぎはない。だから、いくつか例外はあるにしても(たとえばドイツ人は、いまだに一九二〇年代のハイパーインフレの苦しみを覚えている)、ほとんどの社会は悲劇をとっくに忘れている。しかし、八世紀という長期間にわたるデータセットを定量的に観察してみれば、世界中で繰り返される普遍的なバターンを見つけることができる。人間の性質に備わったもう一つの欠点は、倣慢である。金融危機は、どこかよその国、よその時代のよその人に起きる出来事だと思い込むのは、倣慢のなせる業である。政策当局、投資家、メディアは、たびたび「今回はちがう」という言葉を口にしてきた。債務が膨らみ資産価格が急上昇しても、今回はこういう理由があるから何も心配はいらない、木が月に届くまで伸びることだってあるのだ、と。

 本書では、年表や図表を駆使してこうした主張の誤りを明確に指摘する。そして、長い好景気の後ではとくに注意を怠ってはならない理由を政策当局や投資家に示す。きっと読者には、学間的な分析というものが冷徹であると同時に興味深いことに気づいていただけると信じる。最後に一つ、一般の読者には13章と14章を最初に読むことを奨めたい。13~16章では最近のグローバル金融危機を取り上げていることもあるが、そこに掲げた図表を眺めるうちに、より多くの危機について知りたい気持ちになると期待するからでもある。

二〇一〇年一一月
カーメン・M・ラインハート
ケネス・S・ロゴフ

【はじめに】

 本書は、さまざまな形をとって起きてきた金融危機を数字で綴る歴史の本である。私たちがこの本で伝えたいのは、「これはいつか来た道だ」という一言に尽きる。最近の金融狂騒曲がまったく新種のように見えるとしても、いやどの危機もかつての危機とは異なるように見えるとしても、歴史を遡り、また世界を見渡せば、たいていは過去の危機と驚くほど似通っていることに気づく。前例を知り類似性や共通性を知っておくことは、将来の危機発生リスクを抑えるうえでも、また不幸にも危機が発生した場合に賢明に対処するうえでも、世界の金融システムをよりよいものにする第一歩と言えよう。

 本書で取り上げる多種多様な危機の共通点をここで一つ挙げるとすれば、それは、債務が過剰に積み上がると、好況期には予想もしなかったシステミック・リスク(金融システムの不安定化リスク)が高まることである。債務は政府の債務のこともあれば、銀行、企業あるいは消費者による債務もある。市場に潤沢に資金を供給すれば、政府は実力以上の経済成長を演出することができる。民間部門で借り入れが野放図に増大すれば、住宅価格も株価も長期的に持続可能な水準をはるかに超えて上昇し、銀行は本来以上に収益が膨らみ、経営は安泰に見える。だがこうした大規模な債務の蓄積は、リスクを伴う。なぜなら、信頼の喪失による危機に対して経済が非常に脆弱になるからだ。とくに危ないのは、短期の債務が多く、ひんばんに借り換えが必要な場合である。借り入れで勢いづいた好況期には、政府の政策や金融機関の収益力や国民の暮らしぶりが無分別に肯定されやすい。だがこの種のブームの大半は、悲惨に終わる。なるほど、金を借りることは古今東西を問わず経済活動に欠かせない手段ではある。だが借金に伴うリスクとチャンスをうまくバランスさせるのはむずかしいということを、政府も、投資家も、市民も、ゆめ忘れてはならない。

 本書では、さまざまなタイプの金融危機を取り上げる。その一つは、政府による債務不履行、すなわちソブリン・デフォルトである。これは、政府が対外債務または国内債務またはその両方の返済を怠ることを指す。もう一つは銀行危機である。世界が二〇〇〇年代後半に経験したのは、まさにこれである。大規模な銀行危機は、巨額の投資損失か取り付け騒ぎ、あるいはその両方をきっかけに銀行が次々に破綻する形で起きることが多い。このほかの重要な危機としては通貨危機があり、こちらは一九九〇年代にアジア、ヨーロッパ、中南米で多発した。典型的な通貨危機では、往々にして自国通貨の下落を必ず防ぐという政府の「約束」に反して通貨の価値が急落する。さらに、突発的な物価騰貴を特徴とする危機がある。言うまでもなく、予想されていなかったインフレの亢進は、事実上のデフォルトに等しい。インフレになれば、政府を含むあらゆる借り手は、借りたときより購買力の小さくなった通貨で債務を返済できるからである。本書では以上の危機をおおむね個別に取り上げるが、実際には危機は重なり合って起きることが多い。このため第16章では、一九三〇年代の大恐慌や今世紀に入ってすぐに起きたグローバル金融危機など、多数の危機が同時発生した例やグローバルに拡大した例を分析する。

 読者もよくご存じのとおり、金融危機はけっして目新しいものではない。金融市場が発達してからは、危機はつねに人類と共にあった。古い時代には、通貨の改鋳が原因で起きることが多かった。戦争などで国の財政が苦しくなったときの窮余の策として、君主が自国通貨中の金や銀の含有量を減らすのである。だが技術が進歩したおかげで、政府が財政赤字を埋め合わせるために自国通貨から掠め取る必要は、だいぶ前からなくなっている。だからと言って金融危機がなくなったわけではない。危機はいつの時代にも発生し、今日にいたるまでたくさんの国を苦しめている。

 本書で多くのべージを割くのは、今日とくに問題になっている二種類の危機、すなわち公的債務危機と銀行危機である。どちらも何世紀も前から、ところを選ばず発生してきた。いまでは先進国と呼ばれる国でも、かつては公的債務危機がたびたび起きていたのである。これらの国は、政府が頻々と破綻する事態からはどうにか「卒業」したようだが、新興市場国はそうではない。新興市場国ではデフォルトの頻発あるいは連続的なデフォルトが、いまだに深刻な慢性的症状を呈している。一方、銀行危機は、先進国か新興国かを問わず、いまでもひんばんに発生する。この危機は富裕国も貧困国も平等に襲う脅威であり、銀行危機に関する調査は、一九世紀初頭のナポレオン戦争期にヨーロッパで起きた取り付け騒ぎや倒産から、サブプライム問題に端を発する二一世紀のグローバル金融危機にいたる一大ツアーとなった。

 本書で私たちがめざしたのは、できるだけ幅広く、体系的に、かつ定量的に分析することであり、その対象は六六カ国、八〇〇年近くにおよぶ。世界の金融危機の歴史については数々の立派な本が出版されており、中でも一九八九年に出版されたキンドルバーガーの『熱狂、恐慌、崩壊――金融恐慌の歴史』(邦訳日本経済新聞出版社刊)が名高い。だがこれらの本の多くは物語性が強く、ややデータの裏付けに乏しい。

 対照的に本書は、データの分析を基に組み立てられている。それを支えるのは、広く世界の国々を網羅し、また一二世紀の中国や中世ヨーロッパにまで遡る大規模なデータベースである。従来の歴史書が人間と政治の物語であったのに対し、本書の「命」は、これらのデータを提示した簡潔な図表の中に宿ると言えよう。明確な数字で綴った金融危機の歴史は、従来の叙述的なアプローチに劣らぬ説得力があり、また政策の分析や研究に新しい視点をもたらすと期待している。

 本書では、「めったに起きない」としてとかく忘れられがちな現象にスポットライトを当てるべく、注意を払った。実際にはそうした現象は一般に考えられているよりはるかにひんぱんに起きているし、互いに似通ってもいる。ところがアナリスト、政策担当者、さらには経済学者までが、新たに起きた危機をごく狭い視界で捉えるという好ましからぬ傾向を示す。すなわち、限られた国、限られた時期の狭い範囲から抽出した標準的なデータセットに基づいて、判断を下そうとする。債務やデフォルトを扱った学術文献や政策研究の大半が、一九八〇年以降に収集されたデータに基づいて結論を出しているのは、こうしたデータなら入手が容易だという理由によるところが大きい。金融危機の周期がもっと短いのならば、あるいはこのアプローチでもよかろう。だが二五年間しかカバーしていないデータセットは、選ぶべき政策や投資対象のリスクについて、適切な見通しを示してはくれない。二五年のスパンではめったに起きないことも、もっと長いスパンで見ればそれほど稀ではなくなる。要するに二五年分のデータしか手元にない場合、「一〇〇年に一度の危機」に行き当たる確率は四分の一に過ぎない。この点を考えるだけでも、データは数世紀にわたって収集する必要があり、本書の目的も、まさにここにある。

 標準的なデータセットには、ほかにも重要な点で不都合がある。とくに間題なのは、ある種の政府債務が漏れていることだ。本文で言及するとおり、政府が国内で行った借り入れに関しては、多くの国でデータの収集がきわめて困難だった。銀行のオフバランス取引や他の不正会計行為などがよく問題になるが、透明性に関しては政府会計も誉められたものではない。

 今回私たちは、世界各国の債務危機、銀行危機、インフレ、通貨暴落と改鋳などを研究する目的で、包括的なデータベースを構築した。本書の分析は、このデータベースを使って行っている。先ほど述べたように、アフリ力、アジア、欧州、中南米、北米、大洋州から標本国全六六カ国(このほかに、不完全ながらデータを入手できた国が数カ国ある)のデータを収め、その項目は、対外・国内債秘、貿易、国民所得、インフレ、為替レート、金利、商品価格など多岐にわたる。時期的にも八〇〇年間をカバーし、多くの国の独立当初まで、国によっては植民地時代にまで遡る。残念ながら本書で提出するのは、この大規模なデータベースから導き出せることのごくごく一部に過ぎない。

 だが幸いなことに、「これはいつか来た道だ」というメッセージを理解するのに、データを微に入り細にわたってご覧いただくにはおよばない。栄華を誇った末に破綻に追い込まれる金融機関のタイプも、金融取引で大儲け(あるいは大損)をする手段も、時代と共に変化してきた。それでも金融危機は、どの時代にも、景気の過熱・冷え込みのリズムに呼応して起きている。国や金融機関や金融商品が時の流れの中で変わっても、人間の性質は変わらない。アメリ力から全世界に拡がった二一世紀初のグローバル金融危機(本書では第二次大収縮と呼ぶ)は、そのことを改めて示したに過ぎない。

 この最近の危機については第五部で取り上げるが、これは独立して読んでも理解できるよう配慮した(この危機にとくに関心のある読者は、最初に第五部を読んでも差し支えない)。サブプライム危機の前段階で、アメリカの標準的な指標は、金融危機、それも深刻な危機に瀕した国に見られる徴候をほぼすべて示していた。資産価格インフレ、借入比率の増大、長期にわたる巨額の経常赤字、経済成長の減速などである。危機にいたる段階でこうした徴候が見られる点は、注意を要する。また、そこから脱する道のりが危険に満ちていることも併せて示す。金融システム全体に連鎖的に波及するようなシステミックな銀行危機が発生すると、その後は経済活動の収縮が長期にわたって続き、政府の財源は大幅に縮小する。

 順序があとさきになったが、本書の第一部では危機を記述する概念を明確に定義し、本書を支えるデータについて解説する。データセットを構築する作業では先人の研究業績に多くを依拠したが、一次資料、二次資料から新たに収集したものも相当な量に上る。公的債務危機、通貨危機、インフレ危機、銀行危機について系統的に発生年と期間の特定を行い、とくに銀行危機については、巻末資料に年表を掲載した。国内債務(多くは自国通貨建て)のデフォルトについて発生年と期間を確定したことは、これまでにない試みとして、今回の研究を特徴付けるものとなっている。第一部で行った緻密な定義は第二部以降で生かされ、検討するデータに統一的に適用した。

 第二部では公的対外債務を取り上げ、主権国家が国外の債権者に対する返済を怠った事例を年代順に追っていく。一四世紀半ばにフィレンツェの銀行家がイングランドのエドワード三世に行った巨額の融資、ドイツの商業銀行家からスペインのハプスブルグ家当主への貸し付け、そして一九七〇年代には(主に)ニユーヨークの銀行から中南米向けの大規模融資……といった具合で、「債務危機」は枚挙にいとまがない。現代の公的対外債務危機は、銀行危機とは異なり、新興市場に集中している。だがじつは対外債務危機は、新興市場経済が先進的な経済へ成熟する過程で避けて通ることのできない通過儀礼のようなものである。これを免れた国はほとんどないことを、ここで強調しておきたい。しかも経済、金融、社会、政治の発達には数世紀を要することもある。

 国家としての初期段階では、あのフランスでさえ、すくなくとも八回は対外債務のデフォルトを起こしている(くわしくは第6章で取り上げる)。スペインは一八世紀末までは六回で済んでいたが、一九世紀に入ってから八回を記録して、フランスを抜いた。このように今日のヨーロツパの大国が新興段階からのし上がる過程では、今日の多くの新興市場国と同じく、対外債務のデフォルトを繰り返し起こしている。

 ギリシャは一八〇〇年から第二次世界大戦後までずっとデフォルト状態だったと言ってよく、オーストリアはある意味でもっとひどかった。一九世紀以前の国際資本市場はさほど発達していなかったにもかかわらず、フランス、ポルトガル、プロシャ、スペイン、そしてイタリアの都市国家は頻々とデフォルトを起こしている。ヨーロッパの周縁部に位置するエジプト、ロシア、トルコも、やはり慢性的なデフォルト歴を持つ。

 中央政府が対外債務のデフォルトを起こさずに済んでいる国も、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、デンマーク、タイ、アメリカなど少数ながら存在するのに、これほど多くの国が繰り返し起こすのはなぜだろうか――これは、本書が取り上げる興味深い疑問の一つである。

 ヨーロッパや中南米の金融危機に比べると、アジアやアフリ力の危機の研究ははるかに遅れている。現代にソブリン・デフォルトを起こすのは中南米かヨーロッバの貧困国だと広く考えられているからだが、実際にはこの定説は、他地域の研究が乏しいために生まれた誤解である。本書で見ていくように、共産党支配になる前の中国は対外債務をたびたびデフォルトしていたし、一九六〇年代にはインドやインドネシアがデフォルトを起こした。これは、中南米で戦後初の危機が発生するよりだいぶ前のことである。また独立後のアフリ力は、かつての新興市場をそっくり出し抜く勢いで不名誉な記録を伸ばしている。独立後のアジアとアフリ力のデフォルト歴を体系的かつ定量的に調べてみると、両地域がこの種の不始末とは無縁だったという思い込みは、完全な誤りだということがよくわかる。

 第二部からはデータセットを活用し、デフォルトと金融危機の歴史をふんだんな図表を使って描き出していく。その結果、対外債務のデフォルトがほぼ全世界共通の現象だったことが浮き彫りになった。第二部で行った分析から一つはっきりわかるのは、政府がおおむね返済義務を守ってきたこのところの平穏なひととき(二〇〇三~〇八年)は、ごく例外だということである。

 続いて第三部では、公的国内債務の歴史を論じる。とくに新興市場国における公的国内債務(すなわち政府が国内で行った借り入れ)の歴史は、現代の学者や政策担当者から無視されてきた。国際通貨基金(IMF)など、公式統計を担当する機関でさえ例外ではない。彼らは、国内債務のデフォルトを二一世紀になって突如出現した新種の現象とみなしているらしい。だが第三部で明らかにするように、新興市場国の公的国内債務は多くの時代に重大であり、高インフレとデフォルトの発生にまつわる謎を解くにも役立つと考えられる。国内債務データの収集が困難だったことは、ほとんどの政府の「帳簿」が著しく透明性を欠くという事実のほんの一面を表すに過ぎまい。たとえば二〇〇八年には、米政府が住宅ローンの大規模な貸し手に暗黙の保証を与えたため、政府債務が数兆ドル単位で膨らんだ。連邦準備理事会(FRB)は数兆ドル規模のオフバランス取引に関与し、銀行のバランスシートから不良債権を取り除くことに関しても暗黙の政府保証が存在する。このほかに年金と医療保険の未積立債務があるのは、改めて言うまでもない。透明性の欠如は政府債務につきものの症状のようだが、中央政府の基本的なデータが見つからないとは、笑止の至りである。

 この第三部では、公的国内債務のデフォルトとリスケジューリング(債務繰延)を過去一世紀以上にわたって調べ上げたが、これもおそらく研究史上初めての試みである(国内債務そのものの歴史が無視されてきたため、当然ながらその不履行も研究対象とされていなかった)。国内債務のデフォルトは対外債務に比べれば稀だと考えられており、経済書などには、政府は国債を額面通り必ず償還してきたようなことが書かれている。しかし実際には、そう断言するのはいかがかと思われるほどデフォルトが発生していた。国内債務が公然とデフォルトされるときは、対外債務だけをデフォルトする場合に比べ、生産高の急激な落ち込みやインフレの加速など、経済事情がきわめて悪化しているケースが多い。

 続く第四部では、銀行危機、通貨危機、インフレ危機を取り上げる。ごく最近まで、銀行危機の研究対象となるのは、もっぱら先進国における古い時代(とくに第二次世界大戦前)の事例か、でなければ新興市場における最近の事例に限られていた。このような二極化現象が起きたのは、システム全体を不安定化させるような大規模な金融危機は、先進国ではもはや過去の遺物だという思い込みのせいだろう。だが改めて言うまでもなく、最近のグローバル金融危機はこの誤った思い込みを払拭してくれた。そのために多大な社会コストを払わなければならなかったが。

 実際には銀行危機は、貧困国も富裕国も同じように苦しめてきた。一九世紀初頭のナポレオン戦争中に起きたデンマーク危機から二一世紀初のグローバル金融危機にいたるさまざまな銀行危機を調べると、そう結論せざるを得ない。銀行危機の発生率は、高・中・低所得国いずれでも驚くほど似通っている。銀行危機が発生すると、まずまちがいなく税収が急減し、財政支出が大幅に増える(その一部はほぼ確実に浪費される)。銀行危機後の三年間で政府債務は平均して八六%増えており、銀行危機が間接的に財政にもたらすこうした影響は、直接的な銀行救済に要するコストよりはるかに大きい。

 不安定な高インフレも、たびたび危機を招いている。歴史をひもとくと、インフレの急激な発作を免れた新興市場国は一つとしてないことがわかる。対外債務の度重なるデフォルトを避けられた国が少ししかないように、高インフレの頻発を避けられた国もごくわずかに過ぎない。ことインフレに関する限りアメリカも優等生とは言い難く、たとえば一七七九年にはインフレ率が二〇〇%に近づいた。すでに指摘したように、古くは通貨に含まれる金や金の量を減らすことが、公的債務の返済をごまかす主な手口だった。今日では紙幣印刷機が、先進技術によってこの目的を効率よく達成している。こうしたわけで、どの時代もインフレ基調になりやすい。二〇世紀に入るとインフレは一段と亢進し、その後のインフレ危機は、一段と高いインフレ率の下で発生するようになった。最近になって為替レートの急落や通貨価値の中央値の大幅変動が頻発するようになったのも、驚くには当たらない。むしろ驚くべきは、とくにナポレオン戦争期などかなり前の時代にも、為替レートの顕著な変動が見られることだろう。こうした事実は、歴史的視点から俯瞰したとき初めて明らかになる。

 金融危機には、資産価格、経済活動、対外収支などの点でマクロ経済的にみて共通する前例があるだけでなく、危機の経過にも共通するバターンが見られる。第四部では、最後のテーマとしてこの点を取り上げる。

 第五部の内容はすでに述べたので、結論部の第六部に移る。ここでは、危機、政策、そして学問的研究の進むべき方向について考察する。まちがいなく一つ言えるのは、国も銀行も、個人も企業も、大好況期が永久に続くはずもないのに、後々の危険を十分認識しないまま、景気のいいときに過剰に借り入れる習慣を繰り返してきたことである。グローバルな金融システムの参加者が、合理的に考えて抜け出せるとは思えないような債務の泥沼に落ち込む例は少なくない。その最も顕著な例が、二〇〇〇年代後半にアメリカの金融システムで起きた。現在最も問題が多いのは、明らかに政府債務と、政府が保証する債務(預金保険があるので、銀行債務もじつはここに含まれている)である。なぜなら、市場のチェックを受けないまま長期にわたって大量に積み上がる可能性があるからだ。市場によるチェックを実質的に阻害するような規制が存在する場合には、なおのことである。民間債務も多くの危機で重要な役割を果たしていることはたしかだが、今回調査した金融危機に関する限り、総じて問題となるのは公的債務であることの方がはるかに多かった。前述のとおり、公的国内債務に関する基本的なデータが乏しく入手困難であること自体、雲行きがあやしくなったときに政府が躍起になって資料隠しをすることの証拠にほかならない。今回の金融危機に際して銀行が帳簿隠しをしたのとまったく同じである。第六部では、政府会計の透明性を向上させるためにIMFなどの国際機関が果たすべき役割についても論じる。

 過去八〇〇年間に起きた危機の細部に分け入り、データの山をつぶさに調べた末に、私たちはこう考えるようになった。金融危機直前の絶頂期に投資家が聞かされてきた助言は、「今回はちがう」という認識に基づいていた、ということである。その代償は大きかった。「昔のルールはもう当てはまらない」という主張は熱狂的に受け入れられ、金融のプロが、さらには政府の指導者が、われわれは前よりうまくやれる、われわれは賢くなった、われわれは過去の誤りから学んだ、と言い始める。そのたびに人々は自分で自分を納得させた。過去のブームはほぼ決まって悲劇的な暴落につながったものだが、今回は大丈夫だ。なぜなら現在の経済は、健全なファンダメンタルズや構造改革や技術革新やよい政策に支えられているのだから、と。

 本書が依拠するデータの膨大な量を考えると、一つひとつの危機について文章で逐一解説するのはとうてい不可能である。だが、危機が驚くほど何度も繰り返される性質を持つことは、数字や図表が雄弁に物語ってくれるだろう。たとえば図P.1を見てほしい。このグラフは、対外債務デフォルト中の国が世界に占める比率(GDP加重)を時系列で示したものである。

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 グラフの右端に見える二〇〇〇年代のごく短い期間に限っては、まずまず立派な成績と言えよう。だが二〇〇五年に多くの政府当局が、公的対外債務のデフォルトはもはや過去のことだと宣言したのは、果たして正しかったのだろうか。本書が世に出ないうちにその答えが明らかになるのではないかと、私たちは危愼している。未来の政策担当者や投資家が本書の提出するデータと分析の重みを受け止め、安易に「今回はちがう」と口にするのを控えるよう、願ってやまない。今回がちがうことは、まずないのだ。

【目次】

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