その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日はアン・コカス(著)、中嶋聖雄(監訳)、岡野寿彦(訳)の『 トラフィッキング・データ デジタル主権をめぐる米中の攻防 』。「まえがき」をお届けします。
【まえがき】
2009年、上海の蒸し暑い夏の日、私のプロキシサーバーがまた動かなくなった。私はフルブライト奨学生として上海におり、最初の著書 Hollywood Made in China のための調査を行っていた。私のインターネット接続の不安定さは、中国のデジタル環境を形成する大きな現象のほんの小さな一面にすぎなかった。同年、中国政府は、そのデジタル国境を試そうと米国のテック・プラットフォームの締め出しを強化し、中国のテック企業に対し、外国との競争から守り、安全に成長するための余地を与えた。上海の旧フランス租界に住む私の隣人は、VPNinjaという、中国のインターネット検閲を回避する今はなき消費者向けVPN(仮想プライベートネットワーク)のスタートアップ企業を運営していたが、私が仕事上必要としていた信頼できるインターネットアクセスのある彼らのオフィスで執筆できるよう私を招き入れてくれた。
当初は、VPN企業内で仕事をすることは単純に面白いことであり、また中国とハリウッドの関係に関するプロジェクトに取り組むための便利な環境であるだけだった。しかし、ある会話で状況が一変した。Netflixの中国での可能性について書こうとしていたら、友人であるVPNinjaのトニー・ルースが、Netflixの中国での問題はコンテンツではなく、データだという指摘をしてくれたのだ。
2012年、ライス大学のチャオ・アジア研究センターでポスドク研究員として研究を始めてから、再び偶然の発見があった。私のオフィスは、ライス大学コンピュータサイエンス学部の角を曲がったところにあった。私は、本書のために、米中間で運営されているストリーミング・プラットフォームの研究を計画し、調査を始めていた。サイバーセキュリティの専門家であるダン・ウォラックとそのチームのおかげで、デジタルエンターテインメントの流れを、中国政府が閉ざそうとし、米国が開けようとしている「データの蛇口」として見るようになった。身の回りの消費者向けプラットフォームや製品を調べ始めると、中国へのデータの移動が、日常的なものから私的なものまで、生活のほとんどの側面に及んでいることが明らかになった。当初は、なぜ米国のエンターテインメント企業が中国でのデータ収集を妨げられているのかという好奇心から始まった調査が、中国政府が米国のテック部門に今ではどれだけの影響を与えているのかという、はるかに大きな研究の問いに発展した。
2018年12月7日、カナダ当局はバンクーバーでファーウェイの最高財務責任者である孟晩舟(メン・ワンチョウ)を逮捕した。米国当局は、米国の制裁措置違反に関連した銀行詐欺と通信不正行為の共謀容疑で、彼女の身柄引き渡しを求めた。中国当局は、その直後に報復としてカナダ人のマイケル・スパバとマイケル・コブリグを逮捕した。
その週、私はアメリカン・マンダリン・ソサエティの支援による現地調査の一環として、上海市政府の幹部養成学校で上海の情報通信技術(ICT)インフラを調査していた。孟の逮捕から4日間、私はその滞在型養成施設の塀の中で仕事を続けた。米中テック競争は、テック部門だけでなく、米国と中国の関係全体にとって、いかに重大な意味を持つかが、日を追うごとに明らかになってきた。
ファーウェイのグローバル展開が注目されるのは、世界の多くの国・地域での5G(第5世代移動通信システム)インフラの普及における役割に加えて、中国政府の監視・統制ツールとなる可能性があるためである。孟の事件は、デジタル経済のデータとインフラの管理をめぐる、中国と自由民主主義諸国のテクノロジーをめぐる利害関係を明白にした。それからおよそ3年後、カナダ当局が孟をバンクーバーの自宅での軟禁から解放すると、その後、中国政府はカナダ人2名を中国の監房から解放した。
米中関係の緊張がますます高まっているにもかかわらず、中国のテック企業によるデータ収集により実際にどのような影響があるのか、多くの米国ユーザーにとって不透明なままである。2019年4月、ミシガン大学で開催された米中関係全国委員会(National Committee for US-China Relations)のサブナショナルシンポジウムで、中国関連のポートフォリオを持つ州・自治体関係者グループに対し、私はデータ・トラフィッキング(data trafficking)についての講演を行った。このグループには、選挙の激戦州の知事や市長のスタッフも含まれていた。会場にいた政府関係者の半数以上が、中国のテック企業によるデータ収集の可能性に関し、職員が中国に出張した際も含めて職場でのデータセキュリティ・プロトコルを設けていなかった。地方自治体幹部が予算や時間の制約からこの問題を無視してきたためだ。この講演をきっかけに、私は基本的なデータセキュリティ・プロトコルについてのアドバイスを求められるようになった。これは、新型コロナウイルス感染症以前の話なので、みんなオフィスで仕事をしていた。在宅勤務の場合、企業や政府機関のネットワークの恩恵を受けられず、自宅でデータを収集する多数の個人用デバイスを使用して仕事をするため、問題はより大きなものとなる。
本書の執筆期間中に、当初は遠い存在に思えた中国政府のデータ収集と保存の活動が、日々の生活の中心的な存在となった。コロナ禍で、生活はオンラインに移った。北京に拠点を置くソーシャル・プラットフォームであるTikTokは、ティーン向けのマイナーなアプリから、世代を超えた多くの人々の主要なコミュニケーション手段へと発展した。中国政府は、同社のアルゴリズムを国家安全保障上の統制の対象としている。中国のテック企業であるテンセントが運営するゲーム・プラットフォームは、愛好家のためのサイトから、コンサートやリモート学習環境にある子供たちの放課後の交流のためのハブへと役割を拡大した。かつてはニッチなビジネスコミュニケーション・プラットフォームであったZoom(ズーム)が、リモートで打ち合わせを行うことを意味する動詞──「ズームする」──として定着し、社会活動家、学生、ビジネスパーソンのライフスタイルにまでなり、米中間のつながりを強化した。セックスさえもリモートになった。オンライン・セックスワークの爆発的な増加に伴い、カムガールとカムボーイはリモート・セックス・テックを導入し、パンデミックで距離のできたカップルはリモート・セックストイを試すようになった。本書は、仮説的なリスクを探ることから始まったが、その後、パンデミックによって形づくられたオンライン生活の新たな問題を記録した日誌となった。
本書で解説するとおり、ユーザーが気づかないうちにデータセキュリティのリスクを抱えている例は枚挙にいとまがない。上述した国家公務員や地方公務員が直面するデータセキュリティのリスクは、より広範なリスクポートフォリオの一部にすぎない。この研究を始めて以降も、私たち市民について集められるデータは爆発的に増大している。しかし、ユーザー保護は追いついていない。本書を執筆するにあたっての私の危機感は、長期間にわたり米国と中国のメディアとテクノロジーの関係をじかに見てきた体験にもとづいている。私は20年以上、米中のメディアとテック部門で、英語と中国語の両方で調査と仕事をしてきた。また、私は米中のメディアとテック部門の大企業・中小企業の市場参入戦略コンサルタントでもある。私の活動には、米国議会両院での証言、米国の複数の行政委員会や通商当局者への助言、中国での通商・外交当局者との面談などが含まれる。
2012年に習近平(シー・ジンピン)国家主席が政権を握ったのを始まりとして、国外の学者の中国へのアクセスに関する状況は大きく変化している。コロナ禍で米国の学校がオンライン学習に移行した際、中国研究の同僚と私は、香港の国家安全維持法(Hong Kong national security law:略称「NSL」)の域外適用が何を意味するのかについて議論を始めた。結局のところ、中国について教育を行う者は誰でも、どこかで天安門事件に触れるだろうし、より政治的な争点となる台湾・チベット・香港・新疆についても触れる可能性がある。しかし、私たちが直面するこのようなリスクは、中国に家族がいる研究者や中国に拠点を置く同僚が直面するリスクの前ではかすんでしまう。本書の執筆においても、研究手法とアクセスに関する問題が、主題と絡み合っている。オンラインの行動を監督する中国政府の法律がより厳しくなり、域外適用されるようになったことで、研究者が安全に調査研究をする方法は制限されている。
本書『トラフィッキング・データ』では、米国テック産業が設定してきたユーザーデータの利用基準により、一般市民、そして世界各国の政府にとって、中国へのデータ流出から身を守ることが難しくなったことを説明する。他方、中国政府による、テックに特化した高度な産業政策では、米国から収集したデータの利用について、(必ずしも実現されてはいないものの)正確な目標が設定されている。これらの目標は、製品開発・教育・健康・軍備の近代化・情報収集など多岐にわたっている。本書は、米国のテック・イノベーション・システムの持つ問題点が、中国政府の世界的なテック拡張の取り組みを利してしまっていることを説明する。そのうえで、本書が、「データの安定化」(data stabilization)に向けた取り組みを促す一助となれば幸いである。
【目次】




