その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は土屋大洋さんの『 海底の覇権争奪 知られざる海底ケーブルの地政学 』。「まえがき」をお届けします。

【まえがき】

ワイキキ・ビーチの海底ケーブル

 ワイキキ・ビーチは楽園ハワイの象徴である。世界中からリゾート気分を求めてたくさんの人が訪れる。その少し東側に「カイマナ(Kaimana)ビーチ」あるいは「サン・スーシ(San Souci)ビーチ」と呼ばれるビーチがある。ここに第一次世界大戦の戦勝を記念した海水プールがあった。1927年に完成したプールは、長辺が100メートルもあるという巨大なものだったが、今では閉鎖されている。

 このプールの完成からさらにさかのぼること四半世紀、現在から120年以上前、米国西海岸サンフランシスコから一隻の船が12日間かけてこのビーチにやってきた。1902年12月28日、蒸気船シルバータウン号は、ビーチの沖合に錨を投じた。そして、サンフランシスコから引っ張ってきた海底ケーブルの先をカヌーに託した。カヌーを指揮したのは、デビッド・ピイコイ・カハナモク(David Pi’ikoi Kahanamoku)である。オリンピックで水泳の金メダルをとり、サーフィンを普及させたデューク・カハナモク(Duke Kahanamoku)のおじに当たる人物である。サーフィンボードを抱えたデュークの銅像がワイキキ・ビーチに建っているので前を通った人も多いだろう1。カイマナ・ビーチの沖合の水中には岩場が広がっているが、カプア・チャンネル(Kapua Channel)と呼ばれる水底の細い切れ目があり、海底ケーブルはそのチャンネルに降ろされた2

 シルバータウン号がもたらしたのは、ハワイ王国にとってアメリカ合衆国、つまりアメリカ大陸とつながる最初の海底ケーブルであった。この海底ケーブルは、船に頼らざるを得なかったハワイの外界とのコミュニケーションを大きく変えることになる。翌1903年1月1日、つながったケーブルで最初のメッセージが、首都ワシントンDCのセオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt Jr.)大統領に送られた。

 この海底ケーブルは何度も修復されながら使われ、1951年に使用を停止した。現代のカイマナ・ビーチは、それに沿って建つホテルの宿泊客や、ワイキキ(Waikiki)・ビーチを避けた地元の海水浴客で賑わっている。ビーチのライフガードの監視所から沖合の吹き流しを目指して200メートルほど泳ぐとカプア・チャンネルをたどることになり、今でも水底にケーブルを確認することができる。筆者がこのケーブルを初めて見た2014年12月7日(ハワイ時間)は、真珠湾攻撃から73年が経った日だった。ビーチの賑わいを遠くに見ながら水に浮かび、歴史の流れに身を任せる思いだった。

1 デューク・カハナモクについては以下を参照。池澤夏樹『ハワイイ紀行【完全版】』新潮文庫、2000年、339~342頁。
2 Andrea Feeser, Waikiki: A History of Forgetting and Remembering, Honolulu: University of Hawai'i Press, 2006, p. 119.

陸の孤島だったパラオ

 それからさかのぼること4年前の2010年8月、太平洋の島国パラオを訪問した。目的は、太平洋島嶼国・地域の代表たちと無線ブロードバンドの可能性について検討するワークショップに参加することだった。グアムで乗り換えて夜のパラオに着き、かつての首都であり一番大きな街であるコロール(Koror)のホテルにチェックインした。パラオでも一、二を争うホテルであり、ワークショップもこのホテルで開かれることになっていた。

 フロントでインターネットにアクセスできるかと聞くと、大丈夫だが、客室ではなく、フロントの前のロビーでしかできないと言われ、Wi-Fiのパスコードの書かれた小さな紙をもらった。一休みしてから早速パソコンを持ってロビーに陣取り、Wi-Fiにアクセスしたが、うまくいかない。周りを見渡すと、日本から来た若者たちがパソコンやiPadを手にしながら、やはり接続に苦戦しているようだった。

 確かにインターネットにはつながっているのだが、実にスピードが遅い。当時の日本のブロードバンドは世界でもトップクラスのスピードであり、それに慣れていると、パラオのこのホテルのインターネットのスピードはもはや耐えがたかった。少しメールがダウンロードされたと思ったら途中で動かなくなった。どうも大学の同僚が大きな添付ファイルを送ってきているようなのだ。電子メールソフトの設定を変え、大きなファイルのダウンロードはしないようにして、他のメールをようやく取り込めた。

 翌日、ワークショップの席にパラオの通信事業者の役員が来ていたので、パラオの国際回線はどれくらいの容量があるのか聞いてみた。「まあ、あまり大きくはないよね」という答えだったが、「数字を教えてほしい。どれくらいあるのか」と重ねて聞くと、「毎秒30メガビット未満だね」との答えだった。

 後日、パラオの通信事情に詳しい専門家にその話をしたところ、「いやあ、彼はそれでも多めに言っているよ。そんなにはないはずだ」とのことだった。

 当時のパラオの人口は2万人を少し超えるぐらい。インターネット人口は5980人(2011年時点)だと見積もられていた(人口比で28.5%)。それに滞在中の観光客数十人から数百人が夜にはインターネットにアクセスしようとする。仮に毎秒30メガビットあったとしても、とても足りない。国際回線と単純に比較するのは乱暴だが、日本の都市部では各家庭で毎秒100メガビットのブロードバンド回線を使っていることも珍しくなかった。パラオの国際インターネット回線は細すぎた。

 なぜそうなっているのかは、ワークショップの席でだんだん分かってきた。要は海底ケーブルがパラオにはつながっていなかったのだ。

 調べてみると、かつてパラオも電信の海底ケーブルがつながっていたことがあった。しかし、日本の委任統治領として太平洋戦争に巻き込まれたとき、ケーブルは失われてしまった。それ以後、海底ケーブルは復旧されず、光ファイバーでインターネットのデータ通信を運ぶ時代に、パラオは人工衛星に頼らざるを得なかった。

 かつては、人工衛星も画期的な国際通信の手段だった。細い電話用の海底ケーブルに頼っていた時代には、国際電話は滅多にかけられるものではなかったが、人工衛星は回線数を大幅に増やすことに成功した。しかし、それでも、一般家庭が気軽に国際電話をかけることはできず、人工衛星を介した通話には遅延が生じ、スムーズな会話をするのには多少のコツをつかむ必要があった。

 ところが、1980年代に光ファイバーによる海底ケーブルが敷設されるようになると、国際通信の主役は海底ケーブルへと戻った。現在の国際電話にはそれほど遅延が生じないし、大洋をまたいでZoomのようなリアルタイム・ビデオ通話を使ってもそれほど支障はない。光海底ケーブルはグローバリゼーションに不可欠の技術である。むしろ、光海底ケーブルがグローバリゼーションを加速させているといってよい。

 ハワイは1902年に海底ケーブルにつながり、それを順次アップグレードして、今では問題なくインターネットに接続できるようになっている。アメリカ合衆国の一部とはいえ、ハワイは絶海の孤島といっても過言ではない。同じく太平洋の西側に位置するパラオは、それから100年経っても海底ケーブルにつながっていなかった。ほんの数年、海底ケーブルがつながったことはあるとしても、21世紀の最初の16年が経過してもつながっていなかったパラオにも、ついに2017年に光ファイバーの海底ケーブルがつながった。

海底ケーブルがつながらないことの意味

 そもそも、海底ケーブルにつながることができないということは、何を意味するのか。パラオが好んで海底ケーブルを拒否していたわけではない。一言では説明できない複雑な政治・経済的な要因が絡まって、パラオに海底ケーブルはなかなか来なかった。

 インターネットがビジネスや教育にとって重要なツールであることは、もはや否定しがたい。コンピュータのスキルが様々な職種で求められるようになっており、それにはインターネット利用も含まれている。それを十分に活用できないとすれば、パラオの競争力に影響が出ないはずはない。

 そして、パラオが世界の最後のインターネットの秘境というわけでもない。日本のデジタル・デバイド問題を実践的にリードしてきた佐賀健二・元亜細亜大学教授は、かつてデジタル・デバイドで後れを取っていたのはサハラ以南のアフリカと太平洋島嶼国・地域だと指摘していた。そのアフリカも、その後、東岸と西岸に光海底ケーブルが敷設され、ヨーロッパから南アフリカのケープタウンを回ってネットワークがつながっている。その結果、佐賀教授が最も懸念していた太平洋島嶼国・地域が最後まで残された。

 すべての太平洋島嶼国・地域が苦しんでいるわけではない。米国に併合された最後の州であるハワイは、太平洋の隔絶した地域にあるが、その戦略的重要性ゆえに、1898年の米国への併合直後の1902年(州への昇格は59年)には海底ケーブルがつながり、現在では何不自由ないアクセスが得られていることは既に述べた。同じく米領のグアムもまた、軍事基地をサポートするために大容量の光海底ケーブルが敷設され、日本やフィリピンなどアジア諸国ともつながっている。太平洋の独立国のなかにも光海底ケーブルを得ている国は少なからずある。

 他方、光海底ケーブルの恩恵を享受できていない国や島が、パラオ以外に存在する。太平洋の島々はもともと国土が小さく、地球温暖化の影響でますます小さくなる危険にさらされている。そのなかに強力な産業を持っている島は少ない。かつてのハワイではドールやデルモンテによるサトウキビやパイナップルなどのプランテーションが盛んだったが、そのような大規模資本が入ってこない島も太平洋には多く散らばっている。

 土地が小さく、人口も少なければ、国際通信事業者にとって市場価値は小さく、わざわざ海底ケーブルをつなぐインセンティブはない。有望な産業はきれいな海洋資源にもとづく観光だが、インターネットが十分に使えない島は多くの観光客にアピールできない。あえて都会から隔絶したビーチを求める向きもあるだろうが、きれいな海の写真をソーシャルメディアで家族や友人と共有しようと思っても、光海底ケーブルがなければスムーズにはいかない。

 現代の島にとっては、海底ケーブルは発展のために不可欠の基盤になりつつある。それは、島国日本にとっても同じである。我々は、インターネットや国際電話がつながるのが当たり前の世界に生きている。海外旅行に行っても日本の携帯電話をそのまま持ち出し、国際ローミングで通話やデータ通信を楽しむことができる。海外にいることを知らせていない友達から電話がかかってきても、(少し高い料金や時差の問題はあるが)簡単に話すことができる。しかし、その通話のほとんどは海底ケーブルを経由している。

他人事ではないリスク

 日本の海底ケーブルは、関東だと千葉県や茨城県、関西だと三重県あたりに集中して陸揚げされ、米国やアジア諸国、ロシアとつながっている。今では、北海道からカナダ沿岸の北極海を通って英国のロンドンまでつなげようという話も出ている。こうした光海底ケーブルがもし失われることになれば、グローバル市場のなかでの東京市場の地位は失われ、日本経済に多大な影響が出るだろう。軍事の世界ではいまだに人工衛星を使う割合が高いものの、かなりの部分が商用の海底ケーブルを利用した専用線に移行している。外交公電のことを英語では「ケーブル」と呼ぶが、外交公電の多くもまた陸上および海底のケーブルを使っていたからだ。無論、郵便と差別化するために使われた言葉だろう。

 2011年の東日本大震災の際、つながらなくなった携帯電話の代わりに、我々はソーシャルメディアを使って連絡を取り合ったり、情報共有したりすることができた。しかし、私たちの多くが気づかないところで、海底ケーブルは地震によって切断されていた。海底の断層が大きくずれることで、海底に横たわっているケーブルがちぎれてしまったからだ。

 それに気づいた海底ケーブルの事業者たちは、地震の翌日、都内で集まり、協力して難局に立ち向かうことを確認した。平時のビジネスでは、経済的利益を巡って競争する事業者たちが、このときばかりは協力し、互いの通信トラフィックを融通し合い、できるだけスムーズにインターネットが使えるようにした。放射線の危険が残っていた茨城県沖でも海底ケーブルは切れており、すべてのケーブルを修復するのには3カ月ほどを要したとされている。そうした陰の努力が我々の生活を支えている。

 本書は、19世紀から現在に至るまでの海底ケーブルの歴史を見ながら、現代におけるその意義を明らかにしようとするものである。海底ケーブルの歴史を記した書籍は、実はかなりある。しかし、1980年代以降の光海底ケーブルの時代になると、政府の関与する余地がぐっと減ったため、表に出てくる情報もかなり減り、その実態は分かりにくくなっている。無論、本書がそうした隠れた民間の情報を明らかにできるわけではないが、それをとりまく様々な情報の断片を掛け合わせることで見えてくる現状を元にしながら、海底ケーブルが我々の生活を支えている様子を見ていきたい。

 海底ケーブルは、いわゆる重要インフラストラクチャの一部である。ほとんどの重要インフラストラクチャは、電気や水道、公共交通機関のようにあって当たり前で、その意義は普段は忘れられている。しかし、それが失われる可能性は、ゼロではない。その仕組みを理解し、非常時のための対策を考えておくことは、国家安全保障においても、個人の生活防衛のためにも重要だろう。

【目次】

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