その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は広野彩子さん編著の『 世界最高峰の経済学教室 』です。
【まえがき】
経済学っていったい何の役に立つのだろう。本当は何が面白いのだろう。今、本当はどこまで分かっていて、どのような研究が盛んなのだろう。筆者は、一記者としてそんな素朴な問いに取りつかれるようになった。全国紙記者から、出版社の経済誌記者に転じて間もない2000年代初頭のことだ。
まだ、現在のようにインターネットが十分に発達していない時代である。SNS(交流サイト)もスマートフォンも存在しない。とはいえもう21世紀なのに、当時、新聞など大手メディアで目にする経済学者の名前は、大抵ケインズ、フリードマン、シュンペーター、たまに批判的にマルクス、そしてアダム・スミス中心であることに素朴な疑問を持った。いずれも重要だが、前世紀以前の古典的な学者である。日本でも知られている海外の現役経済学者としては、ポール・クルーグマン氏やジョセフ・E・スティグリッツ氏などがいたが、知識にも手がかりにも乏しい当時の筆者には、文章が得意で、世間に伝えたい思想や強い信念を持っている人だけが活躍しているように見えた。ノーベル経済学賞受賞者が毎年選ばれているにもかかわらずだ。
科学については次々と新しい研究が話題になり、時に報道メディアのトップを飾っていた。一方、われわれの経済・社会生活を活写し分析する、身近なはずの経済学は、時が止まったままに見えた。経済環境も政治思想、社会のありようもまるで違うのに、なぜひたすら同じ古典的理論だけが繰り返し引用されるのかが、素朴な疑問だった。きっとあるに違いない最新の専門知との間に、一般人には見えない分厚いファイヤーウォールがあるように感じ、壁の向こうにあるダイナミズムの方向性を本格的に探りたくなった。今にして思えば、大変身の程知らずなテーマに首を突っ込んでしまったと思う。
しかし、新しいもの好きな一般紙の新聞報道出身の体質ゆえか、最新の議論に純粋に興味があり、好奇心が勝った。単なる知識で終わらない、社会の今を理解するうえで役に立つ研究があるはずだとの確信があった。本書は手探りで続けてきた、約20年の取材・探究・編集・執筆活動をまとめた集大成である。
本書は、主に米国で活躍する世界最高峰の経済学者12人へのインタビューをもとに構成している。すべての学者に対して、理論がどう役に立つのか、理論を使って考えることが、政治・経済・社会・ビジネスにおける目の前のテーマや世の中の理解にどう役立つのか、その時々のテーマに沿ってしつこく尋ねた。
研究の動機は人それぞれである。だが、一人ひとりに象徴的な出会いと人間ドラマがあり、その人だけの文脈があった。本書をざっとお読みいただくことで、21世紀の今もなお注目され、応用されている革命的な知見を生み出した経済学者たちが何を大切にし、どのように研究に取り組み、大きな社会課題の解決に向けてどう知的に格闘してきたかが、読み取れるはずだ。
各章のインタビューの前のパートではそれぞれの経済学者について「概説」を書き下ろした。そこでは、とりわけ取材時の世相、語り手の関心や研究史、人間関係に注目した。メディアの記者が「人もの」と呼んでいるものだが、著名な人物の半生と、偉業が成し遂げられた背景を、本人はもちろん文献調査や多方面にわたる関係者への対面取材、現場取材を通じて特集する記事を書くことがある。技法的にはそのイメージだ。インタビューの理解を助けるための概説のつもりがついあれもこれもと盛り込み、本編並みに長くなってしまったものもある。また、本編の合間にも質問に加えて解説をさしはさんでいる場合もある。
各章に登場する経済学者の研究の背景や理論の概要、理論をめぐる論争などについては、国内の第一線の研究者に改めて取材した。インタビュー当時の肉声に加えて著作物、論文などにもなるべく数多く当たって書き、本人から最新の追加コメントを直接いただいたケースもある。中には現在進行形のトピックも含まれており、筆者の理解の範囲で執筆している。特定分野の専門家の目から見て抜け落ちている視点などについては、ウォッチャーにすぎない筆者の人的資本の限界ということで、ご寛恕いただきたい。幸い、多くは各分野の専門家の助言や本人のレビューをいただいている。
前半は「人間と市場をめぐる経済学」をテーマとした。ざっくりと主にミクロ経済学の最先端を追うものだ。ジャンルでいえば人的資本論、行動経済学、オークション理論、マッチング理論、フィールド実験、そして「生き抜く力」の経済学といったラインアップになっている。語り手は、故ゲイリー・ベッカー氏、リチャード・H・セイラー氏、ダン・アリエリー氏、ポール・ミルグロム氏、アルビン・E・ロス氏、ジョン・A・リスト氏、そしてジェームズ・J・ヘックマン氏だ。
後半は、政策や政治をめぐる経済学だ。開発経済学、産業政策論、制度・政治経済学、新しい資本主義の経済学、そして金融政策論である。語り手はアビジット・バナジー氏、ダロン・アセモグル氏、ジョセフ・E・スティグリッツ氏、ダニ・ロドリック氏、そしてラグラム・ラジャン氏である。
本書に登場するこれら12人のうち7人がノーベル経済学賞を受賞している。ただしポール・ミルグロム氏、リチャード・H・セイラー氏は最初のインタビュー時点ではまだノーベル経済学賞を受賞していなかった。
筆者は、『朝日新聞』を経て日経BPの週刊経済誌『日経ビジネス』編集部に移籍した記者・編集者である。記者歴は本稿執筆時点でちょうど30年になる。学生時代は早稲田大学政治経済学部経済学科で学び、経済学のさわりに触れた。転職後、主に破綻企業の再生を取材しながら、政策と理論の関係に興味を持つようになっていた。そして2003年から米国のプリンストン大学大学院の公共政策修士課程に留学し、マクロ経済分析や計量分析、ファイナンスや応用ミクロ経済学などのごく一部を集中的に学んだ。学術の専門家ではないが、学術を通して現実を理解するために必要な知識について、すべてではないが一定のトレーニングを受けた。そこで、経済学部の博士課程に在学していた安田洋祐氏(大阪大学)、陣内了氏(一橋大学)、中島大輔氏(小樽商科大学)といった日本人の経済学者と知己を得た。修士課程修了後も筆者は記者・編集者として経済学の動向に長年関心を持ち、取材してきた。
前編著『世界最高峰の経営教室』は、『日経ビジネス』誌上で、2019年ごろから海外の著名な経営学・ビジネスに関わる有識者らを探してインタビューし、連載したものをベースにした。経営学については2012年から早稲田大学ビジネススクールの入山章栄教授や慶応義塾大学の琴坂将広准教授、米カリフォルニア大学サンディエゴ校のウリケ・シェーデ教授ら国際畑の研究者の連載を中心に手がけたものの、経済学に比べると蓄積が浅かった。本の出版は経営学関係が先になったが、筆者の取材歴がより長く、ライフワークとして取り組んできたのが、経済学の新潮流の掌握である。
当時主務でコラムを担当していたのが、無料登録で読めた『日経ビジネスオンライン』(当時のコンテンツの多くは閲覧不可となり、現在は日経ビジネス電子版)だった。媒体の自由な編集方針を生かして、国内外で活躍する若手経済学者に寄稿を依頼するコラム「気鋭の論点(のちに「気鋭の経済論点」と改題)」の企画・編集に取り組み、最新の研究に関する寄稿記事を配信する活動を続けてきた。寄稿や取材、懇親、雑談などでご一緒した経済学者は、しっかり数えたことはないが国内外でおそらく200人以上に上るだろう。
そうした長年の取り組みもあって2020年10月10、11日に開催された日本経済学会では、お世話になってきた教授陣からのお誘いで、パネル討論に登壇する機会をいただいた。長年にわたって、経済学を経済誌のコンテンツとしてどう発信してきたかなど、安田洋祐・大阪大学経済学部教授(当時、准教授)の司会によりNHKエデュケーショナルのチーフプロデューサーである吉村恵美氏(経済学を特集するNHK教育の番組「オイコノミア」をプロデュース)、日本評論社『経済セミナー』の編集長である尾崎大輔氏と一緒にお話をさせていただいた。アーカイブ記録が日本経済学会唯一の日本語版機関誌『現代経済学の潮流 2021』(東洋経済新報社)に収録されているので、興味のある方はぜひ参照いただきたい。
2021年7月からは、経済産業省管轄の政策シンクタンク、独立行政法人経済産業研究所で1年間、エディトリアル・コメンテーターを務めた。ファカルティフェローとして活動する経済学者らがプロジェクトとしてどのような研究に取り組み、どのような議論をしているか、経済産業省を中心とする経済政策当局とどのように意見交換をしているのかを知り、議論に参加する機会を得た。ウオッチャーの立場からさまざまな質問をしたり、ユニークな研究については日経ビジネス本誌や電子版に寄稿をお願いしたりした。
在任時はコロナ禍であったこともあり、大阪大学感染症総合教育研究拠点の大竹文雄特任教授らによる「日本におけるエビデンスに基づく政策形成の実装」プロジェクトの1つで、ナッジによるワクチン接種の向上策を検討した研究1のディスカッションペーパーに基づく議論が印象に残った。そこで質問させていただき、行動経済学者である大竹教授から教わった。個人的には第2章に登場する、「ナッジ」を普及させたノーベル賞経済学者リチャード・H・セイラー氏への取材が、実践に役立つ経済学へのさらなる興味を決定付けたものでもあった。
そうした所属メディアのカバー外におけるアウトリーチの経験も踏まえた本書は、現代的な経済学におけるそれぞれの分野が発展してきた歩みと、「これまで・今ここ・これから」とそこにある研究者の信念や人間模様をざっくりつかむ資料としては、多少はお役に立てるものと考えている。
概説には、経済学の専門家は当たり前に知っているかもしれないが、非専門家が読んでも、経済や社会の動きを見つめるうえで学びや気付きがあるような最先端の議論や興味深い知識を集めるよう努めた。日々の活動や変革のボトルネックになっている問題の解決策を見つけるヒントが、見つかるだろう。
その意味で本書は、経済学に関心のある社会人、学生、研究者、この社会を少しでもよくしたいと日々格闘されているすべての方々に、考える材料としてぜひ読んでいただきたい。本書の語り手はすべて、世界が認める超一流の経済学者である。
中にはゲイリー・ベッカー教授のようにすでに亡くなられた方もいる。今から改めての深い取材が困難なノーベル経済学賞受賞者の個人史については、その一部を本人の語りとして紹介文を掲載しているノーベル財団の公式サイト(英語)を公開情報として参考にさせていただき、また比較的多めに引用させていただいたことをあらかじめ特記したい。また、参考にしたうち超長文の公開論文などは、短時間で全体像とポイントを把握するにあたり、高速で日本語にしてくれる翻訳ソフトウエアが大活躍した。つくづく良い時代になったものだ。ただインタビュー本体や未翻訳の英語による文献や書籍の翻訳は、筆者によるものである。
筆者は一記者で、非専門家ではあるが、現実を見ながら広く分野を横断するウォッチャーだからこそ伝えられる面白さがあると信じて取材および執筆を続けてきた。研究の背景や事情を知り、時には研究者の方々の人間関係の機微に迫るほど近づきながら、偶然にまったく知らなかったその人だけのファクトと出合うときの驚きは何物にも代えがたく、面白い。第三者の立場でそうした前向きな「面白さ」をしっかり伝えることは、健全なジャーナリズムの役割の1つだと信じている。
章と章は底流でつながっている部分も多いが、関心を持った章や研究者を見つけたら、順番を問わずにぜひそこから読み進めていただきたい。読者の多様なニーズにすべて応えることはもとより不可能であるし、すべての分野を網羅することも不可能だ。また、こうしたジャンルのインタビューは先方の賛同があって成立する共同作業である。そもそも会っていただけなかったり、今回再掲載を丁重に辞退されたりした方もいた。本書の中でさらに関心を持った理論や研究についてはぜひご自身で探究し、掘り下げていただきたい。今後世の中を変えていきそうな経済学のトレンドを知るガイダンスとして、うまく活用していただけたら幸せである。今とこれからを世界最高峰の経済学者はどう考えているのか。今とこれから、経済学は何ができるのか。何が変わりそうなのか。本書はきっと、こうした問題を考察する手がかりになると、信じている。
【目次】






