その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は小川進さんの『 リアルストーリーでわかるマーケティング成長企業 』です。
【はじめに】
本書で紹介するのは、日本のある食品企業で起こった2つのブランドの誕生と成長の記録である。その会社名を「素晴らしきマーケティング企業(Mighty Marketing Company)」の英語を略してMMC、さらに縮めて仮にM社としておこう。
M社で起こったことには、マーケティングの本質が凝縮されている。失われた30年と呼ばれ、事業成長が困難だと考えられていた平成に、M社は性格がまったく異なる2つの事業分野でブランド成長に挑戦した。今風に言うと、失われた30年の間に両利き経営で、しかも2つのブランドで同時成長に挑戦したということになるだろうか。
平坦で障害物のない道を自転車で走るのは、多くの人にとって難しくないだろう。しかし、舗装されていない山道のような激しい起伏のある地形を走るとなると事情はまったく違ってくるはずだ。企業経営で考えてみよう。そのかじ取りは、平坦でまっすぐな道を走るようにできるわけではない。むしろ、先が見えず起伏に富み、足元に何があるかおぼつかず、時に激しい雨風に見舞われるなかで前進を強いられている状況の方が近い。
マーケティングの教科書を読めば、重要な概念や枠組み、実証結果がわかりやすく紹介され説明されている。しかし、その内容を理解することと実際の業務に活かし成果を上げることの間には大きな隔たりがある。実際のマーケティング現場には、前述の強い雨風のなか、オフロード競技で1位獲得を目指し自転車を操り進むような難しさがあるからだ。
本書はそうした過酷な環境のもと「卓越した経営手腕を発揮する経営者が、どのような論理に基づき、どのようにしてマーケティングを構想し、実行に移しているのか」について紹介する。30年という長期間、同一企業の同一ブランドのマーケティングを追跡することで、多様な環境で起こる様々なマーケティング問題を統一的枠組みで解決する姿を紹介する。自分が直面する課題にマーケティングの知識をどのように結びつけ問題解決を図ればよいか、そのヒントが欲しい読者に一つのお手本を提供したいと考えている。
本書の事例をどのような視点から読み進めていくとよいか。それを考えるには、ノーベル経済学賞受賞者のハーバート・サイモンが紹介しているたとえ話が参考になる(サイモン 1987)。
海岸の波や風の跡が残った砂浜を一匹の蟻が苦労して歩いている。前進したり、小さな砂丘を登りやすいように右折したり、小石を迂回したりして自分の巣に帰っていく。蟻のたどった道筋は紙の上に描くと不規則でジグザク状になる。
ここでのポイントは、蟻の歩いた跡は不規則で複雑だが、それは海岸線の複雑さを表すものであって蟻の行動の仕組みの複雑さを表すものではない点だ。
サイモンは、蟻の行動の仕組みは極めて単純で、その行動が複雑に見えるのは蟻を取り巻く環境が複雑だからだと言う。さらにサイモンは人間の行動も同じだと言う。人間の行動原理は極めて単純であって、人間の行動が複雑に見えるのは主に人間を取り巻く環境の複雑さが反映されているからなのだ、と言うのだ。
本書で紹介するM社の事例でも同じだ。事例の背後で作動するマーケティングの論理は実は単純だ。しかしその論理を作動させるには、気が遠くなるほどの思考や試行錯誤、そして社内外を動かすコミュニケーション力や政治的腕力が必要になる。
例えば、製品の売上は「認知率(そのブランド名を知る人の割合)」と「配荷率(同ブランドの販売可能な店舗で実際に販売している店の割合)」と「プレファレンス(価格、性能、ブランド資産)」の3つで決まるとわかっているとしよう(森岡・今西 2016)。
しかし、そうした相関式がわかっていても、それぞれの要素で期待する数字を実際に実現することは至難の業だ。それは近年、メジャーリーグで普及した、野球を統計学的に客観的に分析し選手の能力評価や戦略立案に活用する手法、セイバーメトリックスを実際の試合で利用することに似ている。
例えば、ホームランになりやすい理想的な打球速度と打球角度の組み合わせ(バレルと呼ばれる)がわかっていても、実際の試合でホームランを打つのは簡単ではない。投手が投げる球種や球速、打者の体調や身体能力、それぞれのチームの作戦、さらには屋根なし球場なら当日の天候といった文脈を加味して、打者はバレル内に入る球を打たなければならないのだ。
マーケティングの話に戻せば、目標とする「売上」を達成する「認知率」「配荷率」「プレファレンス」の数字が計算上わかっていても、その実現にこそマーケターの力量が試されるのだ。だからこそ、こうした関係を利用し実績を上げることができる人物に注目が集まり、「稀代のマーケター」や「マーケティングの神様」と呼ばれるまでになっているのだ。
さらに言えば、現代の実務家がブランド・レベルで成長を図るために参考となる理論枠組みや実証結果は、思いのほか少ない。製品の誕生から普及、衰退へと向かうパターンを説明するマーケティング理論にプロダクト・ライフ・サイクル(PLC)という概念がある。しかしそこで語られる集計水準は、例えばパーソナル・コンピュータといった製品カテゴリーやデスクトップやノート型コンピュータといった製品形態でしかなく、ブランド・レベルのものはほとんどない。
結論を先取りすると、本書で紹介するM社はマーケティングの定義が示唆する手本のような活動を展開した。平成期の中間点でもある2004年にアメリカマーケティング協会は、マーケティングを次のように定義している(Gundlach and Wilkie 2009)。それは「当該組織と利害関係者に便益をもたらす方法で顧客に向け価値を創造、伝達、提供し、顧客関係を構築する組織的な働きおよび一連のプロセスである」だ。
この定義は4つの要素からなると読み解くことができる。定義の表現とは順序が相前後するが以下の4つだ。①顧客価値の創造・伝達・提供、②そのための創造的正当化による資源動員、③顧客関係の構築、④顧客価値実現からの金銭的報酬を原資とする自組織と(顧客を除く)利害関係者への便益の提供、だ。
以上の4要素を組み合わせ、マーケティングを行うということは、次のようなことだ。まず「利害関係者とは誰か」とその「関係者間の優先順位」を明確にする。マーケティングが考える利害関係者は「顧客」「取引先」「従業員」「地域社会」「株主」で、優先順位はこの順番だ。優先順位の最初は顧客で、「企業は顧客のためにある」と考える。顧客に向け創造し、提供するのは顧客が喜んで代金を支払いたいと思う顧客価値であり、そこで得た金銭的報酬が残りの利害関係者に提供する便益の原資となる。ブランド開発の責任者は顧客価値実現のため様々な相手、理由を駆使し、経営資源の継続的動員を創造的に正当化し製品を開発、市場化する。顧客は企業から購入した提供物(ブランド)を利用し事前の期待を超える価値を感じれば満足し、同一あるいは関連提供物を購入するようになる。企業は自社ブランドを反復・関連購入する忠誠顧客を育成する一方で、同じ労力をかけ同ブランドに新規顧客とライトユーザーが流入し続けるよう製品開発を継続的に行っていく。M社が最終的に実現していくマーケティングの論理は、実はここで書いたワンパラグラフで表現されてしまうものだ(本書で紹介するマーケティング論理の全体像を先に理解しておきたい読者は、ネタバレにはなるが巻末の【フレームワーク編】を読んでから最初に戻り読み進めるとよいだろう)。
こうしてマーケティングの現場を動かすのが単純な論理であっても、作動させる方法は担当者が向き合う環境の数だけある。ブランドの責任者は一般的で抽象的な論理を個別で具体的な状況に落とし込み、作動させなければならない。それが行えるようになるには、本来は小さな成功体験の積み重ねを含むいくつもの試行錯誤を通じ、マーケティング論理を作動させる方法を身につけていくしかない。
しかし、残念なことに高度経済成長時代を知らない今の現役世代のほとんどは、手本とすべきブランド成長の事例を自らの経験や社内外で見つけることが難しい。そんな状況のなかで本書は、今の現役世代が質の高い経験を代理学習できる事例を現場視点で記述し、提供することを目的としたい。
文化人類学者のクリフォード・ギアーツは、人の行動そのものだけでなく文脈を含め記述したものを「厚い記述」と呼んだ(ギアーツ 1987)。例えば「片目のまばたき」は単なる「目の痛み」によるものだけでなく、文脈次第で「愛情」や「同意」を表すものにもなる。本書はM社のブランド成長を厚く記述する。読者にはM社が展開したマーケティングの論理とそれを実現するために駆使した様々な実現方法のレパートリーを厚く、つまり文脈を含め読み取り、多くの気づきや学びを得てもらいたい。
最後に、本書は筆者の取材による実話をもとに執筆している(取材にあわせて、M社の社内向け『戦略史』[非売品、2008年]も参考にしている)。ただし、取材元企業や関係者への配慮から実際の正確な数字や事実関係の一部に手を加え、登場する企業(製品・ブランド)名および人物名の多くを仮名としている。そのことで筆者が伝えるマーケティングの論理と作動実態の中身が変わることは決してない。ここに約束してM社の話を始めることにしよう。
C・ギアーツ(1987)『文化の解釈学Ⅰ』(吉田禎吾他訳)岩波書店
ハーバート・サイモン(1987)『システムの科学』(稲葉元吉・吉原英樹訳)パーソナルメディア
森岡毅・今西聖貴(2016)『確率思考の戦略論 USJでも実証された数学マーケティングの力』KADOKAWA
Gundlach, G.T. and W. L. Wilkie (2009) “The American Marketing Associationʼs New Definition of Marketing: Perspective and Commentary on the 2007 Revision.” Journal of Public Policy & Marketing Vol. 28 (2) Fall 2009, 259–264 pp.
【目次】











