その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は中村二朗さん、小川誠さんの『 賃上げ成長論の落とし穴 』です。

【はじめに】

賃金上昇論に対する違和感

 「なぜ日本の賃金は上がらないのか」という課題に答えを出すために、様々な報告書や白書さらに専門書などを読むことにした。読んでいてだんだん頭が痛くなってきた。内容がスムーズに頭に入ってこないのである。

 どのように難解な専門書でも、読み続けていくうちにだんだん頭の中がすっきりしてきて、言いたいことが徐々に分かってくる。しかし、一部を除いて今回の課題に関する本や報告書は、読めば読むほど頭の中の白い霧が濃くなってくる。歳のせいで理解力が落ちたのだと思い何度も読み直しても、霧は濃くなるばかりである。仕方がないので、真剣にその理由を考えることにした。

 読んでもすっきりしない理由として考えられるのが、以下の2点である。一つは、日本の賃金の上昇は他国に比べて長期にわたって本当に低かったのか、という事実認識に対してである。二つ目は、仮に日本の賃金上昇が低かった場合にその理由はどこにあったのか、ということである。

国際比較からみる日本の賃金

 賃金とは労働者が提供する労働サービスの価格でもある。ここで厄介なのは、労働サービスといっても現実には量や質などが異なり様々なケースが存在することである。大企業の正規雇用者とアルバイトの時給ではかなりの差がある。それでは、日本の賃金は上昇していないと唱えている人たちの言う賃金とは、何を指しているのだろうか。国際比較などを行う際によく使われる変数は、雇用者報酬を雇用者数で割った一人当たり雇用者報酬である。

 日本の賃金が上昇していないという認識に対しては、国際比較をすることによって、他の国に比べて日本の賃金の上昇(率)が低いことが示されるケースが多い。このときに多くの資料では、特定の年などの値を100として各年の推移をみている。各国の推移を単に観察するのならば、この方法は直観に訴えるものであり便利なものである。

 しかし、国ごとの相違をみるためにはどうだろうか。基準とした年において各国の値に大きな差異があった場合には、基準年以降において各国で異なった何らかの調整が行われる可能性がある。例えば、基準年において一国だけ賃金が高いようなケースにおいては、その後の期間で為替レートを含めて様々なルートで調整が行われるだろう。

 基準年を設定して各国での推移を比較するならば、基準年での各国の差異を反映させるために基準年での対象となる国の値を100として、各国の値を個別に設定するべきである。例えばA国を100としたときにB国の対象とする変数の値がA国の80%であったとすれば、基準年のB国の値を80として考えるなどと処理すれば、基準年での各国の賃金水準の相違を反映させたかたちで賃金の動向を観察することができる。

 すっきりしないもう一つの理由についてみてみよう。今回の「日本の賃金はなぜ上がらないのか」という課題に対して、どのような根拠の下でどのような人たちがいつ頃から提唱しているのか調べてみたが、詳しいことは分からなかった。ただし、現在とは全く逆に2000年以前から財界主導で賃金の抑制策が提案されていたことは確かであり、一部の労働組合も雇用維持を前提として、それを許容する姿勢を示していた。つまり、労使ともに、2000年前後の日本の賃金は国際的にみて高水準にあったことを認めていたことになる。

賃金の動向に関する異なった見方

 本書では、以上のすっきりしない理由を解明することに多くの努力を費やしている。1章においては既存の分析と同じように一人当たり雇用者所得を一国の平均的賃金とみなして、若干異なった修正をすることにより、その変化を国際比較している。そこから分かることは、長期にわたって日本の賃金が国際的にみて低迷していた、という認識を一方的に受け入れることはできない、ということである。

 また、日本は生産性の上昇が相対的に低く、それが賃金の上昇を抑制しているという議論もあるが、時間当たりの生産性でみるとそのような傾向はみられない。確かに2000年代の後半において、リーマンショックを契機として正規雇用者の賃金などは抑制傾向が加速された。それは、労働時間の短縮や円安などの政策的な影響を強く反映したものとも考えられる。

 一人当たり雇用者報酬などのマクロ的な変数を扱う限り、その国固有の労働市場の特徴や時点間の変化、さらには現在直面している課題などについての重要性が無視されてしまうことがある。賃金は企業におけるコストという一面と労働者の生活の糧としての一面があり、経済全体に与える影響が極めて大きい。その一方で、労働者の属する家族の在り方やその国固有の文化などが賃金そのものに直接・間接的に影響している。

 現在の日本は家族の在り方や働き方に対する考え方などが変化している一方で、急速な高齢者の増加やそれに伴う労働力人口の減少など解決しなければならない課題があり、労働市場において様々な構造的変革が求められている。このような時期に平均的にみた賃金の変動のみにとらわれた一方的な議論を行うことは、極めて多くのリスクを伴うだろう。

本書で分かったこと

 本書の目的は、できるだけ整合的なデータから日本の労働市場の実態および変化を整理・検討し、その背景を解明することにより、現状の賃金に対する認識に対して批判的検討を加えるとともに、今後の賃金のありように関する提言を行うことである。

 本書で明らかになったことについて、以下で簡単に整理しておこう。

① 言われているような20年から30年にもわたるような国際的にみて長期的な賃金の停滞はみられない。賃金の停滞があることを特に強調するならば、それはリーマンショック以降の10年程度の期間である。

② 一方で、日本の正規雇用者(特に男性)の平均的賃金の動向は、他の雇用者に比べて確かに停滞している。これは、企業内における正規雇用者の高齢化などが大きく影響していることが考えられる。しかし、年功的賃金の下では、50代以下の各雇用者は勤続年数の増加に伴い賃金も上昇している。

③ 日本的な雇用慣行の枠組みが徐々にではあるが変化してきており、年功的賃金の下でも同期社員間の賃金格差拡大、退職金の減少などが傾向として生じている。

④ 非正規雇用者などの雇用の多様化は、共働き世帯の増加などにより家計における収入源の多様化をもたらし、「家計のポートフォリオ」と呼べるような家計内でのリスク分散が進んでいる。結果として世帯単位での夫婦の賃金を足し合わせた勤労収入は、リーマンショック後も増加している。

日本の労働市場はどう変化するのか

 以上の労働市場内における変化は、今後日本の労働市場が直面する変化に対応したものでもある。20年後には、主な働き手である年齢層(15歳から64歳)の人口が現在と比べて1300万人ほど減少する。このような急速な労働力の減少に対して様々な形で対応策が準備されてきた。しかしながら、いまだに十分に準備が整ったとは言えない。

 日本の労働市場は、日本的雇用慣行と言われたほどに世界的にみて特徴のある労働市場を形成してきたと言われている。通常の労働市場を介しての労働者の適材適所(転職)や、人材育成などが、これまでは企業に委ねられていた割合が大きかった。

 今後、労働力の減少が確実視されるなかで、一国全体の生産性を高めるために産業構造の高度化や既存企業の効率的経営などが期待される。そのような状況のなかで、企業内外における人材育成や労働市場を通した適材適所の労働力の配置を行えるようにすることが、今後の大きな課題と言える。

 人材育成や適材適所はともに企業の雇用システムの在り方に大きく依存するかもしれない。『 日本の会社のための人事の経済学 』(鶴光太郎著/日本経済 新聞出版)によれば、「……リスキリング、副業・兼職、社内公募制などは、ジョブ型雇用がそのベースにならなければならない……」としている。

 雇用システムの変更まで含めた広範な変革が日本の労働市場や会社に求められるとすれば、残された時間はあまり長くない。本書では今後の望ましい雇用システムにまで言及するものではないが、今後の持続的な賃金上昇を可能にするために、現在の問題点等についてはできるだけ詳細に整理することを試みている。

 まだ十分な準備ができていない状況の下で不用意な賃金引き上げを行えば、インフレの加速に伴う実質賃金の抑制や年金生活者が多い高齢者の困窮など、多くの副作用をもたらすリスクが存在しよう。

 本書の著者二人は、ともに60歳を過ぎており40年近く日本の労働市場を観察してきている。一人は労働経済学の研究者として、一人は行政官として異なった立場から労働市場の様々な変化を眺めてきた。研究者と行政官という異なる立場でいることが長かったこともあり、労働市場の様々な局面に対する評価は二人で大きく隔たることもあった。

 不思議と今回の賃金引き上げ論に関しては著者二人とも懐疑的な立場であり、今後の賃金の持続的な上昇に対する対応策に関してもほぼ同じ意見であった。過熱した賃金の引き上げ論に対してできるだけ冷静に客観的に現状を分析し、今後の対応策を考えるべきであるということが、本書の執筆を考える始まりでもあった。

 原稿の執筆作業は2023年の冬から始めたが予想以上に時間がかかることになった。読者の多くは経済学を学んだことのない人たちであることが想定される。専門的な用語や理論を用いることを避けながら、なぜ現状の賃金引き上げ論に危うさを感じるのか、その危うさを回避しながら持続的な賃金引き上げを達成するためにはどのような方策が必要なのか、などを説明することがいかに難しい作業なのかを思い知ることになった。

 本書を執筆中にも円安が進展し、インフレ傾向が進んでいった。よく言われる「良いインフレ」と「悪いインフレ」で例えれば、現在のインフレ傾向は「悪いインフレ」の始まりのようにみえる。人手不足も顕著となり春闘でも想定された賃上げ率が概ね達成されている。一方で、中小零細企業の経営者の間では、労務倒産の恐れが顕著になってきている。円安とインフレが進むなかでもう一度、自分たちが働く場でもある日本の労働市場の在り方や賃金の決定の仕方を考えてほしい。

 10年から20年後に向けて日本の労働市場を取り巻く環境は、急速な変化をみせることになろう。その時のためにも、現在の賃金や労働市場の在り方を、そして各自が今後どのような労働市場のなかで働くことを望むのかを、真剣に考えてほしい。本書がそのための一助となれば幸いである。

 本書の執筆作業における主な担当は以下の通りである。全体の構成および取りまとめは中村が行った。執筆については、1章の5節とコラム(1)、2章、3章のうち3節の「賃金決定における財界、労働組合、政府の立場と役割」を小川が担当した。その他については中村が担当した。

 本書の刊行においては多くの方から様々な支援を受けた。支援してくださった方々には改めて感謝したい。

 編集者の堀口祐介氏と茂木拓朗氏からは、本書の作成において様々な支援をしていただいた。特に堀口氏からは数度にわたる詳細なコメントを頂いたことに改めて感謝したい。

2024年8月
著者一同


【目次】

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