その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は野村総合研究所、NRIセキュアテクノロジーズ 編の『 フィジカルAI(日経文庫) 』です。

【はじめに】

デジタル空間から現実世界へと踏み出したAI

 「この荷物をあそこの棚まで運んで、入れてください」

 人間に頼めば、特に難しい作業ではありません。荷物がどれかを見つけ、どのように持てばよいかを確かめ、障害物を避けながら運び、指示された棚の空いている場所に入れる。途中で誰かが前を通れば立ち止まり、荷物が傾けば持ち直します。私たちは、こうしたことをほとんど意識せずにやっています。ところが、ロボットに同じことをさせようとすると、急に難しくなります。

 工場に導入されている産業用のロボットは、驚くほど速く正確に動きます。しかしその多くは、整えられた環境の中でこそ、その能力を発揮してきました。人のように、その作業場を見て、「今日はいつもと少し違う」と判断しながら仕事をすることは簡単ではありませんでした。

 それに対して、AIはこの数年で驚くほど賢くなりました。文章を書き、画像や動画を作り、プログラムを書き、膨大な資料を読み込んで質問に答える。さらに最近では、AI自身が仕事の手順を考え、ツールやソフトウェアを操作して目的を達成する「AIエージェント」も登場しています。それなのに、どれほど賢いAIでもその知能はパソコンやスマートフォンの「画面の中」に閉じ込められていたのです。

 しかし、その境界が、今崩れ始めています。カメラやセンサーで現実世界を見て、状況を理解し、次に起きることを予測し、ロボットや機械を動かす。AIがデジタル空間から現実世界へ踏み出そうとしています。この新しいAIの姿が、「フィジカルAI」です。

 では、なぜ今なのでしょうか。理由は、1つの画期的な技術が発明されたからではありません。いくつもの技術が、同じ時期に実用化の入り口まで進んできたからです。

 生成AIの進化を支えてきた基盤モデル(大量のデータをあらかじめ学習し、さまざまな用途に応用できる汎用的なAIモデル)は、画像や言葉だけでなく、ロボットの行動まで学習し始めています。AIが現実世界の動きや因果関係を学び、「こう動けば、次に何が起きるか」を予測する世界モデルも進化しています。さらに、現実では危険で時間もかかるロボットの試行錯誤を、デジタルツインなどのシミュレーション環境で何万回と経験させることも可能になってきました。

 AIの「頭脳」、ロボットの「身体」、そして現実世界を学ぶための「仮想世界」。この3つがつながり始めたことが、現在のフィジカルAIを、これまでのロボットブームとは違うものにしています。

AIエージェントの次に来るもの

 では、この変化を、AIの大きな潮流の中でどのように捉えればよいのでしょうか。AIエージェントの登場によって、AIは人から一つひとつ指示を受けるだけでなく、目的に応じて自ら手順を考え、さまざまなツールを使いながら仕事を進めるようになりつつあります。

 さらにフィジカルAIによって、AIの活動の場はデジタル空間から現実世界へ広がろうとしています。AIが自ら仕事を進めるようになり、その知能が現実世界にも働きかけ始める。こうした変化の先に、AIが現実の仕事を担う新しい世界が見え始めています。

 そして、この変化は日本にとって、とりわけ大きな意味を持ちます。日本では、製造、物流、建設、農業、医療、介護など、多くの現場で人手不足が深刻になっています。人口減少が続く以上、人を増やすことで社会を支え続けることには限界があります。

 しかし、日本にはロボット、モーター、センサー、精密部品、産業設備といった技術の蓄積があります。さらに、それらを使いながら現場を動かしてきた技能や運用ノウハウもあります。フィジカルAIは、こうした日本の強みと、人口減少という切実な社会課題が交わる領域です。

 もちろん、世界もすでに動き始めています。米国はAIモデルや半導体、シミュレーション基盤などで大きな存在感を示し、中国はロボットの量産と大規模な社会実装を加速させています。フィジカルAIは、人手不足への対応策であるだけでなく、これからの産業競争力を左右する新たな競争領域になりつつあります。

 AIが現実世界で働くことが当たり前になったとき、私たちの仕事はどう変わるのでしょうか。工場や物流、交通、店舗、社会インフラはどう変わるのでしょうか。そして、その中で日本はどのような役割を果たせるのでしょうか。本書では、フィジカルAIという新しい潮流を、技術だけではなく、産業と社会の変化として読み解いていきます。


【目次】

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