その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は西岡 杏さんの 『キーエンス解剖 最強企業のメカニズム』 です。

【はじめに】

 「あの会社、全然取材が入らないんだよな」

 日本経済新聞社に入社し、最初に数年間赴任した大阪。先輩記者がよくこうこぼしていたことで知ったのが、キーエンスという会社だった。

 就職活動でもっとアンテナを張っていたら違ったかもしれない。平均給与がものすごく高い、営業利益率がものすごく高い、時価総額が日本で五本の指に入る――。日本企業の中でも屈指の高収益企業だとはっきり認識したのはそのずっと後だ。「とにかく取材が入らないベールに包まれた会社」。それが第一印象だった。

 それから時間がたち、あらためてキーエンスという企業と向き合うきっかけになったのは、「ゆるブラック企業」というテーマで取材を進めていたことだった。ゆるブラック企業というのは、近年の働き方改革の影響で、やりがいを求める若手社員をゆるく働かせてしまい、やる気に応えられていない企業を指す造語だ。その取材を続けているときに、ゆるブラック企業の対極にあるキーエンスの社員はどう感じるのだろうか?と思ったのだ。

 キーエンスの社員は「とにかくめちゃくちゃ働く」といわれる。その激務ぶりは「30代で家が建ち、40代で墓が建つ」と表現されることもある。つてをたどって、あるキーエンスOBに話を聞いてみた。

 「あそこは仕組みと、それをやり切る風土がすごいんです。後輩の指導もしっかりする。人が育たないわけがない」

 その言葉に、がぜん興味がわいてきた。「人が育たないわけがない」とまで言い切れる企業が日本にどれだけあるだろうか。その仕組みとはどんなものか、やり切る風土はどう生まれたのか。とにかくキーエンスに迫ってみたい。そんな好奇心から、キーエンスの徹底取材に取りかかった。

 キーエンス本体はもちろん、OBや取引先、ありとあらゆる関係者に会おうと試みた。その成果の一つが、2022年2月に『日経ビジネス』に掲載した特集だ。キーエンスについて日経ビジネスが特集を組んだのは03年以来、ほぼ20年ぶり。キーエンスの人づくりに迫った記事は大きな反響を呼んだ。

 それから半年強がたち、筆者はまだキーエンスの取材を続けている。

 「キーエンスについてもっと書いてほしい」という要望があちこちから寄せられたこともある。そして、それ以上に大きな理由は、「キーエンスをお手本にすれば、日本企業はもっと成長できるのではないか」と思ったことだ。

 キーエンスは、属人的な才能に頼っているのではない。人が成長し、成果を出すための仕組みをつくり、その仕組みの中で社員たちが徹底的にやり切るという組織の強さで類を見ない高収益を実現している。これをまねすれば、他の企業だって利益を大きく増やせるはずだ――。こう考えた。

 思えば、特集に向けた取材を広報担当者と調整している頃から「キーエンスワールド」に巻き込まれていたのかもしれない。

 まず、取材の趣旨や想定質問などに対するヒアリングの緻密さ、徹底ぶりに面食らった。「この3個目の質問の目的は何ですか?」「いつまでにどのようなレベルで骨格が固まる予定ですか?」「この担当者の取材ではこんな写真は撮れますが、こういう写真は厳しそうです。大丈夫ですか?」など、質問は微に入り細をうがつものだった。恐らく電話を切る頃には、広報担当者の脳裏には全体の設計図が描かれていたことだろう。

 最終的な成果物である記事に向けて最善を尽くそうという気迫は、これまでに感じたことがないレベルだ。質問一つについても筋が通っていなければ納得してもらえない。きちんとした説明ができなければせっかくの取材がご破算になってしまうのではないか。そんな怖さを覚えるほどだった。

 記者職に就いてから「何となく現地に行って取材したってまともな取材はできない」と教え込まれ、そう意識してきたつもりだった。しかし、キーエンスに繰り返し問われる過程で、あらためて鍛えられている気がした。

 そうこうしているうちに、徐々に見えてきた。これはキーエンスの文化なのだ。目的をはっきりさせる。相手のロジ(兵站:へいたん)を把握する。目的に向かって最善を尽くす……。

 「キーエンスの方と仕事をしていると、我々が引き上げられているような感じがするんです」。キーエンスの顧客の担当者が目を輝かせるようにして話すのを聞いて、得心した。

 確かにそうだ。「待ち」の姿勢ではなく先へ先へとさまざまな想定をして顧客に伴走し、顧客の仕事のサイクルを回す。顧客の潜在ニーズを具現化して顧客の仕事のスピードを上げ、質を高める。いずれもキーエンスの社員への取材で出てきた話だ。

 気がついたら、特集の締め切りまでいつもより余裕があるスケジュールで進んでいた。どんな仕事も、時間に余裕があれば質が上がる。そして、いつもより楽しい。

 「成長できない日本」と言われるようになって久しい。国際通貨基金(IMF)によると、21年の日本の名目国内総生産(GDP)は4.93兆ドルで米国、中国に次ぐ3位だ。だが内閣府の調査では、国別の豊かさの目安となる1人当たりの名目GDPが20年に4万48ドルとなり、経済協力開発機構(OECD)加盟38カ国中19位だった。日本経済研究センター(東京・千代田)の予測では、日本の1人当たり名目GDPは27年に韓国、28年に台湾を下回るという。

 「もはや日本は成長できないのではないか」。日本には、こんな諦観がはびこっているように見える。

 それを真っ向から否定するのがキーエンスだ。成長させられないことに悩む他の企業を尻目に、この10年間で売上高や営業利益を4倍前後に増やしている。

 本書は、日経ビジネスの特集に掲載した内容から大幅に情報を加え、全面的に書き直したものだ。いわゆる「公式本」ではない。「目的に合わなければ特に情報発信はしない」と、徹底的な合理主義を貫くキーエンス。取材の機会をもらえたテーマも、取材がかなわなかったものもある。だから公式・非公式、社内・社外を問わずひたすら関係者に会い、話を聞いて回った。

 そこから見えてきたキーエンスの姿を、営業や開発などの部門、そして社風や歴史などの観点から「解剖」するのが本書の狙いだ。ベールに包まれているキーエンスの中身に迫った本書によって、キーエンスのような給与や利益を「当たり前」だと考える企業が日本に少しでも増えてほしいと願っている。

 ページをめくり、キーエンスワールドの一端をのぞいてみよう。


【目次】

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