『闘病した医師からの提言 iPadがあなたの生活をより良くする』 は重度のギラン・バレー症候群で生死の境をさまよい、現在も機能回復に向けたリハビリを続ける東京慈恵会医科大学准教授の高尾洋之医師が自身の体験を基につづった書だ。といっても闘病記の類ではなく、アップルのタブレット端末「iPad」を中心としたIT機器やサービスの使いこなしが詳細に説明されている。高尾医師自身が患者として生活する中で、他者とのコミュニケーションや生活の質向上にiPadをフル活用して見つけたノウハウをぎっしり詰め込んだユニークな本である。この本の発行にあたり日経BOOKプラスは、元アップルで現在はシリコンバレーに在住する外村仁さんに依頼した「世界最速書評:人を幸せにするテクノロジーが詰まった本」を掲載した。今回はこれをきっかけに起こった「すごい奇跡」とこの本の価値について、外村さんにつづってもらった。(技術プロダクツユニットクロスメディア編集部)

『闘病した医師からの提言 iPadがあなたの生活をより良くする』
『闘病した医師からの提言 iPadがあなたの生活をより良くする』

 2022年6月某日。私は都内某所のマンションに居ました。この場所に訪れるのは記憶が定かならおそらく35年ぶり。大学の友人のピンチヒッター家庭教師としてこの家の兄妹、ひろくんとえりちゃんを教えるために何度か訪れて以来です。といっても35年前のことであり、ほんの10日前までは、そんなことは記憶のかなたに消し飛んでいました。私にいったい何が起こったのか――。

「いつもの家庭教師の代行で外村さんと言う人が……」

 2022年6月17日、日経BOOKプラスに私の書評「世界最速書評:人を幸せにするテクノロジーが詰まった本」が掲載されました。東京慈恵会医科大学准教授の高尾洋之先生の著書『闘病した医師からの提言 iPadがあなたの生活をより良くする』をコンパクトに紹介した内容でした。

日経BOOKプラス: 世界最速書評:人を幸せにするテクノロジーが詰まった本

 この書評を読んだ著者の高尾先生からすぐに私宛に丁寧なお礼のメッセージが届いたのです。そしてその末尾には気になる問いかけが書かれていました。

「間違っているかもしれませんが僕が小学校の時に、いつもの家庭教師の代行で外村さんという人がきたのですが、違う方でしょうか」

 最初は「そんなことがあったかなあ」と忘却のかなただったのですが、「高尾、高尾」とつぶやいていたら、ふいに学生時代に高尾さんという家を訪ねた光景が脳裏に浮かび上がり、そこから「ひろくんとえりちゃん」という兄妹の名前が突然記憶の底から飛び出してきました。

「もしかして、妹さんの名前はえりちゃんですか」と聞いてみると「そうです妹は恵理子です」とのこと。そこから先は、それまで思い出せなかったことが不思議なほど、いろいろな記憶がよみがえりました。

「行った覚えがあります。駅からすぐのマンションで、明るいよくしゃべるお母さんで」

「そうですそうです。勉強を教わった後、一緒に(任天堂の)『ファミコン』で遊んでもらいました。すごく楽しかった」

 どうやら、勉強よりもファミコンに熱心だった家庭教師は私だけだったようで、それで高尾先生は私を覚えていたのでした。その後、話を続けていると、高尾先生が以前シリコンバレーのEvernote(私は当時Evernote JapanのChairmanという肩書で携わっていました)を訪問したときもニアミスしていたとわかりました。

 そんな偶然ありますか?高尾先生はとても喜んで35年ぶりに会いたいとおっしゃる。そう言われても米国シリコンバレー在住の私にとって日本行きはそう簡単ではない……はずなのですが、今回はたまたまその翌週からしばらく、日本に滞在する予定がありました。こんなチャンスを逃すわけにはいかないですよね。こうして私は東京で、ひろくんこと高尾先生と、妹のえりちゃん、そしてお二人のお母さんにも35年ぶりに再会したのです。

35年ぶりに高尾先生のご自宅を訪れ、感動の再会を果たした私と高尾先生
35年ぶりに高尾先生のご自宅を訪れ、感動の再会を果たした私と高尾先生
(写真:著者提供)
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 再会したひろくんは想像していたよりも元気で、雰囲気も昔と変わっていませんでした。お母さんとえりちゃんも記憶のままでした。えりちゃんは、私が編集に協力した『ジョブズの料理人』や『フードテック革命 世界700兆円の新産業 「食」の進化と再定義』も読んでくださったとのことでした。

『ジョブズの料理人』
『ジョブズの料理人』
『フードテック革命 世界700兆円の新産業 「食」の進化と再定義』
『フードテック革命 世界700兆円の新産業 「食」の進化と再定義』

 ベッドの脇にはiPadが据えられており、音声操作でメールチェックをされていました。読むメールの数が多く、今はそれが一番楽に操作できるようです。そのときどきの体の状態や、必要性に合わせてアクセシビリティの機能を使い分けているのは、さすがこれまでたくさんのことを試してきた結果だと感心しました。

(写真:著者提供)
(写真:著者提供)
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iPadを使ったコミュニケーションで病院の母のQoL向上

 書評の依頼を受けるまで、私は高尾先生のことをちゃんと存じ上げていませんでした。パソコンやiPad、iPhoneの医療分野への活用に業界で最も精通し、「医療3.0」のリード役だったので名前は聞いたことがありましたが、それ止まりでした。そんな私に日経BOOKプラスの編集者が書評の執筆を依頼してきたのは、その編集者が私の母の話を知っていたからです。

 昨年のことですが、長年がんと闘ってきた私の母がとうとう最終ステージに進み、緩和ケア病棟に入院することになりました。人生の最後を苦しまず、心静かに過ごすのが目的の緩和ケアですが、コロナ禍であり、遠く米国に住む私はおろか、地元の家族とすら面会できない状況になりました。それでなくても孤独な入院生活が、家族と会えないことで、さらにメンタル的に厳しい状態になりました。同じようなことは同時期に入院されていた多くの患者さんが経験したと思います。

 「最後の数カ月を幸せに生きて欲しい」というのが家族の願いでした。どうにか顔を合わせられないかと試行錯誤した結果、iPadに組み込まれているアクセシビリティ機能に行き着いたのです。いくつかの機能を組み合わせ、設定することによって、ビデオ通話機能「FaceTime」を通じて母と私たち家族は毎日、顔を見ながら会話が楽しめるようになったのです。

 母はがんが骨に転移して手が動かせなくなっていましたが、自動着信の機能によって画面操作なしで受信できるようにできました。年を取ると、皮膚が乾燥してフリックに反応せずスマホの着信が取れないという問題も世界共通にあるのですが、この機能を使えばそういう人たちの問題も解決できます。 

 この仕組みを病院の理解のもとに導入できたことで、海の向こうに住む私も、地元に住む妹も、1日に何度もお互いの顔を見ながら好きなときに好きなだけ母と話せるようになり、最後の数カ月のQuality of Lifeがとても豊かになりました。

 この病院はその後、緩和ケア病棟の入院患者と家族をiPadでつなぐサービスを、希望者に無料で提供するようになりました。私もメディアのインタビューに協力してこの話を広めました。編集者はこの件を知っており、『闘病した医師からの提言 iPadがあなたの生活をより良くする』の書評を依頼してきたのです。

外部リンク: iPadとFaceTimeで、緩和ケア病棟の家族と会話できる仕組みを熊本の鶴田病院が構築

アクセシビリティを知らないのはもったいない

 私の母の件はアクセシビリティのちょっとした設定だけで、劇的に幸せが増えたいい例だと思うのですが、『闘病した医師からの提言 iPadがあなたの生活をより良くする』を読むと、他にも「困っている人を幸せにする機能」がiPadやiPhoneに詰まっていることが分かります。

 著者の高尾先生ことひろくんは、医師としてバリバリ働いていたある日、突然ギラン・バレー症候群に罹患(りかん)し、体も指も動かせなくなりました。自力呼吸もできなくなり、人工呼吸器に1年以上繋がり、その後奇跡的に意識が回復しました。意識は戻ったものの、ほぼ体が動かせない状態(視線や口の形で文字を示すことくらいしかできない)がしばらく続きました。

 ちょっと話がそれますが、ひろくんがギラン・バレー症候群になった原因は生焼けの鶏肉を食べたことによるカンピロバクターへの感染でした。どんな新鮮な鶏肉でも生や生焼けだとカンピロバクター感染の危険があります。最近フードテック関連の仕事の依頼をよく受ける私としても、生の鶏肉は危険だと声を大にして言いたいところです。

 話を戻しましょう。本書を読んで驚いたのは、そんな状態の頃からひろくんが自身の経験を通じてiPadやIT機器の「アクセシビリティ」機能の活用法を本にして後の人に残さねばと考えていたことです。その使命感と意志の強さにはただただ感銘を受けました。本当に気の遠くなるような試行錯誤を通じた、本人の実体験を基に、アクセシビリティの多彩な活用法を、用途別に分類し克明に記述した世界で初めての本が本書なのです。

 日経BOOKプラスの世界最速書評でも書きましたが、自分はそんな機能はまだ要らない、体は不自由でないと思い込んでいる方もぜひこの本を手に取っていただきたいと私は願っています。iPadやiPhoneが備えるアクセシビリティ機能は体の不自由な人を支援するだけのものではなく「人間の可能性を拡張するさまざまな機能」がその中に詰まっているからです。

 本書はそれを知るのに役に立ちます。誰にとっても自分の機能が徐々に衰えていくことは明確なわけですから、長きにわたって役立つはずのこの仕組みを今知っておいて損はないと思うのです。せっかく何万円もするiPhoneを使っているのだから、知らないのはもったいないことです。

本書を読んで、周りの人たちを少しずつ幸せにしてほしい

 「技術は人間の生活を幸せにするために存在する」と私はアップルに在職していた時代から言い続けてきました。この本では多くの体験談を通じてそれが実感できますし、まさにアップルが80年代から提唱してきた「The Computer for the Rest of Us(僕ら以外のためのコンピューター)」という考え方、だれも落ちこぼれさせず、みんなを助ける・楽にするという思想が実感いただけると思います。

 そして、本書から得た知識は、自分の将来にとってはもちろんのこと、身近に多くいる「少しの助けがいる人たち」にとても役立つのです。いまこの文をお読みの方は、全スマホユーザーのうちごくわずか。いわば、「アクセシビリティ」の素晴らしさに気付くことができた「選ばれし人々」なのです。

 この本を読んで知ったことを、周りの困っている人にアドバイスして少し幸せにしてあげられる、そういう本だと思います。iPadやiPhoneを今使っている人にぜひ読んでいただいて、自分の周りに幸せを分けてあげるきっかけにしていただきたいと思うのです。

(後編に続く)

日経クロステック 2022年8月15日付の記事を転載]