日本的雇用慣行には、正規雇用者が新卒で入社した企業にとどまることで、勤続年数とともに賃金が上昇する枠組みがあった。しかし、1990年以降に進んだ雇用の多様化が、そうした枠組みを変化させつつある。その背景として、企業側が雇用者の競争を促す給与体系を取り入れていることがうかがえる。『賃上げ成長論の落とし穴』(中村二朗、小川誠著/日本経済新聞出版)から抜粋・再構成してお届けする。

長期的雇用関係は弱まっているのか?

 正規雇用者の賃金をみる前に、従来言われている日本的雇用慣行がどのように推移してきたのかをみることが重要である。なぜならば、雇用者と企業の長期的雇用関係、それに伴う年功的賃金の存在が日本的雇用慣行の主たる特徴であり、その性質が正規雇用者の賃金変動に大きな影響を持っていると考えられるからである。

 一般的に企業と雇用者の長期的雇用関係は弱まってきていると言われている。実際はどうであろうか。日本的雇用慣行が最も反映されていると思われる男性大卒正規雇用者について、企業と雇用者の間の長期的雇用関係をみてみよう。

 本当に企業と男性正規雇用者との長期的雇用関係は弱くなってきているのだろうか。そうだとすれば、それはどの程度弱くなっているのだろうか。2022年版「賃金構造基本統計調査」より、企業と男性大卒正規雇用者との長期的雇用関係について、産業別(製造業、情報産業、金融・保険業)、規模別(規模計、1000人以上、100-999、10-99人)についてみてみよう。

 表1は、各産業について企業規模をコントロールして男性正規雇用者の各年齢層(25歳から59歳までの5歳ごと)において勤続年数が0-2年の雇用者の比率を整理したものである。

表1 年齢別の勤続0-2年雇用者比率
表1 年齢別の勤続0-2年雇用者比率
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 この比率が高いほど、中途採用者が多く生え抜きの社員が相対的に少ないことを示すことになる。ただし、この結果からは、離職者が多いケースでも中途採用者が少なければ長期的雇用関係が強いということになり、日本的雇用慣行が維持されているようにみえてしまうなどの問題点もあることに注意が必要である。参考のために55-59歳層における勤続30年以上の比率も掲載した。この数値が高いほど、定年直前の大卒男性正規雇用者の「生え抜き度」が高く、長期的雇用関係が強いことを示すことになる。

 この表からは、大企業においてはいまだに20代後半から30代にかけての若手社員においても10-20%程度の中途採用率があり、30代後半以降では10%未満まで低下し、その後は極端に中途採用の比率は低下している。中規模以下の企業では大企業と異なり、比較的各年齢層ともに中途採用の比率は高くなっている。

 しかしながら、各企業規模ともに40代後半くらいから中途採用の比率はかなり小さくなり、中年以降の転職状況がかなり厳しいことを示唆している。また、定年直近の55-59歳層における生え抜き率の代理指標として勤続30年以上の比率をみると、企業規模1000人以上では、いずれの産業も8割を超えており、現在でも大企業においては高い生え抜き率を維持していることが確認できる。

 以上のように現状においても大企業においては相対的に中途採用の比率は低く、それは若年層に偏っており、中年以降での中途採用者はまだまだ少ないと判断するのが妥当であろう。

正規雇用者の賃金は上昇せず

 以上みたように直近のデータでみる限り、大企業においてはいまだに企業と雇用者での長期的雇用関係は維持されているようにみえる。では、年功的賃金はどうであろうか。2002年、2012年および2022年版の「賃金構造基本統計調査」より、製造業と金融保険業について企業規模別に男性大卒標準労働者について年齢(勤続年数)とともに賃金がどのように変化していくかを示した賃金プロファイルをみてみよう。

 標準労働者とは新卒入社後から同一企業のみに勤務している生え抜き社員を意味しており、彼らの年齢別賃金の変化はある意味で最も日本的雇用慣行に対応したものと言えよう。

 図1は製造業と金融保険業について規模別に3時点での名目値でみた賃金プロファイルを描いたものである。注目すべきは、金融保険業の大規模企業を除いて3時点での賃金プロファイルの位置がほとんど違わないということである。約20年の間に物価上昇があったにもかかわらず、各年齢(勤続年数)での賃金の値はほとんど変わらなかった、という事実である。

図1 標準労働者の賃金プロファイル
図1 標準労働者の賃金プロファイル/(出所)各年の「賃金構造基本統計調査」(厚生労働省)より作成
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図1 標準労働者の賃金プロファイル/(出所)各年の「賃金構造基本統計調査」(厚生労働省)より作成
(出所)各年の「賃金構造基本統計調査」(厚生労働省)より作成
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 図1は所定内給与を用いて描かれており、3時点では所定内労働時間はかなり減少しており、時間当たり賃金でみればある程度の上昇となり、最近ほどプロファイルは全体的に上方にシフトしている可能性はある。

 以上のことから、次のようなことが言えよう。過去20-30年において日本の労働市場での雇用の広がりは正規から非正規へ、また、男性中心から相対的に女性を重視した枠組みへと雇用の在り方が変化していった。同時に、伝統的な日本的雇用慣行の枠組みのなかで雇用されていると思われる男性大卒者の賃金は、一部を除いて産業、企業規模などに関係なく名目値でみてほとんど変化してこなかった(*1)。一方、非正規雇用者や女性正規雇用者の賃金は男性大卒雇用者と異なり、相対的に上昇していった。

 もともと賃金が低かった雇用者層の賃金が上昇し、平均的にみて高い賃金を得ていた大卒男性雇用者の賃金の上昇がほとんどみられなかった。それまでの賃金格差が個別労働者の生産性等の能力による格差というよりは、制度的な枠組みがもたらすものであったとすれば、以上のような現象は市場を通した格差解消ともみなすこともできる。また、企業が必要とする技能やスキルが勤続年数の長い大卒男性雇用者の優位性を失わせるように変化していったことの影響かもしれない。

*1 賞与額は増加している。これは、賞与によって利益の増減に対応しようとする方針の表れとみることもできる。

同期社員の競争を促進させる給与体系に

 雇用者の貢献度が正確に評価できない場合には、労使における長期的雇用関係が成り立つには困難が伴う。そこで査定などをより厳密に行うことにより、単に年功だけでなく、個別の貢献度によっても給与に差がつくようなシステムが最近は採用されている。実際の査定による効果を正確に評価できるようなデータは公表されていないので、同期入社社員間での査定等の結果として実際の賃金格差がどのように生じているか、「賃金構造基本統計調査」からみてみよう。

 表2(1)(2)は、製造業の男性高卒社員と大卒社員同期入社組(標準労働者)について特定の年齢ごとに所定内給与の散らばり(格差)を分散係数の値を用いて2時点(2005年と2022年)で整理したものである。

表2(1) 製造業男性標準労働者同期内賃金格差(高卒)
表2(1) 製造業男性標準労働者同期内賃金格差(高卒)/(出所)各年の「賃金構造基本統計調査」(厚生労働省)より作成
(出所)各年の「賃金構造基本統計調査」(厚生労働省)より作成
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表2(2) 製造業男性標準労働者同期内賃金格差(大卒)
表2(2) 製造業男性標準労働者同期内賃金格差(大卒)/(出所)各年の「賃金構造基本統計調査」(厚生労働省)より作成
(出所)各年の「賃金構造基本統計調査」(厚生労働省)より作成
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 この表からは、最近になるほど同期社員間での賃金格差が大きくなってきていることが分かる。格差の大きさを示す分散係数は、その値が大きいほど格差が大きいことを示している。四分位分散係数でも十分位分散係数でみても最近になってその値は大きくなっており、各年齢ともに同期入社社員間でも給与格差が広がってきていることが確認できる。特に、十分位分散係数の値の方が相対的に大きな値をとっており、すべての給与格差が幅広く拡大していることが分かる。

 さらに、学歴別、規模別にみると高卒より大卒で、中小規模より大規模で、分散係数の値は大きくなっており、大企業大卒社員において同期社員間で給与格差が拡大していることが分かる。また、年功度の高い40代以降の社員だけでなく、それよりも若い30代においても格差が拡大していることは、非常に興味深いことである。

 これまでに大卒男性正規雇用者における賃金の年功度は、過去20年程度あまり変化していないことを示した。しかし、それは平均値でみたものであり、同期間では年功度にかなりの差が出ていることが分かる。これは、査定などで評価された貢献度が昇格・昇給により厳格に反映されるようになり、同期間での給与格差が拡大したものと思われる。

 このような状況は退職金の支払い額にも表れている可能性がある。1990年代に導入されたポイント退職金制度は従来の退職金制度と異なり、在籍時代の査定成績などで評価された会社への貢献度が退職金に影響するものであり、個人間で差がつくようになってきている。

 以上みてきたように、雇用形態の多様化により賃金の支払い方も多様になってきている。最も日本的な雇用慣行が残っていると思われる大企業の正規雇用者のなかでも、年功的賃金を維持しながらも査定による評価によって同期入社の社員間での格差を拡大させ、雇用者間での競争を促進するような給与体系に変化していっていることが示唆される。

大企業大卒社員において同期社員間で給与格差が拡大している(写真:Dilok/stock.adobe.com)
大企業大卒社員において同期社員間で給与格差が拡大している(写真:Dilok/stock.adobe.com)
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日本は長らく賃金が停滞しているといわれているが、本当に賃金は上がっていないのか、その原因は何なのか。労働経済学研究の第一人者と元労働政策担当者がタッグを組んで、これまでの事実認識を再検証し、これからの賃金の在り方を論じる。

中村二朗、小川誠著/日本経済新聞出版/2750円(税込み)