「あなた方(ミルトン・フリードマンとアンナ・シュウォーツ)のおかげで、われわれ(米連邦準備制度理事会=FRB)はそれ(金融政策的な過ち)を二度と繰り返さないだろう」。2022年のノーベル経済学賞を受賞したベン・バーナンキを紹介する多くの記事で目にする、彼の有名な言葉である。これは2002年、フリードマンの90歳の誕生日に、当時FRB理事の任にあったバーナンキが行った講演の最後に語られた。1976年にノーベル経済学賞を受賞したフリードマンを高く評価するバーナンキの講演は、フリードマンとシュウォーツの著書『米国金融史』への賛辞に始まり、同書が解き明かした1930年代の大恐慌の真因とその分析手法の秀逸さについて詳細にたどり、冒頭の言葉へと続く。ここでは日経BPクラシックス『大収縮 1929-1933 「米国金融史」第7章』(ミルトン・フリードマン、アンナ・シュウォーツ著、久保恵美子訳)から同講演の全文を抜粋し、掲載する。講演の4年後から8年間、FRB議長として難しいかじ取りに挑んだバーナンキの支えとなった考えを知る格好のテキストであり、フリードマンの神髄を知るための有用な補助線ともなるはずだ。また、1930年代の大恐慌については日経BPクラシックス『大暴落1929』(ジョン・K・ガルブレイス著、村井章子訳)にも詳しい(敬称略)。

2022年ノーベル経済学賞を受賞したベン・バーナンキ氏 (写真:ロイター/アフロ)
2022年ノーベル経済学賞を受賞したベン・バーナンキ氏 (写真:ロイター/アフロ)
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所見

ベン・S・バーナンキ

二〇〇二年一一月八日
ミルトン・フリードマンの九〇歳の誕生日に
イリノイ州シカゴ市、シカゴ大学における
ミルトン・フリードマンの栄誉を讃える会議にて

 ミルトン・フリードマンの九〇回目の誕生日という機会に招かれ、講演させていただけることは、私にとってこの上ない名誉である。経済学者のなかでフリードマンに匹敵する人物はいない。経済学に対する、彼のきわめて独創的な貢献は多数にのぼる。消費者支出に関する恒常所得仮説の提唱や、金融経済学のパラダイム・シフトをもたらした研究、経済史や経済学方法論に関する、刺激的で斬新な評論などがその一部である。このシカゴ大学をはじめとするあらゆる大学の、何世代にもわたる大学院生らが、彼の洞察の恩恵を受けてきた。そうした知的な子世代、孫世代の多くの人々によって、今日にいたるまで、経済学におけるフリードマンの思想の影響力は広まり続けている。それに加えて、彼の著名な著作や談話、テレビ出演などを通じて発揮されている、さらに広範な世論に対するミルトン・フリードマンの影響力は、学説への影響力と同等以上に、重要で永続的なものである。彼の人間味あふれる魅力的な手法によって、何百万人もの人々が、自由競争市場の経済的恩恵を学び、さらに財産権や契約の自由などの経済的自由が、他の種類の自由に密接に結びついていることを理解した。

 本日、私はミルトン・フリードマンを讃えるにあたり、傑出した共著者であるアンナ・J・シュウォーツとの緊密な協力から生まれた、彼の経済学に対する最大の貢献のひとつについて語ろうと思う。この業績がもたらしたものは、米国史上最悪の経済的惨事に関する、もっとも有力で説得性の高い説明にほかならない。この惨事とは大恐慌、あるいはフリードマンとシュウォーツの言葉を借りれば、「一九二九~三三年の大収縮」の勃発である。驚くべきことに、フリードマンとシュウォーツは、この複雑で重要な問題の解決に的を絞って出発したのではなく、より大きなプロジェクトの一部としてこれに取り組んだ。このプロジェクトとは、米国金融史の編纂(フリードマン、シュウォーツ、一九六三年)という偉業である。 個人的な話になるが、私は、マサチューセッツ工科大学の大学院生だったころに、初めてこの『米国金融史』を読んだ。私はこの本に夢中になり、それ以来ずっと金融経済学と経済史を研究し続けている(*1)。私と同じ経験をされた方も多いことだろう。結果的に、『米国金融史』が当時の金融経済学に対し、直接的・間接的に及ぼした影響の大きさは、いくら評価しても誇張にならないほどである。

*1 したがって、後に示す参考文献のなかに、私自身の文献が多数入っていることを、読者にお許しいただきたい。それらを参照したのは、私の研究の多くが、フリードマンとシュウォーツの示した論点に従ったものだからである。

 ここにいる誰もが承知しているように、フリードマンとシュウォーツは『米国金融史』において、一九二九~三三年の経済破綻は、米国の金融メカニズムがうまく働かなかった結果であることを主張した。同書が書かれた当時は、「貨幣は一九三〇年代の出来事において受動的な要因にすぎなかった」との意見が定説だったが、彼らはこれを否定し、「大収縮はむしろ、貨幣の力の重要性を裏づける、悲劇的な証拠である」と主張した(三〇〇ページ。本稿中のページ表示は、すべて『米国金融史』〔フリードマン、シュウォーツ、一九六三年〕におけるものである)。

 フリードマンとシュウォーツによる大収縮期の解説で印象的なのは、その豊かな知識と、それまで使われたことのない多くの一次資料の活用などによる、細かい史実の展開である。しかし、同書のもっとも重要な点であり、この本の影響力が今も衰えない理由は、史実をたくみに捉えて、絡み合った複雑な因果関係を解き明かし、経済学者のいう識別問題を解決したことである。大恐慌期のデータを統計学的に分析すれば、米国のマネーストック、産出高、物価の三つが、一九二九~三三年にはともに減少・下落し、それ以降はそろって増大・上昇したという、基本的な事実に気づくだろう。しかし、こうした相関関係だけでは、次のような重大な質問に答えられない。いったい何が何の原因なのか。フリードマンとシュウォーツが結論したように、おもにマネーストックの変化が物価や産出高の変化を引き起こしているのだろうか。あるいは、そうではなく、マネーストックは経済状況の変化に受動的に反応しているだけなのだろうか。それとも、この三つの変数すべてに影響している、まだ計測されていない他の要因があるのだろうか。

 『米国金融史』の非凡な特長は、著者らが今日でいう「自然実験」を行なっていたことである。これは同書では、当時の経済状況とは無関係とみられる理由で、貨幣が変動した事例をさす。フリードマンとシュウォーツは、このような事例を突き止め、その後に経済に何が起きたかを観察することで、「(ほとんどの場合は)貨幣の動きが産出高や物価に影響する因果関係が認められることから、大恐慌は貨幣的要因が引き起こしたものだと合理的に説明される」との説を丹念に組み立てた。もちろん、自然実験は決して完全にコントロールできるものではないため、ひとつの自然実験だけで物事の方向性を決定することはできない。フリードマンとシュウォーツの歴史分析の重要性は、彼らの主張を支える、多種多様な実例や比較を提示しているところにある。本日、この後の話でもっとも皆様のお役に立てることは、彼らが示した主要な事例の一部をとりあげ、これらがその後の研究でどう裏づけられたかを解説することで、フリードマン=シュウォーツ式の方法論がいかに傑出したものであるかを、皆様に再確認していただくことだろう。

金融政策の四つの事例

 繰り返しになるが、フリードマンとシュウォーツの識別法の核心は、歴史上の各時期を調査し、同時期の産出高や物価の動きとはほとんど関係のない理由で発生した、マネーストックや金融政策の変化を確認することである。こうした金融的変化が「外因性」であると合理的に解釈できるかぎり、これらの変化に対する経済の反応は、因果関係の表れだとみなすことができる。とくに、同様のパターンが再三現れる場合は、因果関係の存在が推定される。

 フリードマンとシュウォーツは、大恐慌早期について、これらの要件を満たすとみられる独立の事例を、少なくとも四件確認した。そのうち三件は金融引き締め政策、一件は金融緩和政策である。どの事例においても、経済の反応は、大恐慌に関する金融理論の予測に一致するものだった。この四つはいずれもフリードマン・シュウォーツ式方法論の好例であり、またこれら自体が興味深い話であるため、それぞれを簡単に紹介する。

 フリードマンとシュウォーツが最初に分析した事例は、一九二八年春に始まり、二九年一〇月の株式市場の暴落まで続いた、意図的な金融引き締め政策である。この政策は、現在なら金融引き締めにつながるとは一般に考えられない状況のもとで実施された。フリードマンとシュウォーツが指摘したように、景気は一九二七年末に底を打ったばかりで(全米経済研究所が公式に発表した景気の谷は一九二七年一一月)、物価は下落しており、インフレーションの気配は露ほどもなかった(*2)。それなのになぜ、連邦準備局は一九二八年前半に金融を引き締めたのだろうか。そのおもな理由は、同局がウォール街での投機を引き続き懸念していたことだった。連邦準備制度は長年にわたって、信用資金の「生産的用途」と「投機的用途」を区別してきたため、株価の上昇や、それにともなう株式ブローカーへの銀行融資の増大は、大きな懸念材料だった(*3)。ニューヨーク連邦準備銀行の有力な総裁だったベンジャミン・ストロングは、フリードマンとシュウォーツの話の鍵を握る主要人物である。ストロングは、株式市場のブームを抑制する目的で金融政策を発動することには、きわめて慎重だった。あいにく、ストロングは慢性の結核に苦しんでおり、一九二八年になって体調が急速に悪化すると(彼は同年一〇月に死去した)、連邦準備制度における彼の影響力もともに低下した。

*2  しかし、アテナシオス・オルファニデスが私に指摘したように、一九二九年までの産出高の伸びは堅調であり、これが金融引き締めの別の動機になった可能性もある。
*3  連邦準備局は、株式購入に使われた資金が、生産的な用途に使用できなくなったわけではないことを、完全には理解していなかったようである。当然ながら、株式の売却は既存の資産の移転にすぎないため、株式購入に使われた資金は消失したわけではなく、ある人から他の人へ移転されただけである。

 一九二八~二九年の「反投機的」な金融引き締め政策には、ストロングの後任としてニューヨーク連銀総裁に就任したジョージ・ハリソンと、ワシントンの連邦準備局のメンバーとの対立の激化も、ある程度影響していた。この両者はとくに、株式ブローカーへの貸付を抑制する最善策をめぐって意見が衝突していた。連邦準備局はいわゆる「直接的な行動」を支持したが、これは本質的には道義に訴える説得策だった。これに対し、ハリソンは、有効な策は公定歩合(つまり政策金利)の引き上げしかないと考えていた。この論争は、一九二九年にはハリソンに有利な形で決着し、直接行動案は取り下げられ、公定歩合のさらなる引き上げが支持された。このような小さな事件が起き、これが政策実施のタイミングに影響したとはいえ、「ワシントンとニューヨークとのあいだで論争が続いていた時期には、金融は引き締め傾向になかった」と推測するのは誤りだろう。フリードマンとシュウォーツが指摘するように(二八九ページ)、「〔一九二八年〕七月までに、ニューヨークでは公定歩合が五パーセントまで引き上げられたが、これは一九二一年以来もっとも高い水準だった。また、連邦準備制度の政府証券保有高は、金の流出にもかかわらず、一九二七年末の六億ドルあまりの水準から、二八年八月までには二億一〇〇〇万ドルまで減少した」。したがって、この時期は、当時の産出高や物価の状況には関係なく金融引き締め政策がとられた、現代の統計用語でいえば金融政策の「イノベーション」が確認された時期だといえる。

 さらに、フリードマンとシュウォーツは、この引き締め政策に続いて、物価の下落と経済活動の衰退が起きたと指摘する。「一九二九年八月の景気循環のピークから株価大暴落までの二か月間に、年率で工業産出高は二〇パーセント、卸売物価は七・五パーセント、個人所得は五パーセント下落した」。もちろん、一〇月に株価が暴落すると、経済活動はさらに急激に落ち込んだ(大恐慌期の研究者の多くは、株価暴落には、ファンダメンタルズの過大評価と同じくらい、経済の減速が影響したと推測している)。ちなみに、「一九二八年春には金融が早くも逼迫していた」との主張の説得力を高めたのが、その後のジェームズ・ハミルトンの研究(一九八七年)である。ハミルトンは、連邦準備制度が米国からフランスへの金の流出を抑制しようとしたことが、さらなる金融引き締め政策につながったことを示した。当時のフランスは、アンリ・ポアンカレの指揮のもとで経済が安定した直後であり、その安定の結果として、外国から大量の金が流入していた。

 フリードマンとシュウォーツが調査した次の事例は、一九三一年九月に、英貨危機に続いて実施された、別の金融引き締め政策である。この月に英ポンドに投機の波が襲いかかった結果、英国は金本位制離脱を余儀なくされた。次に金本位制を放棄するのは米国だと予測した投機家は、英ポンドから米ドルに関心の対象を移した。一九三一年九月~一〇月にかけて、中央銀行や個人投資家は、かなりの額のドル資産を金に兌換した。その結果として金準備が「対外流出」したことによって、米国の銀行制度には「国内流出」の圧力もかかった。このとき、外国人はドル預金を金に換え、米国内の預金者は銀行破綻の増大を予期して、現金を引き出した。古くからの伝統のある中央銀行制度なら、この対外流出と国内流出の両方への対応を指示したはずだが、連邦準備制度は、対外流出だけに対処することを決定した(後述するように、連邦準備制度はこの時期までに、米国内の銀行制度に対する責任をいっさい否定していた)。フリードマンとシュウォーツは次のように記している。「連邦準備制度は、(中略)対外流出に対しては、積極的な対応をすみやかに行なった。ニューヨーク連銀は、公定歩合を〔一九三一年〕一〇月九日に二・五パーセント、一〇月一六日には三・五パーセントまで引き上げたが、この短い期間でこれだけ大きく公定歩合が上昇したことは、連邦準備制度の歴史上、後にも先にもない」(三一七ページ)。この政策によって金の流出には歯止めがかかったが、いっぽうでフリードマンとシュウォーツのいう、銀行の破綻や取りつけの「めざましい」増大が引き起こされ、一〇月だけで五二二行の商業銀行が営業を停止した。金融引き締め政策と、銀行制度の崩壊の継続によって、通貨供給量は激減し、産出高と物価もいっそう大きく落ち込んだ。ここでも、国内経済に関連しない目的(この場合は国外からの圧力に対するドルの防衛)による金融政策の変更に続いて、国内の産出高や物価が予測された方向へ変化した、という関係性がみられる。

 これまでに説明した二つの「実験」は、どちらも金融収縮の事例ではないかとの反論もあるだろう。これらの金融引き締め政策に続いて産出高と物価の下落が起きたことを提示するだけでは、その関係性について完全な説得力があるとはいえないかもしれない。大恐慌が他の原因によって発生し、金融引き締め政策は経済衰退の進行とたんに一致した(あるいは、衰退をわずかに促進した)にすぎない可能性もある。したがって、フリードマンとシュウォーツが調査した第三の事例が金融拡張のケースであるのは、とくに興味深いことである。

 この第三の事例が起きたのは一九三二年四月で、連邦議会が連邦準備制度に対し、金融緩和政策、とくに公開市場での大規模な証券買入を実施するよう、かなりの圧力をかけ始めた時期だった。連邦準備局はきわめて消極的だったが、一九三二年四月~六月の時期に多額の買いオペを認可した。この流動性注入によって、マネーストックの減少速度は明らかに低下し、政府債、社債、コマーシャルペーパーの利回りは大幅に下落した。もっとも興味深いのは、フリードマンとシュウォーツによる次の記述である(三二四ページ)。「マネーストックの減少が徐々に収まり、さらに買いオペが始まると、(中略)包括的な経済指標にも、利子率と同様に、顕著な変化がすみやかに表れた。卸売物価は七月、工業生産高は八月に上昇に転じた。個人所得は引き続き下落したが、下落率ははるかに小さくなった。工場雇用者数や、鉄道業の貨物輸送量など、実体経済の状況を示す多くの指標からも、同様の変化が読みとれる。全体的にみると、一九三一年前半と同様に、この時期のデータも景気回復の兆しを数多く示していた。(中略)バーンズとミッチェルも〔一九四六年の著書で〕、景気の谷を一九三三年三月としながらも、大収縮期は『景気の二つの谷』を示す例だと指摘している」。あいにく連邦準備制度内では、ニューヨーク連銀のジョージ・ハリソンをはじめとする数人の幹部は、この公開市場買いオペ政策を支持していたものの、大半の人々はこの政策を不適切だと考えていた。とくに、現代の一部の学者が主張しているように、後者の人々は、「低い名目金利は金融市場が緩慢であることを示している」との、誤った見方をしていた。このため、連邦議会が一九三二年七月一六日に休会すると、連邦準備制度はこの政策に実質的に終止符を打った。この年の後半までに、米国経済はふたたび劇的に悪化した。

 フリードマンとシュウォーツが調べた最後の事例の影響は、第一・第二の事例と同じく金融収縮的なもので、これは一九三三年一月から三月の銀行休日までの時期に起きた。このときの外的要因は、合衆国憲法で定められた、米国の大統領選から新大統領就任までの長いタイムラグだと考えられる。一九三二年一一月に大統領に選出されたフランクリン・D・ルーズベルトの就任は、三三年三月とされていた。当然ながら、その間には、新大統領がとるとみられる政策をめぐって多くの憶測が飛び交い、ルーズベルトが政策に関して明言を避けたことや、焦りを募らせるフーバー大統領が提案した行動を支持しなかったことによって、不確実性はさらに強まった。しかし、ルーズベルトの大統領選中の発言や、すでに知られていた傾向から、ドルの切り下げ、さらにはドルと金の連動の完全な停止を予想する声が多かった(この予想は正しかった)。その結果として資本が失われるのを恐れた米国内外の投資家は、ドルを金に兌換し始め、銀行制度と、連邦準備制度の金準備の両方に圧力をかけた。銀行破綻と、金の流出に対する連邦準備制度の防衛的な政策によって、マネーストックはさらに減少した。米国経済は一九三二年一一月~三三年三月にかけてもっとも急激に落ち込み、金融理論から予測される時系列的な展開が、ふたたび現実に確認された。ルーズベルトが大統領に就任すると、全国的な銀行休日が宣言され、続いてドルと金の関連性が断たれたことで、貨幣量、物価、産出高がそれぞれ増大・上昇し始めた。ドル切り下げの予測によって経済がきわめて不安定化するいっぽう、ドル切り下げ自体は経済にプラスになるという展開は、興味深いものだが、それほど珍しい現象ではない。

 これらの四つの事例は、フリードマンとシュウォーツが確認した、大恐慌期に貨幣の力が果たした役割の裏づけとなる事実を、時系列で示したものと解釈できるが、これらが証拠のすべてではない。 フリードマンとシュウォーツは、「地域横断的」(すなわち国際的)な証拠も示しており、これは一九三〇年代の世界各国における為替レート制度の違いを基盤としている。

金本位制と国際的不況

 『米国金融史』は米国での出来事に意図的に焦点を当てているが、そのもっとも説得性の高い識見の一部は、地域横断的な事実から得られている。一九八〇~九〇年代の多数の学術文献の先取りをする形で、フリードマンとシュウォーツは一九六三年に、金融制度の異なる各国の一九三〇年代の経済実績を比較することも、彼らの金融理論の是非を裏づける手段になることを認識していた。

 地域横断的な自然実験を容易にしたのは、第一次世界大戦中に停止されていた国際的な金本位制が、一九二〇年代に苦労の末に再建されたことである(これは金本位制にやや修正を加えた形態で、金為替本位制と呼ばれる)。国際的な金本位制にとどまった国々は、実質的に、他の金本位制の国々との固定為替レートを維持する必要があった。さらに、この時期には、フランスとの若干の競争はあったものの、米国が金本位制の経済において圧倒的に優位な立場にあったため、金本位制を維持する国は、米国での金融引き締め政策と物価下落に順応しなければならなかった。

 しかし、識別の目的にとって重要なのは、大恐慌の進行下で、金本位制が一律に堅持されていたわけではなかったことである。一部の国は、歴史的あるいは政治的な理由で、金本位制を一度も導入したことがなかった。国内政治や、国内の脆弱な銀行業、競合する経済原理の地域的影響などの要因によって、早々に金本位制離脱を余儀なくされた国もあった。それ以外の国々、とくにいわゆる「金ブロック」を構成するフランスなどの国々は、イデオロギー的に金に大きな重要性をおいていたため、金本位制にも可能なかぎり長くとどまった。

 貨幣の収縮が実際に経済不況の原因だったならば、金本位制に強く束縛され、米国に続いてデフレに突入した国々は、比較的深刻な景気後退に見舞われたはずだというのが、フリードマンとシュウォーツの洞察である。彼らは正式な統計的分析は行なわなかったものの、注目すべき多数の事例を通じて、ある国が金本位制に強く縛られているほど(そして必然的に、米国の金融政策に追随しなければならない傾向が強くなるほど)、その国での金融収縮と物価・産出高の下落の両方が激しくなることを示した。彼らの議論では、各国を四つのグループに分類していると考えられる。

 第一のグループは、金本位制をまったく導入しなかったか、きわめて短期間しか維持しなかったとみられる国々である。フリードマンとシュウォーツが例示した国は中国だった。彼らは次のように述べている(三六一ページ)。「中国は金ではなく銀本位の体制をとっていた。このため、金本位制の国々に対しては、変動相場制を採用しているのと同様の立場にあった。この場合、銀の金価格が下落すると、中国の通貨である元の為替レートが下落したのと同じ影響が生じる。この影響によって、中国国内の経済状況は世界的不況から隔離される。(中略)そして、現実もこのとおりになった。一九二九~三一年にかけて、中国は、金本位制の世界を席巻したこの大惨事の影響を、国内的にはほとんど受けなかった。これは、一九二〇~二一年に、ドイツが自国のハイパーインフレと、それにともなう変動相場制の導入によって、世界の情勢から隔離されていたのと同じことだった」。

 その後の研究(「チョウドリー、コーチン、一九八〇年」など)では、中国のように、金本位制を維持せず、したがって大不況の最悪の影響を回避できた国々が、他にも確認されている。その二つの例がスペインと日本である。スペインは国内情勢が不安定で、ついにはスペイン内乱が発生するような状況だったため、一九二〇年代に金本位制を再導入することができなかった。日本は、金本位制をほんの数か月間維持しただけで、離脱を余儀なくされていた。スペインの不況はきわめて緩やかなものであり、日本は短期に終わった金本位制導入の試みを放棄した後、ほとんど時をおかずに経済が力強く回復した。

 第二のグループは、一九二〇年代に金本位制に復帰したものの、大恐慌の早期、一般には一九三一年秋にそれを放棄した国々である。フリードマンとシュウォーツが述べているように(三六二ページ)、金本位制から離脱した最初の主要国は英国で、一九三一年九月に金本位制放棄に追い込まれた。スカンジナビア諸国などの英国の貿易相手国の一部も、そのほぼ直後に英国に続いた。金本位制離脱は、国内の金融政策に対する縛りをなくし、貨幣収縮を食い止める効果をもたらした。このようにマネーストックへの圧力が緩和されたことで、どんな結果が生じたのだろうか。フリードマンとシュウォーツはこう記している(三六二ページ)。「英国や、これに追随して金本位制を放棄した国々では、一九三二年の第三四半期に景気が底を打った。金本位制を維持した国々や、カナダのように途中から英国と違う道を歩んだ国々は、不況からなかなか抜け出せなかった」。

 第三のグループは、金本位制を維持しながらも、十分な準備を有していたか、金の流入先になった国々である。その代表例が、金ブロックの主導国だったフランスである(三六二ページ)。一九二八年に経済が安定した後、フランスはその経済規模に比べてかなり大きな金準備を蓄積した。この金流入によって、フランスでは通貨供給量が維持され、一九三二年まで深刻な景気後退は起きなかった。しかし、三二年になると、金以外の外貨準備が底をついたことや、銀行の機能に問題が生じたことから、金流入継続の効果が相殺され始め、マネーストックは減少した。深刻なデフレと産出高の減少が始まり、フリードマンとシュウォーツが指摘したように、早期に金本位制を放棄した英国などの国々よりはるかに遅い、一九三五年四月になるまで、フランスの不況は底を打たなかった。

 第四の、おそらく最大の打撃を受けたグループは、金本位制に復帰したものの、金準備がきわめて少なく、第一次世界大戦とその後のハイパーインフレによって、銀行制度が大幅に弱体化した国々である。このグループの例として、フリードマンとシュウォーツは、オーストリア、ドイツ、ハンガリー、ルーマニアをあげている(三六一ページ)。これらの国々は、デフレだけでなく大規模な銀行・金融危機にも苦しみ、その景気後退はとくに急激なものになった。

 フリードマンとシュウォーツが各国をこのように分類したことで、説得力ある識別が実現したことは、改めて強調する価値がある。大恐慌のおもな要因が、自律的支出の変化や生産性の変化などの非貨幣的な力だったならば、各国がどんな名目為替レート制度を採用するかは、概して問題にならなかっただろう。各国の為替レート制度、金融政策、国内の物価や産出高の動きが、それぞれ密接に関連し合っていたことは、「貨幣的な要因は、米国の大恐慌だけでなく世界全体でも中心的な役割を果たしていた」との仮説を裏づける、強力な証拠である。

 もちろん、大恐慌に関するさらに最近の研究に詳しい人々なら、為替レート制度によって各国を分類するというフリードマンとシュウォーツの発想が、その後の研究者によって広く応用されたことに気づくだろう。とくに、一時期忘れられていたフリードマンとシュウォーツの洞察をよみがえらせた論文、「チョウドリー、コーチン、一九八〇年」では、先述のように金本位制を導入しなかったスペイン、一九三一年九月に英国とともに金本位制を離脱したスカンジナビア三国、そしてフランス主導の金ブロックにとどまったオランダ、ベルギー、イタリア、ポーランドの四か国について、それぞれの相対的な経済実績が分析されている。この研究の結果、金本位制を維持した国々は、それを放棄した国々に比べて、産出高や物価の下落がはるかに大きかったことがわかった。また、きわめて大きな影響を及ぼした論文である、「アイケングリーン、サックス、一九八五年」は、一〇の主要国について、一九二九~三五年における一連の主要なマクロ変数を分析し、金本位制を早く離脱した国ほど経済回復も早かったことを確認した。「バーナンキ、ジェームズ、一九九一年」は、さらに多くの二四の国々(その大半が工業先進国)についても、アイケングリーンとサックスの結論が当てはまることを確認し(「バーナンキ、ケアリー、一九九六年」も参照)、「カンパ、一九九〇年」は、ラテンアメリカ諸国について同様の結果を得た。「バーナンキ、一九九五年」では、以上のような文献が指摘するように、金本位制の維持がより深刻で大規模な景気後退の先触れになっただけでなく、金本位制の国々とそれ以外の国々のあいだで、実質賃金や実質利子率などの、さまざまな主要マクロ変数の動きが異なっていたことも示した。この違いは、不況を推進したショック要因が、本質的に貨幣的現象だった場合に予想されるものに一致していた。金本位制によって大恐慌がいかに全世界に伝播したかを、もっとも詳細に論じたのは、もちろん、一九九二年に出版され、多大な影響を及ぼしたアイケングリーンの著書である。その後の論文である「アイケングリーン、二〇〇二年」は、同書の結論を再検討し、それがフリードマン、シュウォーツの考え方に矛盾しないとの結論におおむね達している。

銀行破綻の果たした役割

 さらに、米国の大収縮におけるもうひとつの注目すべき特徴は、大規模な銀行恐慌と銀行破綻だった。そのピークとなったのが一九三三年の銀行休日で、このときには全米の銀行制度が機能を停止した。大恐慌開始からの一〇年で、米国の全商業銀行の半数近くが倒産、または他の銀行と合併した。

 フリードマンとシュウォーツは、この異例に深刻化・長期化した米国の銀行恐慌も、彼らの識別法を適用できる対象だと考えた。彼らの主張は、要約すると、「連邦準備制度の創設前の制度的条件のもとであれば、一九二九~三三年当時のような規模の銀行破綻は、大収縮期のような深刻な不況下でも起きなかっただろう」というものだ。現実には、この後に詳しく述べるような信条的・制度的な理由で、この並外れた規模の銀行破綻が発生し、それがさらに、巨額の銀行預金の消失と、マネーストックの異例の激減につながった。フリードマンとシュウォーツの主張によると、銀行恐慌から生じたマネーストックの減少は、連邦準備制度の創設前の制度のもとでは起きなかったはずであることから、この減少は部分的に外因性であり、したがって、その後に産出高と物価が異例に大きく下落したことの潜在的要因だと考えられる。

 彼らの記述では、連邦準備制度の創設前は、たとえば手形交換所と呼ばれる民間銀行の都市部共同体を通じて、銀行恐慌には銀行みずからが対処するのが一般的だったという。ある都市で、一行ないし複数の銀行の取りつけが始まった場合、手形交換所は支払停止、すなわち預金の現金換金の一時停止を宣言することができた。そして、比較的大規模で経営が健全な銀行の主導によって、取りつけに遭った銀行に実際は基本的支払能力があることを見きわめた上で、預金引き出しへの対応に必要な現金を、それらの銀行に貸し付けた。これは完全に満足できる解決法ではなかったものの(大衆にとって数週間にわたる支払停止は大きな苦難だった)、この支払停止のシステムのおかげで、地域的な銀行恐慌が拡大したり長引いたりすることは一般になかった(「ゴートン、ムリノー、一九八七年」)。大規模で支払能力のある銀行が、進んで恐慌の解決に乗り出そうとしたのは、恐慌を放置すれば最終的には自行の預金も脅かされることを承知していたからだった。

 一九一三年に連邦準備制度が創設されたおもな目的は、銀行恐慌への対応を改善することだった。しかし、フリードマンとシュウォーツがかなり詳しく論じているように、一九三〇年前半の連邦準備制度は、その役割を果たしていなかった。同制度内部の問題は、おもに信条的なものだった。同制度の当局者は、「『脆弱な』銀行の淘汰は、過酷ではあるが、銀行制度の復活に必要な前提条件である」とする、アンドリュー・メロン財務長官の悪名高い「清算主義」を支持していたとみられる。さらに、破綻した銀行の大半は、(今日マネーセンターバンクと呼ばれる銀行とは対照的な)小規模な銀行で、連邦準備制度に加盟していなかったため、同制度は恐慌を食い止める特段の必要性を感じていなかった。同時に、連邦準備制度の創設前であれば介入していたはずの大銀行は、小銀行を守ることはもはや自分たちの責任ではないと感じていた。むしろ大銀行は、必要なら連邦準備制度が小銀行を保護すると確信していたため、そうした競争相手の淘汰は、彼らからみれば現実的にはありがたいことだった。

 要するに、制度的な変化と的外れの信条によって、大収縮期の銀行恐慌は、景気後退時に発生する一般的な銀行恐慌よりもはるかに深刻化し、拡大したというのが、フリードマンとシュウォーツの主張である。銀行破綻と預金引き出しによって銀行預金は大幅に減少し、結果的に通貨供給量も減少した。その結果、物価の下落率や産出高の減少率は、他の状況下で起きた場合よりも大きくなったというのだ。

 このフリードマンとシュウォーツの推論に対しては、若干の反論を提示し得る。論理的にまず考えられるのは、一九三〇年代における異例な数の銀行破綻は、その後の産出高や物価の下落の原因だったのではなく、預金者などが経済の破綻を予期したことによって発生したものだった。すなわち、銀行恐慌は予期された経済状況の内因だったとの見方である。しかし、フリードマンとシュウォーツの制度論に照らすと、この説の正当性は低いと私は考える。連邦準備制度より前の制度だったならば、銀行恐慌は、景気後退の程度には関係なく、実際の状況ほど深刻化しなかっただろう。さらに、一九三〇~三一年にかけて、預金者や銀行家が、来るべき景気後退の深刻さを十分に認識していたとは、私には考えられない。

 第二に考えられるのは、銀行恐慌が、非金融的なメカニズムを通じて、産出高や物価の下落を引き起こしたとの説である。私自身の早期の研究(バーナンキ、一九八三年)では、実際の銀行制度の破綻によって通常の信用仲介が妨げられたことが、取引手段が減少したこととともに、経済に悪影響を及ぼしたと主張した。このような説を予期していたフリードマンとシュウォーツは、米国とカナダの比較(三五二ページ)をその反証として提示している。彼らの指摘によると、(1)カナダの金融政策は、固定為替レートを介して米国の金融政策に連動していた、(2)カナダでは目立った銀行破綻は起きなかった、(3)しかし、カナダでも産出高は米国と同じくらい大きく減少した、という。フリードマンとシュウォーツは、カナダ経済が衰退したのは貨幣収縮を余儀なくされたからであり、この収縮の原因が銀行破綻か為替レート制度かは重要な問題ではないと結論した。

 私としては、カナダは商品輸出国であると同時に、米国と異例に強く結びついていた国だったため、一九三〇年代のあらゆる国々の経験を十分に代表する例だとは言い切れないと考えている。たとえば、「バーナンキ、一九九五年、表三」では、二六か国の例を用いて、各国の為替レート制度が不変だった場合、深刻な銀行恐慌が起きていた国々では、銀行制度が安定していた国々に比べて、その後の産出高の減少幅がはるかに大きかったことを示した。この結果は、銀行破綻に非金融的な別の道筋があった可能性を示唆している。また同時に、「金本位制の維持や、それにともなう貨幣の収縮は、どの国が深刻な不況に陥ったかを説明するにあたってもっとも重要な要因である」との説も、強力に裏づけている。したがって、私がいつも明確化に努めてきたように、銀行破綻に非貨幣的要因が影響したという私の主張は、フリードマン、シュウォーツの説を色づけしたものにすぎず、彼らの分析の基盤となる論理に決して矛盾するものではない。

ベンジャミン―ストロングとリーダーシップの欠如

 フリードマンとシュウォーツの、もっとも論議を呼んだとみられる最後の「自然実験」は、米国の傑出した中央銀行総裁だったベンジャミン・ストロングが、一九二八年に早世したことを前提としている。ニューヨーク連銀総裁として、今日の連邦準備制度理事会議長と事実上同等の立場にあったストロングは、一九二〇年代を通じて連邦準備制度を主導した。彼は名前のとおり強い個性の持ち主で、中央銀行の優れたトップだった。 連邦準備制度は、その名が示すように、権力を比較的分散させようとする連邦議会の意図を反映した組織だったが、ストロングがその性格や手腕によって、同制度内で主導的な地位を築いたのは想像に難くない。

 フリードマンとシュウォーツによる詳細で有益な説明のとおり、ストロングの死後、連邦準備制度にはもはや有能な指導者どころか、確立した指揮命令系統すらなくなった。ワシントンの連邦準備局のメンバーは、ニューヨーク連邦準備銀行の伝統的な影響力に嫉妬し、同局の影響力の拡大を切望していた。これに対し、ストロングの後任のジョージ・ハリソンは、彼らを止められる経験も性格も有していなかった。地方の銀行もいっそう強く自己主張をするようになった。このようにして権力は分散したが、さらに悪いことに、新たに権力を握った人々は、ストロングのように、国家的・国際的な観点から中央銀行の役割を理解することができなかった。 連邦準備制度内に主導者がおらず、中央銀行の役割に関する専門知識が全体的に低水準だったことは重大な問題であり、これはストロングの死後数年間にわたって、連邦準備制度が過剰に受け身になり、多くの不適切な決定を下した要因だった。

 フリードマンとシュウォーツは、『米国金融史』において、ストロングが生きていれば大恐慌期の過ちの多くは回避できたと主張している。この説は多くの議論を呼び、金融政策立案のさまざまな問題に対する、ストロングの「実際の意見」について、詳しい研究がなされてきた。私の考えでは、この反事実的な論争はかなり的外れなものである。ストロングが生きていたらどうなっていたかは知る由もないが、一九二九年当時、経済的に世界でもっとも重要だったこの国の中央銀行が、事実上、指導者も専門知識も欠落した状態にあったことはわかっている。こうした状況から、優れたリーダーシップや、より集権化された組織構造のもとでならあり得なかったと考えられる、決定や不作為が生じた。そして、このような決定にともない、貨幣量や物価、産出高が大幅に減少・下落したことが確認されている。したがって、ストロングの死は、大恐慌期における貨幣的要因の影響の識別に使用できる、もうひとつの自然実験になり得ると私は考える。

結論

 フリードマンとシュウォーツの大恐慌に関する研究の素晴らしさは、その議論の組み立てや、首尾一貫した観点だけにあるのではない。この研究は、歴史を用いて、複雑な経済制度における因果関係の問題、すなわち識別問題に真正面から取り組んだ、もっとも早期の試みのひとつである。彼らの「自然実験」のなかに、単独で説得力のあるものは皆無かもしれないが、そのすべてが組み合わされ、その後に何十人もの学者の研究によって磨きをかけられたことで、きわめて強力な説に発展している。

 今では私自身もその一員になった、現実世界の中央銀行関係者に対し、フリードマンとシュウォーツの分析は数多くの教訓を残している。私が彼らの研究から学んだものは、「貨幣の力は、とくに事態を不安定化させる方向に解き放たれた場合、きわめて強力になり得る」との考え方である。中央銀行関係者が世界のために実行できる最善の策は、ミルトン・フリードマンのいう「安定した金融環境」、たとえば低く安定したインフレ率に象徴されるような環境を自国経済に実現させ、そうした危機を回避することである。

 この講演を終えるにあたり、連邦準備制度の公式な代表者としての私の立場を、若干濫用することをお許しいただければと思う。私はミルトンとアンナにこう言いたい。大恐慌に関して、あなた方の意見は正しかった。連邦準備制度は、あなた方が述べたとおりのことをした。われわれはきわめて遺憾に思っている。しかし、あなた方のおかげで、われわれはそれを二度と繰り返さないだろう。

 これからの九〇年における、お二人のご多幸を祈る。

バーナンキ氏は2006年~2014年の8年間、第14代FRB議長の重責を担った(写真:Shutterstock)
バーナンキ氏は2006年~2014年の8年間、第14代FRB議長の重責を担った(写真:Shutterstock)
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