ユニクロ初のグローバル旗艦店として鳴り物入りでオープンしたニューヨークのソーホー店。世界のファッションの中心地にできた超大型店は、日本のユニクロとは似て非なる店だった。日本での大成功を経て、いよいよ世界へと羽ばたくユニクロ。だが、そこに横たわっていたのは思わぬ壁だった。苦戦する海外展開、その様子をノンフィクション『ユニクロ』(杉本貴司著)より紹介しよう。(文中敬称略)
似て非なるソーホー店
ソーホー店に漂う違和感を抱いたのは最古参の浦利治と岩村清美だけではなかった。
(なんだよこれ……、ぐちゃぐちゃじゃないか)
ロンドンから視察にやって来た日下(くさか)正信の目にも、「これは俺が知っているユニクロじゃない」と映った。ユニクロはソーホー店を作ってからちょうど1年後の2007年11月にロンドンでも旗艦店をオープンさせることになり、ロンドン駐在で営業担当だった日下がソーホー店を参考にしようと視察のために出張してきたのだが、そこで目にしたのは日下が知っているはずのユニクロとは似て非なる現場だった。
浦や岩村よりその危機感は強かったはずだ。日下自身がロンドンに来てからずっと、「ユニクロのようなもの」と向き合ってきたからだ。
1995年に入社して店舗スタッフや店長として全国の店を転々とする下積みのような生活を送ると、日下はスーパーバイザー(エリアマネージャー)へと昇格していった。金太郎あめ方式で本部の指示通りに動くのが当然だった店舗の中で、幸いなことに「本部よりお客さんを見て仕事しろ」と言ってはばからない先輩に鍛えられたことが今も財産だという。
「こいつらが俺の上司か……」
フランクではあるが時に直截的な語り口。背格好は大柄ではないが、切れ長でギロリと鋭い目が特徴的な、いかにも現場のたたき上げという雰囲気を、日下は漂わせる。
現場で実績を残してきた頃に命じられたのがユニクロ大学の担当だった。現場第一の日下は「そんな学校の先生みたいに高いところに立って偉そうなことを話すのは、絶対に嫌です」と突っぱねたが、結果的にこれがキャリアの転機となった。
当時、中国で採用した若者たちを日本に半年ほど呼び寄せてユニクロ流を学んでもらっていた。その教育担当に指名されたのが日下だった。日本まで研修にやって来た彼らの姿を見て、日下は脅威を覚えたという。
「このままだと、俺はすぐにこいつらに追い抜かれてしまうな」
例えば、柳井が制定した23カ条の経営理念ひとつとっても2時間もすれば句読点の位置まで間違えることなく覚えてしまう。ほとんどの者が半年ほどの研修の間にそれなりに日本語ができるようになる。英語だって、TOEICのスコアが320点の自分とは比較にならないほど上手にしゃべる。日下がユニクロの現場でたたき込まれてきた接客や身のこなしも、スポンジが水を吸い込むように覚えてしまう。
「近い将来はこいつらが俺の上司か……」
そんな現実を突きつけられる思いだった頃に打診されたのが、不振にあえぐロンドン行きだった。
ロンドンで英国事業を立て直してほしいと言われたのが2004年秋のことだった。海外での経験はまったくないが、「ユニクロの商売を知っている」というのが起用の理由だった。
英語ができないことを理由に一度は断ろうと思ったが、頭に浮かんだのがユニクロ大学で学ぶ中国の若者たちの姿だった。「このままだとすぐに追い抜かれる」。その危機感に打ち勝つためには、自分も彼ら彼女らのように世界に出て戦う覚悟を決めなければならない。
みずからを奮い立たせる思いでロンドンに渡った日下が目にしたのは、その後に視察したソーホー店と比べても話にならない売り場の光景だった。
「もっとユニクロにする」
ユニクロが誇る「圧倒的な陳列」。同じ色を下から上までずらりと積み上げて圧倒的な量とカラーバリエーションが一目瞭然になるように服を並べる方法のことを、こう呼ぶ。
特に壁際は足元から天井近くまで積み上げ、あたかも壁をタペストリーのように彩っていく。いわゆるボリューム陳列と言われるレイアウトの手法だが、フリースブームの火を付けた1998年の原宿店で採用した方法を、その後も少しずつ進化させてきた。
それが、ロンドンではまるでなっていない。
この当時は英国内で21店舗まで広げていた店舗網を、ロンドンの5店舗にまで縮小させた直後のことだ。現地の英国人スタッフたちの間にも「ユニクロは通用しない」という空気が漂っていたどん底のタイミングで東京からやって来たのが、ろくに英語も話せない日下だった。
日下が日本のように服を並べたらどうだと、たどたどしい英語で説明しても「でも、それで売れなかったじゃないか」と一蹴されてしまう。何度言っても一顧だにされない。すると、次第に日下も現地の考え方に染まるようになってしまった。「どうせ店にいてもヒマだし」と、同じ通りにあるネクストやH&M、ZARAの店を見て回った。そこはガラガラのユニクロとは違い、すぐ近くにあるとは思えないほどいつも人であふれていた。
郷に入っては郷に従えとばかりに、日下がいっそのことマネしてみようと思ったのがH&Mの展示方法だった。マネキンを多用して売れ筋の服を展示し、棚に積み上げるのではなく、ハンガーでつり下げて陳列することにした。
「すると、もっと売れなくなりました。結局、なんの店だか分からなくなったんだと思います。彼らが成功しているからといって同じようなことをやってもうまくいかないと納得しました。だったら逆のことをやってみようと思いました」
こんな回り道をしてたどり着いたのが、ユニクロ流への回帰だった。「ユニクロが何者か、誰が見ても分かるようにしないといけない」。それが日下が出した答えだ。
「どうせやるなら大げさにやってやれ」
日下の言葉を借りるなら「もっとユニクロにする」、だ。棚の並べ方はミリ単位で指定する。ハンガーでつっていた服は全部折り畳んでひとつずつ積み重ねていく。壁際は足元から天井まで1列1色できれいに統一していく。売れる色も売れない色も同じように足元から天井まで、だ。
反転攻勢への第一歩
すると予想した通り、英国人スタッフから反発の声が上がった。
「同じ服でもカラーによって売れる量が違うのに、その方法だと同じ数を並べることになってしまう。そんなのナンセンスじゃないか」
「お客さんは服を広げてまた棚に戻すだろ。それをまた折り畳まないといけないってことか。なぜそんなムダな作業を我々に押しつけるんだ」
在庫管理の観点からも作業効率の観点からも「合理的ではない」と言われれば、確かにその通りだ。だが、だからといって目抜き通りで肩を並べる他社と同じような売り方をしていれば埋没してしまう。お客からすれば、数あるブランドの中でユニクロの店に入ってみようと思う理由がない。
現地スタッフたちが早口で話す英語にはついていけないが、「また日本から来た奴が日本のやり方を押しつけやがる」という雰囲気だけは嫌でも伝わってくる。だが、ここで引き下がってしまうと同じ失敗の繰り返しだ。
「君たちが言うことはもっともだ。でも、我々はここでは知られていない存在なんだ。差別化しないといけない立場なんだ」
そう言って根気よくロンドンにユニクロ流を持ち込もうとしていた矢先に視察したのが、ニューヨークでオープンしたばかりのグローバル旗艦店であるソーホー店の現状だった。
「これはユニクロじゃない。こんな風にしちゃダメだ」
そう確信して「思いっきりユニクロに振った」のが、2007年11月にオープンさせたロンドンのグローバル旗艦店だった。
実は日下がロンドンで「もっとユニクロにする」と考え始めたちょうど同じ頃に、香港で同じことを考えていたのが潘寧(パン・ニン)だった。19歳で中国からやって来た潘は、ユニクロに入社して中国ビジネスを担当していた。香港の繁華街、尖沙咀(チムサーチョイ)に出した店で「日本のユニクロ」方式を採り入れ、それを上海に移植して中国ビジネスを軌道に乗せた。
潘と日下は同じ1995年にユニクロの門をたたき、いずれも郊外の店を振り出しにそれぞれの現場で実績を残してきた。その2人が海外に飛び出して「ユニクロとはなにか」を自問自答し、行き着いたのが、まったく同じ解だったのだ。
ここからユニクロの英国ビジネスは少しずつ反転攻勢へと向かい始める。長い道のりではあるが、撤退間際まで追い込まれていた英国事業を軌道に乗せる糸口がようやく見つかったのが、この頃のことだ。
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