1957年、孫正義は朝鮮半島出身者が鳥栖駅の隣に無断で建てたバラック集落の一軒で生まれた。貧困から抜け出すために、父・三憲は1日18時間も働いた。その父から「天才」だと言われて育った孫正義(通称「マサ」)は、自分が並外れた、ナンバーワンとなる存在であることを自然と確信していった。ソフトバンク創業者の幼少期を『勝負師 孫正義の冒険(上)(下)』(ライオネル・バーバー著/村井浩紀訳/日本経済新聞出版)から抜粋・再構成してお届けする。

豚の排泄物の悪臭――裕福になっても見る悪夢

 孫一家で両親は共働きだった。このため、男ばかり4人兄弟の2番目だったマサは祖母の李元照(イ・ウォンジェ)に育てられた。

 祖母は毎日、マサを黒ずんだリヤカーに乗せて、地元の食堂から残飯などを集め、それらを線路脇にいて家計を支えてくれる5頭の赤い豚に与えた。

 「あの生活が普通だと思っていました。ほかの生活を知らないので不幸だと感じることはありませんでした」とマサは思い起こした。「豚は夕方になると騒ぎだして、糞(ふん)のような悪臭を放っていました(*1)」

 何年もたって、初めて100万ドルを手にしたとき、マサは繰り返し見る悪夢に悩まされていると旧友に打ち明けた。豚の排泄(はいせつ)物の悪臭を鼻に感じ、驚いて目を覚ますのだと話した。

 友人はその夢は実際には記憶だと指摘した。マサがいくら努力しても、過去から逃れることはできなかった(*2)。

 マサが生まれてから5歳になるまでの暮らしは苦難の連続だったが、両親たちの世代が体験した逆境はその比ではなかった。そして、彼らの献身が少年マサの大きな原動力になり、強い義務感を抱かせた。

 人生で何を成し遂げても、いくらお金を稼いでも、両親と祖父母への恩義は消えないと彼は認識していた(*3)。

石を投げられ、額から血を流した幼少期

 マサ自身の説明によれば、幼少期には干し草の山でかくれんぼをしたり、大木川[筑後川水系の支流]で魚釣りをしたりして楽しく過ごした。

 しかし、初めて遭遇したあからさまな差別は、心と体に傷痕を残した。ある日の午後、幼稚園から帰る途中に、日本人の子供たちが、貧しい朝鮮人集落に暮らすマサを嘲(あざけ)った。1人の子供が、マサに石を投げた。石はマサの額(ひたい)に命中し、血が流れた。

 それは屈辱の瞬間であり、自分自身を認識する瞬間でもあった。マサは日本語を話し、通名(安本)を名乗っていたが、それでものけ者だった。

 「次第に自分が日本人の子供ではないと気づくようになりました。国籍、人種、そして差別について理解し始めたのです。古き良き思い出が少し臭いものになり、そこから逃れようと努めたのです」とマサは振り返った。

 孫一家の貧困からの脱出の道は豚の飼育・販売にあった。豚は牛や羊よりも繁殖が早い。マサの父・三憲は1日18時間働いて豚を育てて食肉処理業者に売った。

 家計は急速に改善した。家族が働くので労賃はタダ、豚の餌(えさ)は食堂から集めた残飯なのでタダ、豚小屋は国鉄の土地の不法占拠なので家賃もタダ。つまり、支出が一切不要で、すべてが収入になった。父親は5年間で500万円を稼ぐ目標を立てていたが、最終的に4000万円に上った。

 父・三憲の背中を見ながら、若きマサはいくつのことを学んだのだろうか。貧窮に対する並々ならぬ恐怖心。アウトサイダーが生き残るために課せられた、終わりなき苦闘。自分でやるしかないという苦い真実。社会の周縁で活動する起業家に求められる、絶えず先へ先へと急ぎ、奮起し、自己を刷新していく努力だったのだろう。

 対照的に母・玉子はもっと遠い存在だった。文字通り不在だっただけでなく(三憲の女性蔑視があまりに辛く、親戚のもとにしばしば身を寄せていたとされる)、感情的にも存在は希薄だった。その点、いつもそばにいて、お金のことばかり心配していた祖母はマサに忘れられない印象を残した。

オオカミの目をした少年

 87歳になった三憲は木製のアームチェアに座りながら、およそ50年前、次男の正義がほかの少年たちとはまったく違っていると気づいた瞬間を、私の前で思い出してくれた。

 息子は頑固者で、自分の力を信じ、無限の野心を持っていた。6歳のマサは兄と自宅で相撲を取っていた。負けても決して諦めなかった。何度でも兄に挑み、父親が引きはがそうとしても止めなかった。三憲はそのときのマサの眼差(まなざ)しを覚えていた。

 「それは動物の目に見えました。まるでオオカミの目のように見えました」と三憲は笑いながら話した。「『うわ。この野郎、人間じゃないな』と思ったのです(*4)」

 このように三憲が語っていた2023年の春のある朝、窓から何本もの陽光の筋が広々とした居間に差し込んでいた。そして居間いっぱいに並べられたマサの写真や思い出の品々を照らしていた。その空間には聖堂のような雰囲気が醸し出され、三憲は最高に充実した人生を送り、愛する息子の人生を通じて自尊心を満たしているかのようだった。

 部屋の奥のマントルピースには、ベースボールジャケットと野球帽を身に着けた2人の男性のスナップ写真が並び、嵐の中を疾走する黒の牡馬を題材にしたマサが描いた絵が飾られていた。

 一つの作品がひと際目立っていた。マサが16歳のときに描いた自画像だった。すべてが反抗的で、唇はすぼまっていた。濃い黒髪が額の上から大胆にⅤ字型に垂れて、顔の左側に暗い影を落としていた。

 「正義はあの目でずっと睨(にら)みつけてくるんです。まるで自分のことを天才と呼び続けるようにと求めているようでした」と三憲は明かした。「だから、仕方なく天才と呼ぶしかありませんでした」。そのメッセージを外国からの訪問者が理解できなかった場合に備えて、息子を溺愛する父は付け加えた。「正義は自分が天才だと信じているから、必ずうまいアイデアを編み出します。精神が強く、天才だと心から信じているから、失敗が逃げていくんです。『動機の力』で失敗を追い払うんです」

少年時代の孫正義は、オオカミのような目をしていた(写真:serge-b/stock.adobe.com)
少年時代の孫正義は、オオカミのような目をしていた(写真:serge-b/stock.adobe.com)
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妥協してナンバーツーになる必要はない

 この頑固さと、ひらめきの混合がマサの人となりと、そして彼のビジネスに対する姿勢の本質を浮き彫りにする。テクノロジーを中心とする自分なりの世界観について確信を持つ彼は、将来を見通してそれを今、実現できると本当に考えている。

 ソフトバンクで長年一緒に働いてきたある人物は次のように解説する。

 「マサはこう考えます。何かが起こりうるなら、それは起きるべきであると。そして、起きるべきであるなら、それは起きるだろうと。しかも、起きるのなら、それはもうマサの頭の中ではすでに起きているのです。彼にはそれがもう見えているのです(*5)」

 マサは父から自分が並外れた存在だと信じるよう励まされたことを認める。
 「父はいつも『正義、お前は最高だ。ナンバーワンだ。輝いているぞ』と言ってくれました。そうして自然に信じるようになったのです。自分はナンバーワンだ。妥協してナンバーツーになる必要はない、と(*6)」

*1 筆者による孫正義へのインタビュー。2023年2月10日。
*2 筆者による児玉博へのインタビュー。2022年10月24日。
*3 日本経済新聞、2017年11月8日朝刊。
*4 筆者による孫三憲へのインタビュー。2023年4月1日。
*5 筆者による匿名希望のソフトバンク幹部へのインタビュー。2023年11月。
*6 筆者による孫正義へのインタビュー。2023年2月10日。
希代の勝負師、孫正義。東洋と西洋をつなぎ、世界の常識を破壊した男の原点とは? フィナンシャル・タイムズ(FT)前編集長が膨大な取材を基に描いた決定版伝記。日本から決して見えない「マサ」の真実。

ライオネル・バーバー著/村井浩紀訳/日本経済新聞出版