バブルの後始末 銀行破綻と預金保護 』(和田哲郎著/ちくま新書)は、1990年代後半に起きた日本の金融危機の舞台裏を、破綻処理の第一線にいた日銀マンがつづった記録。なぜ大蔵省(現・財務省)や日本銀行、銀行関係者は有効な手立てを講じられなかったのか。長きにわたる金融緩和の時代に幕が引かれつつある今こそ、改めてかみ締めるべき教訓である。

(本の写真:スタジオキャスパー)
(本の写真:スタジオキャスパー)

テレビ局の知人に電話

 時間がたつとテレビの中継車が集まってくる。もしこの取り付けシーンがテレビ放映されたら、深刻な事態になりかねない。そう考えた筆者は、テレビ局の知人に電話した。「テレビ局の中継車がきていますが、どうするつもりですか。いまの状況を放映したら、この銀行はどうなるかわかりません」。幸い、取り付けシーンが放映されることはなかった――。

 北海道拓殖銀行や山一証券が破綻した1997年11月の金融危機。2024年12月に出版された『バブルの後始末 銀行破綻と預金保護』(和田哲郎著/ちくま新書)の一節である。筆者の和田氏は1990年に日本銀行内に新設された信用機構局の調査役などを歴任し、文字通り金融機関の破綻処理の第一線で活躍した。そんな和田氏が当時の舞台裏を率直につづっているのだ。

 現在のようにSNS(交流サイト)が発達していたら、SNSを通じて動画が瞬時に駆け巡り、日本の銀行は次々と破綻し、金融恐慌に陥ってしまっただろう。事実、2023年春に米国で起きたシリコンバレーバンクなどの破綻は、SNS時代の金融危機をうかがわせている。本書が記す出来事は決して遠い過去の物語ではない。

 日銀は2024年12月、「金融政策の多角的レビュー」を発表した。異次元緩和と呼ばれる2013年以降の大規模な金融緩和から決別するための、いかにも日銀らしい儀式である。だが日本経済が1990年代後半にデフレに陥って以降、もがき続けてきた金融政策を検証した労作をたどっても、一つの違和感が拭えない。

 それは野球で言えば、日程消化試合の分析ではないのか。1990年に日本株のバブルが崩壊し、1997~98年に銀行の取り付けが起き、邦銀が軒並み資金繰り破綻の崖っぷちに追い込まれるまで、なぜ大蔵省や日銀、銀行関係者は有効な手立てを講じられなかったのか。この問題を抜きにして、金融危機後の経済停滞だけを論じても仕方あるまい。

 そんな不満に応えてくれるのが本書である。全部で7章構成。第1章で1997~98年の金融危機の震度を概説し、第2章から第6章にかけて、バブル崩壊以降の危機の深まりを時系列的にたどる。そして第7章で、危機の歯止め役となるはずの公的資金(税金)の投入がなぜ遅れたかを整理する。その時代を経験していない読者は、まず第7章からひもとくのがよい。

 バブルの崩壊が銀行経営を直撃するのは、貸し出しなど銀行の資産価値が下がり、銀行が持っている自己資本で埋め合わせがつかなくなるからだ。債務超過となれば銀行経営は立ち行かなくなり、破綻する。その前に、預金が返ってくるのか不安に駆られた預金者が引き出しに走る。こうした事態は経済活動の息の根を止めかねない。

公的資金投入にちゅうちょした大蔵省

 「決定的に重要なのは『ツービッグ・ツーフェイル(Too Big To Fail)』の原則」。要は「巨大金融は潰してはならない」と、本書は強調する。そのために自己資本が足りなくなった銀行には、政府が「公的資金」を注入し、経営を支えるほかない。これが本書の主張なのだが、実際にはそうは問屋が卸さず、時間ばかりが空費されていった。

 ほかでもない。経営危機を招いたのは経営者たちの責任。その尻ぬぐいをなぜ国民の税金を使ってしなければならないのか。安易な銀行救済はけじめの欠如をもたらすばかりではないか。メディアが唱和した「モラルハザード」批判に抗するのは難しい。国会との折衝の難しさを肌身にしみている当時の大蔵省は、公的資金投入の議論に二の足を踏んだ。

 不動産価格はいずれ時間がたてば回復するはず。「待てば海路の日和あり」とばかりに、大蔵省は問題を先送りした。その間にも地価は下がり続け、焦げ付いた貸し出し、つまり不良債権は膨らんでいく。1993年6月に兵庫銀行のトップとして送り込まれた吉田正輝元大蔵省銀行局長は、日銀理事を務めたこともあり、大蔵省、日銀の双方から情報が入ってくる。

 「日銀からは大変だという話ばかり。大蔵省からは心配ないの一点張り。どちらが正しいのか」

 吉田氏のそうした当惑は、バブルが音を立てて崩れているのに、一体となった政策対応を欠いていた当時の日本を象徴する。兵銀も含めて、待てど海路の日和はなかった。

 抜本的な問題処理に踏み切るよう、日銀は大蔵省に3度申し入れていた、と本書は言う。1回目は1991年にまとめた「破綻金融機関の処理に関する基本原則」。2回目は1992年12月で、住宅金融専門会社(住専)の処理と農林系金融機関への公的資金の注入。

 そして3回目は1993年春の包括的な提案である。不良債権の規模を30兆~50兆円と推計。不良債権の受け皿金融機関をつくる。日銀は金融機関への注入や受け皿機関への出資を行う用意がある――というものだ。いずれも白川方明信用機構課長(後に日銀総裁)が携わったが、ことごとく大蔵省にはね返された。

 問題先送りを行動原理とした大蔵省のなかで、あえて火中の栗を拾おうとした人物が現れた。西村吉正銀行局長である。西村氏は金融不安の大きな火種となっていた住専の抜本処理を行った。コスモ信用組合、木津信用組合、兵銀などの破綻処理に次いで、1995年にメスを入れたのだ。

不透明な政治決着

 ノンバンク(預金を取り扱わない金融機関)の清算に際しては、貸し手である農林系金融機関にも一部の損失負担を求めた。しかし、農林系は負担を避けようと政治力を行使した。西村氏は交渉の舞台から外され、大蔵省の官房と主計局が農林系との折衝に乗り出し、6800億円あまりの公的資金の投入が決まった。

 この資金は銀行ではない住専の損失穴埋めに使われた。実態は農林系金融機関の救済のための公的資金だったのに、その経緯については当事者にかん口令が敷かれた。いかにも唐突で、不透明な政治決着である。世論は猛反発し、それ以降というもの当局は公的資金の議論を持ち出せなくなった。その間にも地価は下落し、不良債権は膨らんでいく。

 1997年の金融危機は、そうした住専処理の帰結だった。三洋証券の破綻はコール市場(金融機関が短期資金を融通し合う市場)の取り付けを招き、北海道拓殖銀行が資金繰りに行き詰まって破綻した。日本初の都市銀行破綻を機に、日本の金融システムに対する内外の信頼は一気に崩れた。それに続く山一証券の破綻で、経営不安が懸念されていた銀行に取り付けが起きた。

 1998年には日本長期信用銀行が破綻し、日本債券信用銀行も後を追った。大手金融機関の破綻を代償として、金融機関への公的資金注入の仕組みが整備された。しかし、日本の金融システムは機能不全に陥り、日本経済は長期にわたるデフレ型の停滞に突入する。「巨大金融は潰してはいけない」。本書に示される失敗の実例は、決して過去の話ではない。金融緩和の時代に幕が引かれつつある今こそ、改めてかみ締めるべき教訓である。