ベテランになれば、不安はなくなるのだろうか。中学受験国語の専門教室「南雲国語教室」を主宰する南雲ゆりかさんは、「今でも授業に失敗する夢を見る」と話す。長年教壇に立ってきた今も、その緊張感は消えないという。そんな南雲さんの心に深く刺さったのが、天才ヴァイオリニスト・千住真理子さんの自叙伝的エッセーだった。挫折や迷いを抱えながら、それでも前を向いて歩み続ける千住さんの本に、心を動かされた理由を聞く。

南雲国語教室主宰
天才少女と呼ばれたヴァイオリニストの挫折
ヴァイオリニストの千住真理子さんは、私と同世代の方です。私自身も中学・高校時代に部活動でヴァイオリンを弾いていたのですが、千住さんは小学生の頃からコンクールで優勝を重ねていて、ずっと憧れていました。私のヴァイオリン仲間の間では、まさにスーパースターのような存在でした。今回紹介する本『 聞いて、ヴァイオリンの詩 』(時事通信社)は、そんな千住さんが20歳前後の頃のことをつづった本です。
天才少女として脚光を浴びながら、20歳のときに深刻なスランプに陥り、ヴァイオリンを手放した日々があった。そこからどう立ち直り、再び演奏家として歩み始めたのか——。千住真理子さん自身の言葉でつづられた自叙伝的エッセー。
音楽大学には進まず、慶應義塾大学文学部で学ばれたと知ったときも、普通とは異なる思い切った選択に感嘆しました。ところが、その頃からコンクールで思うような結果が出せなくなり、20歳のときに大きなスランプに陥ってしまうんです。ヴァイオリンが弾けなくなり、寝込んで点滴を受けるような生活を送っていたと書かれていて、その苦しさが伝わってきました。
ヴァイオリンを見るのも嫌だったし、クラシック音楽を聞くのもつらかった。「もういらないから売ってきて」とヴァイオリンを親に突き出すほどだったと。完全に楽器から離れていた千住さんが再びヴァイオリンと向き合うきっかけになったのは、ホスピスでのボランティア演奏だったといいます。
ホスピスでの悔恨が再起の力に
ホスピスの患者さんの中に千住さんのファンの方がいて、「最後に演奏を聴きたいとおっしゃっているのですが、いかがですか」と声をかけられ、千住さんはその依頼を受けて演奏に向かいます。
千住さん自身にとっては、納得のいく演奏ができなかった。それでも精いっぱい心を込めて弾いた。演奏が終わると、「自分の命はあと少ししかないけれど、最後にこんなすばらしい演奏が聴けて頑張って生きていてよかった」と、涙を流して感謝を伝えてくださった方がいたといいます。その言葉を聞いて千住さんが感じたのは、喜びではなかった。「私はなんてことをしてしまったんだ」と思ったそうなんです。
人生の最後に、自分の演奏を楽しみにしてくださった方に、“最善の演奏”を届けることができなかった。その悔恨が、千住さんに「一期一会」の大切さを取り戻させた。演奏は、そのとき、その場所でしか生まれない。この一瞬のために最高の演奏をしたい。そんな思いを取り戻した千住さんは、再び歩き始めます。そのくだりには本当に迫力があって、思わず涙が流れるほどでした。
何十年やっても、授業前は怖い
千住さんが語る「一期一会」は、私のような塾の講師にも通じる話だな……と思って読みました。一回一回の授業も、いわば一期一会です。保護者の皆さんから大切なお子さんを預かり、その貴重な時間に加えて、お金までいただいている。私が何気なく口にした言葉で傷つけてしまうことがあるかもしれないし、逆に、その子の心に残る言葉を届けられるかもしれない。そう考えると、千住さんのお話は本当に身に染みるんです。
私は何十年もこの仕事をしているのに、今でも授業の前はものすごく緊張します。怖いなと思うんですよね。授業に失敗する夢を見て、うなされることが今でもあります。だから、授業をルーティンワークとして流してはいけない。一回一回を、一期一会のつもりで向き合わなければならない。そんなことを改めて考えさせられました。
読む力は、すべての学びの土台
ちなみにこの本には、「言葉で表現する」ことへの示唆もたくさんあって。工学者の父、日本画家の長兄、作曲家の次兄という、言葉と対話の豊かな家庭の中で才能が育まれた背景も描かれていますし、音楽という非言語の表現を言葉に変換しようとし続けた半生が、全編を通じて伝わってきます。
ちょっと話は変わるのですが、最近は英語の早期教育に力を入れる家庭が本当に増えています。子ども自身が好きで英語を学んでいるぶんには、もちろんいいことだと思うんです。ただ、一つ気になっていることがあって。
英語の大学受験指導をされている先生方によると、結局は長文が読めなくて壁にぶつかるお子さんが多いそうなんです。実際、「まずは日本語の長文を読めるようにしておきなさい」と指導される先生も少なくありません。日本語の長文を読む力というのは、何語で書かれた文章を読むにしても土台になるもの。文章の構造を理解し、「筆者が何を伝えようとしているのか」を読み取る力は、言語が変わっても共通しているんですよね。
だから千住さんの本に引き込まれていくような体験は、結果として読む力にも書く力にもつながっていく。「国語」って教科書の中だけにあるものじゃないんだな、と改めて思わせてくれる1冊です。
取材・文/金澤英恵 取材・構成/細谷和彦(日経BOOKプラス編集) 写真/品田裕美
