起業、楽天イーグルスの立ち上げ、ヤフーでPayPay立ち上げなど数々の事業を成功させてきた小澤隆生氏。スタートアップでも、大企業の新規事業立ち上げでも、投資家としても大きな成果を残してきた。その半生や事業のフレームワークを作家の北康利氏が新刊『 小澤隆生 起業の地図 』にまとめた。発行記念の書き下ろし4回連載の最終回である今回は、高杉晋作と小澤隆生に共通する生き方を解説する。
前回
触れた小澤の愛読書である『世に棲む日日』(司馬遼太郎著)には、吉田松陰の他にもう一人の主人公がいる。それが高杉晋作だ。吉田松陰の愛弟子である高杉晋作の生き方にも、小澤隆生は深い共感を抱いている。
高杉は松陰の革命家としての血を見事に引き継いでいた。
前回触れたように、司馬遼太郎は『
世に棲む日日
』(文春文庫)の冒頭を、
――長州の人間のことを書きたいと思う。
という文章から始めたが、その直後、「中国者の律儀」について触れている。
尊皇攘夷(そんのうじょうい)を藩の方針とする長州藩は、朝廷から指示のあった攘夷の期限を律儀に守り、果敢に下関海峡を通航する外国船を無差別に砲撃した。幕府でさえ朝廷との約束を守らなかったのに、である。
だが、その報復はすさまじいものだった。四国艦隊が下関に殺到して砲台を徹底的に破壊。藩を滅ぼしかねない状況に、英国留学中の伊藤博文や井上馨が急きょ帰国したことは有名だ。
そこからはHard things(困難)の連続だった。
起業家と共通する「何があってもやり抜く執着心」
攘夷命令も忠実に守るなど朝廷の信頼を一身に受けていた長州だったが、公武合体を進めようとする薩摩藩が起こした八月十八日の政変で朝廷の警護の任を解かれ、長州派の公卿も都落ちしていく(七卿落ち)。
乾坤一擲(けんこんいってき)、失地回復を目指した蛤御門(はまぐりごもん)の変でも長州は敗れた。さらに第一次長州征伐で徹底的にたたかれ、藩内は幕府に恭順しようという俗論派が多数を占めるようになる。
尊皇攘夷の旗を降ろす気のない高杉は藩から謹慎を命じられていたが、彼の倒幕の思いは消えていなかった。
(藩兵が使えないなら私兵を組成してでもやる)
戦闘の素人である百姓に武器を持たせ奇兵隊をでっち上げる執念には、『小澤隆生 起業の地図』に登場する「おざーんの法則」の「何があってもやり抜く覚悟、執着心を持とう」を彷彿(ほうふつ)とさせる。
そして彼は幕府恭順を唱える藩内の老人たちを追放するべく立ち上がった。
その登場の仕方がドラマチックだ。
奇兵隊を中心とするわずか80名ほどで功山寺で決起し、馬上からかくまわれている公卿たちに向かって、
「これより長州男児の意地を、しかとご覧に入れ申す」
と言い放ち、見事藩内の主導権を俗論派から取り戻したのだ。
やがて薩摩藩も長州藩と協力して倒幕に動き、明治維新が成就する。
高杉晋作の狂気がなければ、執着心がなければ、世の中は倒幕に動かなかった。吉田松陰から高杉晋作に引き継がれた革命家の血が、長州藩のみならずこの国全体を動かしたのだ。
大志を抱き、面白がる
司馬遼太郎は『世に棲む日日』の中でこう記している。
〈晋作の生涯は二十八年でおわる。師の松陰のそれよりも一年みじかい。が、晋作は松陰の死後、八年ながく生きた。この八年の差が、二人の歴史の中における役割を別々なものにした〉
起業家は得てして若い頃に起業を目指す。最近は大学在学中に始める人も多いと聞く。高杉晋作は満年齢で27歳で没した。感情移入しやすい年齢だろう。
そしてさらに大事なことは、松陰の死後の8年で、高杉は歴史を変える偉業を成し遂げたということだ。
起業家にとって何より大切なのは大志を抱くことだ。
孫正義は司馬遼太郎の『
竜馬がゆく
』(文春文庫)を読んで渡米を決意した。
人生は長さではない。質である。
晩年、結核に冒されていた高杉晋作は、明治維新を自分の目で見ることなく、下関の新地の庄屋林算九郎の屋敷の離れで息を引き取る。
死の床にあっても、芸者に三味線を弾かせてどんちゃん騒ぎをしていたという。陽性な彼の生き方に、お祭り好きな小澤の思いが重なる。
辞世の句は、
──面白きこともなき世を面白く
であった。
これに、付き添っていた野村望東尼が「住みなすものは心なりけり」と下の句をつけた。
「おもしろいのう」
が最後の言葉だったという。
現代、高杉晋作のように面白い人生を生きる方法はいくつかあるかもしれない。しかしそのうちの一つが、間違いなく起業だと筆者は思う。
『小澤隆生 起業の地図』はそんな思いで上梓(じょうし)した。
皆さんもぜひ、人生の最期、
「おもしろいのう」
とつぶやいて死ねるような人生を送ってみようではないか。
北康利 著/日経BP/1870円(税込み)

