「iPhone」が大衆市場に浸透して大成功した米アップルも、常にハイテク製品普及のためのキャズム(溝)を越えられたわけではありません。米国のコンサルタント、ジェフリー・ムーアが新商品のマーケティングを論じた『 キャズム Ver.2 増補改訂版 新商品をブレイクさせる「超」マーケティング理論 』(川又政治訳/翔泳社)を、根来龍之・名古屋商科大学ビジネススクール教授が読み解きます。『 ビジネスの名著を読む〔マネジメント編〕 』(日本経済新聞出版)から抜粋。

消費者側だけではなく供給側にも原因

 ムーアは、ハイテク製品の発売初期から大衆化するまでの市場のギャップであるキャズム(溝)の原因を「顧客特性の違い」と考えました。前者の顧客は製品のイノベーションの可能性を評価するのに対して、後者は実利主義・保守主義が強いとみたのです。

 そこで、ムーアはキャズム越えの方法としてデマンド側、すなわち消費者の特性に対応することを提案しました。まず顧客層を絞り込み、そこに実利性が高い製品を提供して「実利の証明」を目指します。ニッチ市場で評価を高めてから市場全体に展開することを狙います。このように、ムーア理論の特徴は、キャズムの原因も対応策もデマンド視点にあります。

 しかし、キャズムの原因と対応策がサプライ側、つまり供給サイドにあることも多いのではないでしょうか。例えば、製品の性能不足や価格の高さです。米マイクロソフトが2002年に発表した基本ソフト(OS)を基にした「タブレットPC」は重くて高いものでした。米ヒューレット・パッカードの「TC1100」は重さ約1.4キログラムで20万円以上しましたが、10年に発売された米アップルの「iPad」は約0.7キログラムで5万円程度でした。

 もう1つのサプライ側の原因として、補完製品やインフラを含めたエコシステム(生態系)として価値を実現できていない可能性があります。モバイル端末向けの衛星放送「モバHO!」は、魅力ある有料放送を提供できませんでしたし、固定電話に簡易インターネットサービスを提供する「Lモード」は家庭のアナログ回線ではレスポンススピードが遅すぎました。

 エコシステムとは、本体、コンテンツや追加ソフトなど補完製品、インフラを含めて製品を捉える概念です。生物が1種類だけでは生存できないように、製品も補完製品を含めて価値あるシステムになっていないと存在し続けられないのです。

アップルも常に成功したわけではない

 米アップルのスマートフォン「iPhone」は、大衆市場に浸透した成功商品です。しかし、アップルの製品が常に成功してきたわけではありません。例えば、キャズムを越えられなかった同社の製品として、「Newton」があります。

 Newtonは、世界初の個人用携帯情報端末(PDA)として、1993年に発売されました。当時はまだPDAという言葉はなく、アップルはこの商品を「メッセージパッド」と呼んでいました。改良版(96年発売)の手書き文字認識は、今日でも通用するといわれるほどの高い完成度をもっていましたが、97年に発売されたモデル「Message Pad 2100」を最後にNewtonは市場から消えてしまいます。

 Newtonの一般的な用途はスケジュール管理とメモ機能でしたが、オプションのモデムをつなげて公衆電話やPHSに接続して、メールやファクスを送信することもできました。Newtonの最大の特徴は、スタイラス(筆記ペン)を用いた手書き入力システムでした。また、ソフトを追加して使うことができました。

 Newton用のソフトは「アプレット」と呼ばれ、パッケージソフトとして、主にサードパーティ製の電卓、辞書、表計算、ゲームなどのアプレットが数千~1万数千円で販売されました。一方、ユーザーも、「Newton Script」と呼ばれる、当時としては先進的なオブジェクト指向プログラミング言語を用いて、アプレットを開発することができ、フリーウェアあるいはシェアウェアとして提供されました。

 ただし、アップルの提供した開発キットが1000ドル以上したこと、またなかなか本体の販売数が伸びなかったことから、その数には限界がありました(補完製品と本体の数は、片方の数がないと、もう片方が増えないという、いわゆる「チキン-エッグ関係」にあります。ムーア理論の文脈では、この解決の糸口はニッチ市場で実利ある完全な製品を提供することにありますが、その解決がNewtonではなされませんでした)。

 結局、Newtonの主な用途はスケジュール管理とメモの記録だったのですが、価格が高く、通信に手間がかかる割には、付加価値が足りなかったと言えます。アーリーアダプター(初期採用者)はこの製品に夢を感じましたが、アーリーマジョリティ(初期多数派)が実利を感じる製品ではなかったのです。

アップルのNewtonは市場から消えてしまった(写真/Shutterstock)
アップルのNewtonは市場から消えてしまった(写真/Shutterstock)
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「Newton」と「iPhone」の意外な共通点

 サプライ側から見るならば、Newtonが成功しなかった理由は、まず技術的未成熟による機能不足と価格の問題だったと言えます。具体的には、価格が高い、大きさが中途半端、処理速度が遅い、パソコンとのデータ同期機能がなかったなどが挙げられます。

 本体価格は約1000ドル(初回モデル)でした。アプレットをインストールするとメモリーが不足するためオプションの外部メモリーカードを数万円で購入しないと実際にはソフトを追加利用できませんでした。オプションのモデムは、2万~3万円しました。

 大きさはポケットに入るものではなく、小さめのノートパソコンと呼んだほうがよいものでした。しかし、興味深いことに、Newtonには、その後大成功を収めるiPhoneと多くの共通点があります。両者とも手書き入力を採用し、「サードパーティ」と呼ばれる外部企業や、ユーザーが作成したソフトを追加可能です。ハード的にも、両者とも、現在スマートフォンの標準となっているARMプロセッサーとタッチパネルを使っています。

 一方、iPhoneとの比較で、Newtonが大きく見劣りするのは、動画や音楽、ウェブコンテンツの利用ができなかったことです。また、Newtonは、無線通信モジュールを標準搭載しておらず、通信することを必ずしも前提と考えないモバイル端末でした。

(出所)『ビジネスの名著を読む〔マネジメント編〕』(日本経済新聞出版)
(出所)『ビジネスの名著を読む〔マネジメント編〕』(日本経済新聞出版)
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 確かに、Newtonが販売されていた1993〜98年は、iPhoneが発売された2007年時点に比べて、プロセッサーや電子部品の能力が低かったこと、部品コストがまだまだ高かったことを考えると、動画、音楽、ウェブコンテンツをiPhoneのように利用するのは技術的にもコスト的にも困難だったといえるでしょう。

 しかし、単純に機器性能不足とコストに問題が集約されるとは言い切れないところがあります。例えば、99年に日本に登場した「iモード」携帯電話は、ハードの性能不足の制約を突破し、低機能端末でウェブコンテンツを利用できるようになっていました。また、97年にはアステル東京(PHS)が着メロダウンロードサービスを開始しました。

 これらのサービスは日本で最初に生まれ、大成功を収めます。メーンストリーム市場に「実利」ある市場を見出して、そのニーズに応える製品・サービスを開発できる可能性はゼロではなかった可能性があります。

成否を決めるファクターとは

 Newtonは、結果論ではありますが、iモード携帯と同様の製品コンセプトで、無線通信を使って外出先でコンテンツを利用できる付加価値を提供する方向へも進化できたはずなのです。確かに、上述したように、普及しなかった理由として、技術的未成熟による機能不足と価格の高さを挙げることができます。しかし、仮にこれらの欠点が解決され、価格・大きさ・処理速度がiPhone並みになり、パソコンとデータが同期できれば大衆層に普及できたかどうかは、疑問もあります。

 その証拠に、Newton後に、PDA製品として日本ではシャープの「ザウルス」、米国ではパーム社の「パーム」という中価格、小サイズ、快適な処理速度、データ同期可能な製品が登場し、ある程度普及します。しかし、PDAという製品ジャンル自身が結局大衆市場に浸透できずに市場から消えてしまいました。コンテンツや通信という関係製品・サービスを前提にしていないこと自体に製品価値上問題があったとも考えられるのです。

 iPhone(およびiモード携帯電話)と比較すると、コンテンツを利用できない限り、アーリーマジョリティにとって結局は「高いシステム手帳」にすぎなかったことが、PDAが大衆市場に浸透できなかった理由だったとはいえないでしょうか。

 このことは、NewtonとiPhoneの間に存在するアップルの携帯音楽プレーヤー「iPod」の成功理由を考えると理解できます。iPodは、タッチパネルではなくソフトも追加できませんでしたが、音楽コンテンツをパソコン経由でダウンロードして大量に持ち運ぶことができる機械として大衆層に普及しました。

「エコシステム」としての完成度

 iPodとiPhoneの成功は、コンテンツという補完製品と通信インフラの利用(ダウンロードやウェブ閲覧など)を含めたエコシステムとしての完成度にあると考えられます。補完製品とは、(プラットフォーム製品と呼ばれる)本体に加えることによって製品価値を実現する、あるいは製品価値を高めてくれる周辺製品・サービスのことです。

 Newtonにも、パッケージソフト、シェアウェア、フリーウェアという補完製品はありましたが、その数と種類は限定されていました。それに対して、例えばiPhoneのアプリ(応用ソフト)は、2012年11月時点で累積100万以上あったといわれています。

 Newtonがキャズムを越えられなかった理由は、単純に機器の性能不足・価格の高さにあるのではなく、エコシステムとしての価値作りに失敗していた点もあると考えられるのです。

 翻って考えると、00年代半ばの日本において電子書籍がキャズムを越えられなかった(連載第2回「 『キャズム』 日本企業の電子書籍はなぜ挫折したのか 」参照)大きな理由は、電子書籍ハードの性能というよりも、補完製品としてのコンテンツが満足に供給されなかったことでした。また現在、電気自動車の普及が進まない理由の1つとして、インフラである充電スタンドの未整備が挙げられています。これらは、まさに製品本体の問題ではなく、サプライ側の問題として、エコシステムとしての完成度の低さがキャズムを越えられない大きな理由と考えられるのです。

『キャズム』の名言
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