前日銀総裁の黒田東彦氏が2023年11月1日付の日経新聞「私の履歴書」で「私の知的原点」として挙げたカール・ポパー著『 歴史主義の貧困 』。本書は日経BPクラシックスに収録されており、黒田氏が2013年の日銀総裁就任直前に解説を執筆しています。ここに全文を公開します。

【解説】いま、ポパーを読む意味とは何か

黒田東彦

 カール・ライムント・ポパーは、一九〇二年にオーストリアのウィーンでユダヤ人の家庭に生まれ、ナチス政権の成立とともにニュージーランドに逃れたのち、戦後は英国のロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの教授を長く務め、一九九四年に英国で亡くなった哲学者である。広く、科学哲学、社会哲学、政治哲学の分野で活躍し、とくに、英米の分析的な哲学に大きな影響を与えた。戦前・戦中には、ファシズムなどの社会哲学に対する鋭い批判により、また、戦後の冷戦期には、マルクス主義哲学に対する本源的な批判により、一般社会にもインパクトがあったと思われる。

 しかしながら、近年、ポパーの書が読まれることは少なくなり、その影響力は大きく低下したように見える。その最大の理由は、一九九一年にソ連が崩壊し、主要な論敵だったマルクス主義哲学がほとんど壊滅してしまったことにある。本書「歴史主義の貧困」も、ファシズムやマルクス主義の社会哲学を批判するものとして戦前・戦中に構想され、一九五七年に英語版が出版されて評判になったものであるが、今や英米でも読まれることは少ないようである。だが、本書は今でも大いに読む価値があると思われる。

ポパーの科学哲学=「反証主義」

 ポパーの最大の貢献は科学哲学における「反証主義」の提唱であり、それが哲学史に残ることは間違いないが、実は、彼の「反証主義」自体がマルクス主義哲学などに対する批判から生まれたことを見逃すわけにはいかない。すなわち、両大戦間の混乱期に、ウィーンでは、マルクス主義者たちが毎日のように起こる事件をすべてマルクス理論の正しさを立証するものと主張していたが、これに違和感を覚えたポパーは、そのころ有力だった理論の「検証主義」を疑うようになったのである。どんな事態が起こっても検証されるような理論は、現実には何も説明しておらず、科学的理論でないのではないか、というのが彼の疑念だった。

 同じような目で、当時ウィーンで流行していたフロイトの精神分析やアードラーの個性心理学を吟味したポパーは、これらも科学的理論ではないと断定した(ポパーがアードラーに彼の理論では到底説明できないようなケースを示したところ、アードラーは巧みに説明したという)。ただ、フロイトやアードラーの理論がほとんど反証不能なのに対し、マルクスの理論は反証可能な言明を含んでおり、実際にも反証された(たとえば、もっとも発達した資本主義国に共産主義革命が起こるという予言は外れ、最も遅れた資本主義国のロシアで革命が起こった)のだが、後世のマルクス主義者たちが理論を捻じ曲げて反証不能にしてしまったとしている。

 なお、ポパーの「反証主義」は、マルクスやアードラーなどの理論に対する批判から生まれたとしても、それ自体かなり明確な論理的根拠を有していた。科学的理論は一定の条件を充たせば必ず特定の結果が生じるという全称命題の形をとるが、これは、一定の条件を充たしたにもかかわらず特定の結果が生じなかった例(反証例)が一例でもあれば否定される一方、その通りの結果が生じた例がいくらあったとしても(可能な例は無限にある以上)検証したことにならないことを意味する。すなわち、科学においては、反証例をあげることによって誤った理論を次々に排除し、次第に真理に近づいていくことができるとしても、いつまでたっても真理に至ったと確証することはできない。それどころか、真理らしいということもできないのである。

 このようなポパーの「反証主義」は、当時有力だった科学理論の「検証主義」を完全に否定し、ヒューム以来の帰納法に対する批判を極限にまで推し進めたものといえよう。確率論におけるペイズ主義者は反対するだろうが、いかに理論の検証例が積み重なって主観的には確からしいと思われたとしても、客観的に真理らしいということはできないのである。このことは、たとえば、一七世紀以来、三世紀にわたって検証されてきたニュートン物理学が、二〇世紀初頭、光速度一定や量子の発見によって否定されたことからも明らかだろう。

 こうしたポパーの主張は、彼の主著『科学的発見の論理』(ドイツ語の原著は一九三四年に出版、英語版は一九五九年に出版)ですでに明確に示されているが、そこでは、

 (一)科学的理論は、帰納法に基づいているわけではなく、反証されたものが排除されていくだけであり、反証されるまで暫定的に受け入れられているに過ぎない、

 (二)理論は、どれほど多くの例で検証されたとしても、客観的に真理らしさを高めることはない、

 (三)およそ反証されえないような理論は科学的理論ではない、

 (四)反証された理論をアドホックに修正して反証され難くすることは、科学的理論としての価値を低下させる、

 (五)前提条件が少なく、反証されやすい理論(単純な理論)ほど、科学的理論としての価値が高い、

 などとされている。

 戦後、多くの科学哲学者との激しい論争の中でも、ポバーはこうした基本的主張を変えることはなかった。

「歴史主義の貧困」の主要論点とその意義

 本書「歴史主義の貧困」は、このようなポパーの科学哲学を踏まえて読むと、いっそう興味をそそられるだろう。

 たとえば、ポパーは、本書において繰り返し、歴史主義者が唱える「歴史法則」、「社会進化の法則」、「歴史的発展の理論」などが科学的理論でないことを指摘しているが、これは、彼の「反証主義」から自然に導かれる結論でもある。歴史の記述は、様々な科学的理論(全称命題)を前提にしているが、それ自体は事実の記述(特称命題ないし単称命題)であって、(検証可能だとしても)反証不能であり、科学的理論ではない。また、歴史の記述から何らかのトレンドが見とれたとしても、それは単なる記述であり、持続する根拠もないし、科学的理論ではないのである。

 歴史的トレンドを科学的理論にしようとすれば、一定の条件が充たされたときは必ず特定の結果が生ずるという反証可能な全称命題にしなければならない。そのことは、もはや無条件のトレンド(「絶対的トレンド」)ではなく、条件が充たされれば特定の結果が生ずると予測しているにすぎないことを意味する。不可避的な「進化の法則」や「発展の法則」は存在しないのであり、それを主張するのは、科学的な条件付き予測ではなく、無条件の予言に陥っているのである。

 このことをポパーは論理的に解明している。ある事実が特定の事実を引き起こしたと歴史で記述することは、ある事実Aおよび補助的事実A’やA”を指摘(特称命題ないし単称命題)し、そうした事実があれば特定の事実Bが生ずるという法則(全称命題)を利用して特定の事実Bの発生を説明(特称命題ないし単称命題)することである。さらに、ある事実Bおよび補助的事実B’があれば特定の事実Cが生ずるという法則を利用して特定の事実Cを説明することもできるだろう。しかし、このことは、A-B-Cという「継起の法則」の存在を証明するものではない。

 なお、本書が批判の対象にしている「歴史主義者(ヒストリシスト)」として、ポパーは、マルクスやファシストたちだけでなく、後の「開かれた社会とその敵」(一九四五年に出版)で批判した、ヘラクレイトス、プラトン、アリストテレス、ヘーゲル、エンゲルスなどに加え、コント、スペンサー、ミル、ベルグソン、マンハイム、シュミット、ノイラート、ハックスリー、トインビー、ホワイトヘッドらも含めている。これらの論者たちの政治的傾向は、必ずしも、すべてが社会主義的でも専制主義的でもないし、自由主義や民主主義を志向する学者もいる。

 要するに、ポパーは、歴史主義の自然主義的な主張者も反自然主義的な主張者も含め、すべての歴史主義者が共通して抱いている「歴史法則」に対する盲目的な信頼を徹底的に論難しているのである。本書では、歴史主義者の陥っている誤りとして、全体論、直観主義、本質主義、計画論、ユートピア主義的工学、歴史科学など多くの誤謬が挙げられているが、これらも「歴史法則」の盲信という一点に批判を集約するための前提といえよう。本書の冒頭に、「歴史的運命の不変の法則というファシズム的、共産主義的信念の犠牲となったあらゆる信条の、あらゆる国の、あらゆる民族の無数の男たち、女たち、子どもたちを偲んで」という言葉が掲げられているゆえんである。

おわりに

 なお、本書の序言において、ポパーは、以下のような歴史主義の誤りの別証明ともいうべきものを示している。

 (一)人間の歴史の道筋は知識の成長に大きく影響される、

 (二)合理的または科学的方法により、人間の知識が将来どのように成長するかを予測することはできない、

 (三)したがって、人間の歴史の将来の道筋を予測することはできない、

 (四)このことは、理論物理学に対応するような理論歴史学が成立不可能であることを意味する、

 (五)それゆえ、「歴史的発展の理論」を構想する歴史主義は破綻する。

 さらに、上記(二)に関し、成長する人間の知識というようなものがあるとすれば、明日にならなければわからないことを、今日予知することはできないと述べている。

 これが歴史主義の誤謬の証明になっているかどうかについては、いろいろな議論があろうが、「予言やぶり」が可能な以上、一般的に自己予測が不可能なことには分析哲学者の多くが同意するだろうから、その延長線上で人類が人類自身の将来を予測できないという論証を受け入れる人がいるかもしれない。この点は読者の検討に任せることとしたい。

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