大手メーカー系列の中堅システムインテグレーターでSE(システムエンジニア)として働く後藤智彦34歳。彼は12年働いた会社をやめようと決心していた。退職願を懐に入れて上司のもとへ向かった後藤を待ち受けていたのは……。キャリアや未来に悩む若手ビジネスパーソン必読の物語、開幕です。(この物語はフィクションです)
ぼく、後藤智彦34歳はその日、退職願を出すと決めた。
12年間勤めた会社をやめるのだ。
自分の未来のために……。
ぼくがこの会社、大手メーカーの子会社でもある準大手システムインテグレーターのXTシステムズに入社したのは、ガラケーからスマートフォンへの転換期。アップルが時価総額で世界トップに君臨し、マイクロソフトやグーグルも上位に名を連ねた。情報系の学部ではなかったが、理系出身のぼくは、華やかなIT業界に魅了された。大学の授業でプログラムの基礎を習い、自分でも簡単なプログラムを作って、それが動くということに面白さを感じた。
「智彦は、細かい作業が得意ねえ」
子供の頃から父の日曜大工を手伝ったりすると、母が褒めてくれた。プログラムは1文字でも間違えると動かないため、根気がいる作業だ。しかし、自分には丁寧に取り組む力があると感じ、プログラムを作る作業も苦にはならなかった。大学を卒業したら、システムを作って誰かの役に立ちたい、ならばシステムエンジニア、つまりSEになろう。そう思うようになっていた。

「あなたには向いていると思うよ」
学生時代から付き合っていた妻の美香も、そう言ってくれた。
若手社員の頃は、今思うとちょっと恥ずかしいくらい熱っぽく、たくさん話をした。
「今日は、先輩がぼくのコーディングの速さを褒めてくれた」
「顧客のトラブルを1人で直せたんだ」
「プロジェクトのチームリーダーに抜てきしてくれた。メンバーは3人だけどね」
「いずれは会社のナンバーワンSEになる。そして子供ができたら、自慢のパパになる」
そう話すぼくを、美香は、ニコニコに見守っていてくれた。
しかし、入社から12年がたち、その熱意は消え去りかけていた。自分がしたいことから遠ざかり、ただ目の前の仕事に翻弄され、忙殺されるばかり。しかも会社からの評価はいっこうに上がらない。主任に昇進したのは同期でも最後の方。後輩にも追い抜かれる始末だ。
「後輩が係長に昇進するんだ。追い抜かれてばっかり」
「ボーナス、今年はちょっと少ない。ごめんね」
「こんなんじゃ、自慢のパパになれる気がしない。どうしたらいいんだろう」
愚痴をこぼす自分に、妻は「給料なんて私は気にならない」「あなたはがんばってるわ」「今のままで十分だよ」と、優しく支えてくれた。しかしぼくの自己肯定感は下がる一方だった。
──誰からも評価されない仕事に意味はあるのだろうか?
──SEの仕事に、未来はあるのだろうか?
──ぼくは、本当は何がしたかったんだっけ?
──ぼくはSEに向いていないんじゃないか?
そんな疑問が頭をよぎり、日々の生活がモノトーンに染まっていく。
そして……。ついに今日、退職願を出すことを決意した。退職願は少し前に準備して、机の引き出しに入れてある。夕方、退社する時に服部課長に出せば、それで終わり。有給休暇を取ったり、残務を整理したりして、2カ月後にはこの会社を去る。そう考えるとすっと気が楽になった。
「これで自由になれるんだ。新たな道を切り開くんだ」
自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
会社をやめたいと考えるようになった理由は大きく2つある。
1つ目は、大学時代の親友が転職して成功したこと。とてもうらやましく、焦る気持ちと、背中を押された気がした。もう1つは最近の人工知能(AI)の急速な進歩。この場所にとどまっていいのかと不安になった。
「AIってそんなにすごいの?」
半年ほど前のある日の夕食時に、妻の美香が尋ねてきた。
「なにエーアイって。すごいの?」
3歳になる娘の渚(なぎさ)は、本当に無邪気でかわいい。
渚ににっこり笑いかけながら、「どうして急にAIの話?」と妻に尋ね返した。
「うちの会社でも社長が、AIを一刻も早く導入しろって急に言い出して、社内がざわざわしてるの。それで会社でコンピューターに詳しい子に聞いたら、シンギュラリティーって言葉を説明してくれてね。AIが人間を超える日がもうすぐくるって言うからちょっと不安になったの」
妻は時短勤務ながら仕事をしている。シンギュラリティーとは技術的特異点という意味で、AIが人間を超える点という意味だ。一説には、2045年に起こるとも言われている。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。AIって言っても、現状はまだ拡張知能(オーグメンテッド・インテリジェンス)のレベル。人間の脳のように自ら考えることができる知能ではなく、人間の脳を拡張させるというか、分析能力を高めてくれる程度の知能でしかない」
「そうなの?だって、将棋や囲碁だと人間はAIに勝てないわよね。そのうち、東大にも受かるんじゃない?」
「たしかに、AIは覚えさせれば覚えさせるだけ賢くなる。だから、東大の入試のパターンを莫大にインプットさせれば、受かるかもしれない。ただ、」
「ただ、なに?」
「あくまでも、人間が思考回路の基になるアイデアをコンピューターにインプットして作られているんだ。だから人間とはレベルが違う」
「うーん、よくわからないわ」
「東大に受かるために、膨大なデータを効率よく整理して答えを出すのはできるようになっているけど、人間のような斬新な発想をAIが出すことはできない。そこが人間の脳のような本当の知能と、AIの差。あくまでもデータを整理して処理するだけ」
「AIが勝手に考えるのではなく、人間の指示通りにAIが整理するってこと?」
「そう。だからAIといっても、非常に優秀なコンピューターに過ぎないと思っている」
「安心したわ。渚が大人になって、AIのせいで仕事がなくなってしまっていたら、とてもさみしいよね」
「そんな日は来るわけないさ」
そんな会話をしていたのがつい、昨年の話。しかし、今やチャットで話しかければ、対話型の生成AIが様々なデータを生成してくれる。資料や画像だけではない。プログラムの仕様を伝えると、勝手に書いてくれる。絵や小説、漫画まで創作し、賞まで獲得する。シンギュラリティーは20年後どころか、あと5年で来てしまうのではないか。
また、AIによって、ホワイトカラーの仕事の半分以上はなくなると言われる。ホワイトカラーと言えば、事務職やITの技術職がその代表である。つまりSEの仕事だ。
そして、今のぼくの会社は、相も変わらず顧客の要件や仕様書に基づいてシステムを開発する受託開発が中心。それもほとんどがまだオンプレミス、つまりサーバーを自前で設置するシステムだ。受託開発に重きを置くのは日本特有の文化で、世界の流れから大きく逸脱している。それに、オンプレミスではなく、もっとクラウドサービスを利用すべきだろう。こんな時代遅れの会社が、AIを含めた最新技術をすぐに取り入れるなんてことは、まずないだろう。社長は親会社からやってきたアナログ世代の人間だ。
AIがさらに発展すると、要件さえ定義すれば自動的にプログラムを書いてアプリケーションを作り上げ、クラウド上でシステム構築までしてくれるはずだ。今のように、設計書を書いて、プログラムを作ってテストしてという仕事ではなく、AIを活用して新しい時代に合った仕事のやり方をしなければならない。人間は将棋でAIに勝てないのと同様に、プログラムを書いてもAIには勝てない。この会社にいたって、ぼくに未来はない。
「パパ、渚と一緒にカレー作ってね」
退職願をいつ出そうか、心が揺れ動いていた昨晩、渚が無邪気に話しかけてきた。
「こら渚、パパは忙しいんだよ」
妻の美香がたしなめる。彼女はぼくが退職願を出そうとしているのを当然知っている。気を使ってくれたのだ。
「知ってるよ、パパはチョーかっこいい仕事してるもんね」
「うん、まあ、そうかな」
「お友達の心陽(こはる)ちゃんに、パパの自慢したんだ。パパはスマートフォン作ったんだって」
娘の前でかっこつけようと、以前に適当な噓をついた気がする。
「そしたら、心陽ちゃんは、自分のパパのほうがかっこいいって言うんだ。だって、心陽ちゃんのパパは一緒にカレーを作ってくれたんだって。だから渚も、パパとカレーを作りたいの」
「渚が初めてカレーを作るのか。そりゃ楽しみだ。でも、お仕事があるから、日曜日まで待ってくれないかな」
「やだやだ。今日作りたい」
「今日はもう寝る時間だよ。じゃあ、明日ね」
明日はプレミアムフライデー。みんな忘れているが、我が社もノー残業が推奨されている。それに退職願を出したあと、課長に理由を聞かれて無駄な時間を過ごす可能性がある。家庭の用事を入れてサクッと帰ったほうが気持ちも晴れやかだ。そうだ、それがいい。渚がぼくの背中を押してくれた気がした。
「パパ、約束だよ」
渚がつぶらな瞳でぼくをじっと見る。
「うん、わかった」
次の日の夕方。
「課長、ちょっとお話が……」
深呼吸をしてから服部課長の席に向かったが、退職願を懐に忍ばせたぼくの声はわずかに震えていた。
「ああ、後藤くん、ちょうどよかった。君も担当しているニューホームさんでシステムが止まるという大トラブルだ。場所はわかるね? 今すぐ向かってほしい」
待っていたのは、課長の早口の指示だった。
「トラブルですよね。あの案件は新庄じゃないと……」
「わかってる。新庄はアメリカ出張中でどうにもならん。誰かが行くしかない」
誰かって……、なんでぼくなんだ。
「大丈夫、五十嵐さんに応援に入ってもらう。ニューホームさんのビルで落ち合ってくれ」
「五十嵐さん?」
「うちのOBでな。できる人だ。ニューホームさんのシステムにも関わってたから中身も理解しているはずだ」
「ちょっと待ってください。ぼく、今日は用事があって」
「君しかいないんだ。書庫から設計書を取り出して、すぐ向かってくれ」
上司からの強引な命令。
しかし、それが出会いだった。
ぼくのエンジニア人生における、あるべき姿を示してくれた男、五十嵐優一との。
(つづく)
[日経クロステック 2023年7月12日付の記事を転載]
