大手メーカー系列の中堅システムインテグレーターでSEとして働く後藤智彦。しかし彼は12年働いた会社をやめようと決心していた。退職願を懐に入れて上司のもとへ向かった後藤を待ち受けていたのは、担当企業のシステムが大トラブルに見舞われたという連絡だった。後藤は上司の命で緊急対応に向かう。そこで出会ったのは……。(この物語はフィクションです)
「後藤、泊まりの準備はしてきたか?」
エレベーターを待ちながら、五十嵐さんはそうぼくに尋ねた。身長180センチくらいの五十嵐さんは、そのワイルドな風貌も相まって隣に立つと圧がある。年齢は40代半ばくらいだろうか。初めて一緒に仕事をする相手であり、詳しいことはわからない。
しかし、今日は一緒にカレーを作ろうと娘の渚と約束している。退職願は出し損ねたが、仕事はさっさと片付けてなにがなんでも帰りたい。ぼくは五十嵐さんにそのことを伝えることにした。
「今日は、急いでトラブルを解決するか、暫定対処だけをして家に帰りたいと思っています」
「そりゃ、残念だ。今日はサーバー室に泊まることになりそうだな」
五十嵐さんはエレベーターの方を向いたまま、平然と答えた。
「……冗談でしょ。サーバー室って、めちゃくちゃ寒いのは知っていますよね」
そう言えなかったぼくは、ずれた眼鏡を指で押し上げ、勘弁してください、という表情を浮かべた。SEは、徹夜作業になることもある。緊急事態であれば徹夜という選択肢もやむを得ないが、極寒のサーバー室は、寝るところではない。はっきり言って、無理がある。
五十嵐さんがぼくに聞いてきた。
「トラブル時にやるべきことってなんだかわかるか?」
「できるだけ早く直すこととか、誠意ある対応、ですかね」
「じゃあ。3つのNGってわかるか?」
「やっちゃいけないこと? うーん……」
「教えてやろう」
五十嵐さんは上から目線で言ってきた。
「言い訳をすること、ご飯を食べること、家に帰ること。この3つだ」
言い訳はたしかによくないけど、ご飯を食べるとか、家に帰るとかって、トラブル対応に全く関係ないんじゃないか。五十嵐さんはできる人だって課長は言っていたけど、もしかして「変な人」なんだろうか。
「いいか後藤、だから、トラブル時にサーバー室で寝るのは鉄則だ」
この人は何を言っているんだ。話が飛躍しているし、論理性もない。
そんなわけのわからない鉄則は勘弁してほしい。あと、会社の先輩とはいえ、初対面のぼくに、もう呼び捨てだ。
ぼくはこっそり妻の美香にLINEを送った。
『帰りが遅くなるかも。ごめん』
『それと、今日仕事のペアの五十嵐さんって人、ハズレっぽい』
妻の既読は、まだつかない。そのことに安心した。渚が残念がっているなんて話は聞きたくない。
「五十嵐さん、泊まる前提ではなく、トラブルを早く解決することを目標にしましょう。まだ18時前です。それか、暫定対処だけして、早めに帰りましょう」
五十嵐さんは、「ふふっ」と笑い、開いたエレベーターに乗り込んだ。
「トラブルはすぐに解決するのが一番だな。だが、状況を簡単に聞いた限りだと、今回のトラブルはサイバー攻撃の可能性もあり、そう簡単には解決しそうにない。そんなときは、サーバー室で寝ることが、仕事の8割だと思え」
最悪だ……。ぼくは心から、そう思った。そんなものが仕事の8割であってたまるもんか。やっぱり、五十嵐さんはハズレだ。
「徹夜したって得することありません。仕事は段取りよくやりましょう。そして、とりあえず今日は帰りましょう」
そう言いたかった。しかし、初対面の先輩である五十嵐さんに、そんなことを言えるはずもなく、言葉をのみ込んだ。
長時間働くことを好む人にはよく出会う。口では「早く帰りたい」と言いつつ、いつも会社にいる人たちだ。服部課長はまさにそのタイプで、いつも遅くまで会社に残っている。先日も、夜遅く窓ガラスに映った課長のディスプレーには、トランプゲームが映っていた。本当に仕事をしているのか疑問に思う(っていうか、トランプゲームをしている時点で、仕事はしていない)。
課長の口癖は「忙しい」である。だが、実際には遅くまで会社に残って、自分が働いているように見せかけているだけだろう。五十嵐さんも、服部課長と同じタイプの人間なのかも……。
トラブルが発生したのは「ニューホームイノベーション」。中古住宅のネット取引を手がけ、急成長している会社だ。ぼくも以前からこの顧客の担当メンバーの1人だったが、対応が難しい人たちだった。ぼくがトイレを借りたと発覚した時に、「トイレはお前たちのためのものではない。掃除していけ」と叱られたこともある。その時は、言われた通りスーパーでトイレ掃除用品を買って掃除をした。しかも、2年ほど前に責任者が佐原重利部長に交代してから要求が一層厳しくなった。社内ではこの顧客との取引をやめるべきだという話もあったが、毎年3億円を超える売り上げはむげにはできない。会社は、ぼくの後輩で優秀な新庄隆志をメイン担当者に据えた。
後輩ながら新庄は本当に優秀だった。ぼくもプロジェクトのメンバーとして参画していたが、新庄はベンダーを自ら選定し、自ら指揮し、プロジェクトを次々に成功させていった。新庄はいつも「後藤さんはゆっくりしててください」と言って、何から何まですべてやってくれた。感覚的には、新庄と彼のお抱えベンダーが99%の仕事をやっている状況だった。ぼくを含む他のメンバーが、佐原部長との仕事に積極的には関わりたくなかったのもある。次第にぼくの関与は減っていき、現状、我が社でこの顧客のシステム全体に深く精通しているのは新庄だけ。みんなが「新庄システム」と呼ぶ状況になった。
しかし、頼みの綱の新庄はアメリカのセキュリティーコンテストに出場していて不在。新庄がいないのは本当に痛い。責任者の服部課長は後から現場に向かうと言っていたが、「すぐに駆け付けるから」という言葉が怪しかった。そば屋の出前じゃあるまいし、きっと、来る気はないだろう。しかも、応援に来てくれたはずの先輩SEは、徹夜する気満々だ。
とても切ない気持ちになったその時、妻からLINEの返事が来た。
『わかった。がんばって』
その言葉に、若干の無念さが漂っている気がするのは、ぼくの気のせいだろうか?
『五十嵐さんって人、本当はいい人だといいね』
それはその通りだ。1つ確かなことは、五十嵐さんとここでケンカしても得はしない。きちんとコミュニケーションを取って、トラブルを解決しなければいけない。そうすれば、もしかしたら早く帰れるかもしれない。もしかしたら、だけれど。
エレベーターの到着を待つぼくは、五十嵐さんに話しかけた。コミュニケーションも仕事のうちだ。
「この会社、急激に伸びていますけど、悪い噂が多いんですよ」
「どんな噂?」
「社長のパワハラです。会社辞める人が続出って」
「本当か?」
「担当企業だからネットで調べたりするじゃないですか。『企業の業績』とか、『社員の年収』とか。あと、『会社の評判』も調べたら、社内の人間が書き込んだと思しき悪評が大量にありました。それも社長の悪口ばっかり……」
「あ、そう」
五十嵐さんは、そういう噂にはあまり興味がなさそうだ。ぼくはスマホでその悪評を検索した。
「これ、見てくださいよ。この会社の社長秘書だった山田光菜、みつなさんって読むのかな。亡くなったそうなんです。ネットではもっぱら社長のせいで自殺したって。正直、今から胃が痛いです」
「どれどれ」と言って五十嵐さんがスマホを見た。
「山田光菜さんって、本名までネットに出ているんだな」
その時、妻からの着信が入った。それと同時にエレベーターのドアが開き、五十嵐さんと中に入った。これ以降は顧客先で電話に出られない。今しかないと思って、電話を取った。
「もしもし」と小声で話しながら27階のボタンを押した。電話の向こうは娘の渚だった。
『ぱぱ。きょう、おうちかえれないってほんと?』
「ごめんね……約束したのに」
『ぱぱ、いつもいそがしいね』
渚の素直な言葉が、胸を締め付けた。
「ごめんね。渚、本当にごめん」
『こら。渚。パパを困らせないの』という妻の声が聞こえてきた。
『こっちは大丈夫だから。がんばってきて』
そんな言葉が聞こえてきて、電話が切れた。渚の『えー、かれー、作れないの?』という声が遠くで聞こえた気がする。
申し訳ない、そんな気持ちで心が真っ黒に染まった。
エレベーターが止まり、扉が開いた。きっと佐原部長はカンカンなんだろうな。「はぁ」と、思わず大きなため息が出た。
……ぼく、なんでSEになんかなったんだろう。
18時5分。ぼくの気持ちは、すでに最悪だった。
(つづく)
[日経クロステック 2023年7月13日付の記事を転載]

