12年働いた中堅システムインテグレーターをやめようと決心していたSEの後藤智彦。担当企業の緊急トラブル対応に出かけた彼はそこで、かつて後藤と同じ会社で働いていたすご腕の先輩SE五十嵐優一と出会う。五十嵐はなぜこの会社を去ったのか……。(この物語はフィクションです)

イラスト:冬乃郁也
イラスト:冬乃郁也
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「後藤の会社、最近は残業する社員がめっきり少なくなったんじゃないか。オレたちはトラブル対応だから仕事しているけど、みんなは今ごろ、楽しくお酒でも飲んでるだろ。もう飲み終わって家で休んでいるかもしれない。そんな時間からビールを飲める人生って、恵まれてるんじゃないか?」

「たしかに、昔とは変わったと思います。ぼくたちSEの仕事もずいぶんホワイトにはなりました」

 五十嵐さんはため息をついて、「オレが若い時はひどかったな」と、過去をふり返るような遠い目をした。

「特に、システムの納品前数カ月は、終電時間イコール定時。ありゃ、おかしかった」

「ぼくが新入社員の時はまだその文化でした。残業代なんて、ほとんどもらえません。残業代の話をしたら『奉仕の心をもって取り組め』って。風邪をひいて『早く帰らせてください』と言ったら、上司から犯罪者みたいな目で見られましたね」

 もう、苦笑いするしかない。

 五十嵐さんは「それと比べて」と言う。

「今はどの会社もサービス残業が少なくなったし、ほどよい時間で家に帰れる。しかも、在宅勤務やフレックスだって導入されてるだろ? いい時代じゃないか」

 五十嵐さんはコーヒーを口にし、口元をハンカチでぬぐう。ぼくも、コーヒーをグビグビッと飲む。コーヒーの苦さが、自分の人生のほろ苦さに通じているようで、身に染みた。

「ニューホームは成長企業だけど、後藤の話だとかなりブラックなんだろ? オレもスマホで調べてみたけど、たしかに社長のパワハラ話はあっちこっちに書かれてる。春村さん、それ本当なの?」

イラスト:冬乃郁也
イラスト:冬乃郁也

「ええ……まぁ本当です。例えば、社長秘書の女性がいました」

 おそらくぼくがネットで見た人の話だ。そう思いながら、春村さんの話をじっと聞いた。

「一時期、会社の売り上げが急拡大するとともに、顧客とのトラブルが多発しました。中古物件を扱いますから、物件の状態や契約条件などについて、購入した顧客からのクレームを受けたのです。場合によっては裁判になったこともあります。クレームの矛先は社長にも向いたのですが、社長はすべての対応を秘書に押し付けました。真面目な彼女は毎日遅くまで仕事で残されました。裁判で負けた時には、何時間もみんなの前で罵倒されたそうです。それを人事部や総務部に訴えても、社長の権限が強くて変わらなくて。結局、会社もやめ、体も心も崩して……」

 春村さんの目が潤んでいた。

 出入り業者に過ぎない春村さんが、なんでこんなに詳しいのか、そして目が潤んでいるのかはわからない。しかし、そんなことより、この会社の社長はあまりにひどい。

 春村さんの話を聞いて、しばらく沈黙が続いた。正確には、誰も何も言えなかった。

 そんな重い空気の中、口を開いたのは五十嵐さんだった。

「そう考えると、後藤の会社は恵まれている。給料だって、サラリーマンの平均年収以上はもらっているはずだ」

「一応、それなりにちゃんと働いていますから」

「そう思う。今日のトラブル対応でも、自分ができることを見つけて、よくやっているじゃないか」

「今日のぼくは役立たずですが、普段はもっと活躍しています。五十嵐さんにもお見せしたいです」

「服部課長に聞いたぞ。後藤は真面目だし、しっかり働くって」

 五十嵐さんや服部課長がぼくを認めてくれている。

 とてもうれしい。でも……

「だからこそなんです」

 ぼくは体を起こして、五十嵐さんの手を覆いかぶさるように握った。

「プログラムを書くのもサーバーを構築するのも、高度な技術が必要です。誰にでもできる仕事じゃありません。もっと給料が高くてもいいはずです」

 五十嵐さんは、ポリポリと頭をかいた。

「それはぜいたくな要求だ。そんな理由で会社をやめなくてもいいんじゃないか?」

「五十嵐さんは会社をやめているじゃないですか」

「オレはさ、いい年齢だったからさ。後藤はまだ若い。焦って会社を飛び出すのは危険だと思う」

 五十嵐さんは、ぼくとはやめることに対する考え方も違うようだ。

「SEの35歳定年説ってあるじゃないですか。どうせ転職するなら、早いほうがいいと思いました。ぼく、今、34歳なんです。今後の身の振り方を考えないといけません」

「35歳定年説か。IT業界は進化のスピードが速いのと、徹夜でプログラミングするなどの体力が必要だからという理由で、SEは35歳までというのが昔の定説だった。でも、今はそんな時代じゃないよ」

「本当にそうなんですか?」

 けげんな顔で聞くと、五十嵐さんはもっともらしくうなずく。

「今は40歳を超えてからの転職なんてざらだ。理由の1つは、ニーズがあること。ITは今日、企業にとってなくてはならないインフラで、ITが止まれば企業活動は停止する。それに、DX(デジタルトランスフォーメーション)という言葉がはやっているように、ITは仕事や人々の生活を変革する力を持っている」

「IT業界は人材不足とよく言われていますよね。いい人材なら年齢は関係ないということですか」

「そうだ。それから、もう1つの理由が、年齢とともに活躍の場が広がるからだ。プログラマーだけでなく、年齢に応じてリーダー業務やプロジェクトマネージャーにシフトしていける。今はCTO(最高技術責任者)、CIO(最高情報責任者)みたいな技術寄りのマネジメント役職もある。地位や報酬面でも昇り詰めることができる時代になった。このクラスで優秀な人なら引っ張りだこだ。50歳を超えてもいくらでも転職できる」

「ちなみに五十嵐さん、今いくつでしたっけ?」

「え、いくつに見える?」

五十嵐さんは楽しそうだ。

「そういうの、いらないんですけど」

 ぼくが答えると、春村さんが苦笑した。「何歳に見える?」おじさんは、どこの会社でもいるらしい。

「じゃあ、言いたくない」と五十嵐さんが、すねる。まるで、子供だ。

「わかりました。考えます」

 ぼくはしばらく考えて、五十嵐さんの顔をじっと見た。

「それなら……。若く見えますが、実はもう50過ぎとか」

「後藤、お前はバカか」

 五十嵐さんはガッカリした表情を見せた。

「あれ、全然違っていました?」

「そういうことじゃない。こういうときは、見た目よりも若く言うのが社交辞令だ。そして、オレが本当の年齢を言う、そしたら『えー、ぜんぜん見えません』と三段論法で持ち上げるっていうお約束の流れを知らないのか」

「決まりなんですか」

「世の中のルールだ。後藤はオレの年齢をズバリ当てようとしたんだけど、今年49歳になるオレに50歳と言ったのは本当に腹立たしい。オレは今まで実年齢以上に言われたことがない」

「ごめんなさい。でも、49歳には見えません。もっと若く見えます」

「いまさら遅いわ」

 五十嵐さんは不機嫌になって、スマホをいじり出す。

 春村さんが苦笑しながらもフォローしてくれる。

「五十嵐さん、30代と言われても違和感ありません」

 五十嵐さんと2人きりじゃなくてよかった。

 春村さんの言葉を聞いて、五十嵐さんが「やっぱり?」と笑顔を取り戻した。この男、結構な単細胞である。

 よし、今がチャンスだ。会社をやめる話に戻そう。五十嵐さんが会社をやめたのは6年ほど前と服部課長が言っていた。つまり、43歳の時だ。

「五十嵐さんが転職した40代前半という年齢って、一般的には子供の教育費がかかり、親の介護の心配もし始める時期ですよね。身動きが取りづらい年齢だと思います。ぼくがそんな状況だったら、怖くて会社、辞められないです」

 五十嵐さんはスマホを触るのをやめて顔を上げた。

「オレの場合は、子供はいないし、少しばかりだけど貯金があった。サラリーマン生活もあとわずか。失敗してもあと数年。駄目なら肉体労働でもなんでもすりゃいいかなって思えたんだ」

「あと数年って言われましたけど、今は65歳とか70歳とか、長い人は80歳まで働く時代ですよ」

「XTシステムズの役職定年は55歳だ。場合によってはもっと早い年齢、例えば52や53歳で取引先などに出向させられることもある。そうなると給料は大幅に下がる。高い給料がもらえる会社人生は、そんなに長くない。それに、オレはもともと55歳くらいまで働けば十分と思っていた。残りのサラリーマン生活は、そんなに長くないさ」

(つづく)

▼本連載は左門至峰氏の小説『ぼく、SEやめて転職したほうがいいですか?』(日経BP、2023年6月19日発行)を著者の許諾の下で転載しています。本文表記は原則、書籍発行時の記述をそのまま掲載しています。

日経クロステック 2023年7月28日付の記事を転載]