12年働いた中堅システムインテグレーターをやめようと決心していたSEの後藤智彦。担当企業の緊急トラブル対応に出かけた彼はそこですご腕の先輩SEの五十嵐優一と出会う。人事評価に不満を漏らす後藤に五十嵐はあるアドバイスをする。(この物語はフィクションです)

イラスト:冬乃郁也
イラスト:冬乃郁也
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「とはいえ、上司に認めてほしいって気持ちはわかるよ」

 ウンウンと、五十嵐さんはうなずいている。春村さんも「そうですよね」とつぶやいている。誰だって、認めてほしいものだ。できれば、たくさんの人に。

「いいか、後藤。上司と部下ってのはな、客と店のような関係なんだよ」

「本当の客、つまりシステムの利用者は別にいるじゃないですか」

 五十嵐さんは首を横に振り、「違うんだ」というしぐさをした。

イラスト:冬乃郁也
イラスト:冬乃郁也

「後藤は、会社、つまり上司の命令に従って仕事をする。すると、会社から給料をもらえる。後藤にとって上司は、『顧客』みたいなものだろ」

「言われてみれば、そうですけど……」

 五十嵐さんは缶コーヒーから手を離し、にかっと笑う。その手元には、いつの間にかハンカチで作られたヒヨコがあった。

 五十嵐さんは、春村さんに向かって「ハンカチを貸してくれない?」と言った。

 春村さんは、ハンカチを渡しながら、

「あ、あの、私、ちょっと席を外してもいいですか」と五十嵐さんを見た。

「どこに行くんですか?」

 そう聞きそうになって、口を閉じる。トイレならハンカチが必要だと思ったが、女性に対して、行き先を聞くわけにはいかない。

「どうぞ」と言う五十嵐さんの声に会釈して、春村さんは席を離れた。

 五十嵐さんは、春村さんのハンカチですぐにヒヨコを作り、まるで上下関係を象徴するように、自分のハンカチで作ったヒヨコを重ねた。

「居酒屋で、焦げた失敗作の料理が出てきたら、客の後藤は怒るだろう。店員が『ぼく、がんばったんです。その努力を認めて許してくださいよ』と言われたら、後藤は許すか?」

「そりゃー、お金を払った立場としては、まっとうな料理を正しく受け取る権利があると思います」

「そうだろ。そう考えたら、客である上司に従わないといけないと思わないか?」

「で、でも、居酒屋と会社は同じじゃないですよ! いくら上司だからって、ぼくは人間です。受け入れられないことだってありますし、ぼくの希望も聞いてほしいです」

「そりゃもちろん」

 重ねられていたヒヨコは、今度は2匹並ぶように隣に置かれた。

「でも、部下が会社の命令通りに仕事をしないんだったら、会社もまた、給料を払う必要がなくなる」

 ヒヨコたちは、仲たがいしたように今度はそれぞれ外をぷいと向く。交渉決裂。

「……五十嵐さんが言いたいことは、わかりました。そうです、その通りです。だけど」

 五十嵐さんは、しみじみした表情で、手を伸ばしてぼくの肩をたたいた。

「服部課長は神じゃない。普通の人間なんだ。認めてもらおうなんて過度な期待は、するだけ疲れる。上司は客、しかもわがままで、わからず屋。そう思ったほうが、諦めもついて、ストレスをため込まなくていいぞ」

 五十嵐さんはぼくを励ましてくれている。だが、上司がわからず屋なんて、あまりに寂しい。

 本当に寂しい。

 でも、現実はそうなんだ。五十嵐さんの言っていることが、圧倒的に正しい。

「どっちか食べませんか?」

 席を外していた春村さんがお菓子を持ってきた。グリコの「ポッキー」と明治の「メルティーキッス」というどちらもぼくが大好きなお菓子だ。どこから持ってきたのだろうか。自分のカバンの中に入れていたお菓子だろうか。まあそんなことはいい。晩ご飯も食べていなかったので、おなかが空いている。食べられるだけでありがたい。

「チョコ、好きなんだね」

 春村さんは「はい」と、はにかむように笑う。

「後藤さんもお好きかなぁと思って、持ってきました」

 春村さんは、ウインクこそしなかったが、落ち込んだぼくを魅了するには十分の笑顔だった。そして、言葉を継ぐ。

「途中のお話を聞けていませんが、後藤さんって、まっすぐで正直な方なんだということがよくわかりました」

「そう言ってもらえて、うれしいです」

 ぼくは本当にうれしかった。

「でも、『正しさ』にこだわっているようにも思えます」

「えっ。どういうこと?」

「正しく評価されたい、正しく評価しない人事部は駄目だって。でも、人間はそんなに正しくないから」

「そうだけど……」

 返す言葉がないぼくを、春村さんが元気づけてくれた。

「スーツ着てネクタイつけてちゃんと仕事して、しかもプロジェクトの立役者。私からしたら、それだけでとてもかっこいいです。それと、求め過ぎると、つらくなります。どこの会社の上司も、部下のことを思いやっているふりをしながらも、自分が一番かわいいんです」

 春村さんが席を外している間、五十嵐さんが言ってたのと同じ意見だ。

 五十嵐さんは、顎ひげを触りながらふむふむと聞いている。

 春村さんの話を聞いて、駄々っ子みたいな自分が、次第に恥ずかしく感じられた。いつまでも正しさに固執するのではなく、理不尽な状況も受け入れていかなければ何も進まない。

 五十嵐さんは、春村さんを見た。

「ちなみに、春村さんは、仕事は楽しい?」

「え、突然どうしたんですか?」

「いや、楽しいかなと思って」

「そうですね、ま、そこそこ」と舌を出した。

 意外な返事だった。男だらけのIT業界での仕事は、大変なイメージしかなかったのに。

 ぼくは身を乗り出して聞いた。

「大変じゃないの? 変な上司、変な客がいたりとか?」

「嫌なこともたくさんありますけど、自分も成長できます。なので、結構楽しんでやってます」

「なるほど」

「それに、がんばったその先には夢があると思っていますから」

「夢、か……」

 春村さんの話を聞いて、忘れかけていた感情がよみがえってきた。

『今日は、先輩がぼくのコーディングの速さを褒めてくれた』

『お客さまのトラブルを1人で直せたんだ』

『プロジェクトのチームリーダーに抜てきしてくれた。メンバーは3人だけどね』

『いずれは会社のナンバーワンSEになる。そして子供ができたら、自慢のパパになる』

 20代の頃は、そう言って喜んでいた。

 地位やお金のことなんて、何も考えなかった。一人前のSEになること自体が、夢だったのだ。

――今の、ぼくの夢はなんだろう?

――ぼくは、何がやりたいんだろう?

 せっかく、五十嵐さんや春村さんという人に出会えた。トラブル対応の中、どれだけ時間が取れるかわからない。だけど、少しでも自分の中で答えを見つけたい。

(つづく)

▼本連載は左門至峰氏の小説『ぼく、SEやめて転職したほうがいいですか?』(日経BP、2023年6月19日発行)を著者の許諾の下で転載しています。本文表記は原則、書籍発行時の記述をそのまま掲載しています。

日経クロステック 2023年8月1日付の記事を転載]