12年働いた中堅システムインテグレーターをやめようと決心していたSEの後藤智彦。緊急トラブルの対応現場で出会ったすご腕の先輩SEの五十嵐優一と語り合い仕事への前向きな気持ちを取り戻した後藤。夜が明け、社員たちが次々と出社してくる。そしてあの恐ろしい佐原部長が姿を見せる。五十嵐はすぐに佐原部長に駆け寄るがそこで意外なことが起こる……。(この物語はフィクションです)

イラスト:冬乃郁也
イラスト:冬乃郁也
画像のクリックで拡大表示

 五十嵐さんのおかげで、暫定対処ではあるが、トラブルは収束に向かった。顧客は通常通りの業務ができるし、現時点ですべきことはない。ぼくは、ホッとして肩の力が抜けた。

「五十嵐さん、ちなみに、ストレージ交換になると大掛かりな作業になりますよね。今は部分的にクラウドと併用しているとのことですが、しばらくは不安定な環境ということですか?」

「いやいや、安定したクラウド基盤を使っているから、全く問題ない。むしろ、今のストレージを廃棄して、クラウドへ全面的に切り替える提案をするつもりだ。そのほうがコストも下がる。アプリケーションはすでにあるわけで、それをクラウドに移行するだけだから、1日で切り替えできる。実は移行できるかのテストもすでに終わっている。ストレージの交換などせずに、今日からクラウド移行しましょう、ってことも可能なんだ」

 この人は本当にすごい。

 とはいえ、五十嵐さんはクラウドに特化した仕事をしていたと話をしていた。五十嵐さんにとっては当たり前のことなのかもしれない。

 トラブルが収束してよかったのだが、ぼくには1つ気になることがあった。

 ぼくは五十嵐さんに近づき、聞いてみることにした。

イラスト:冬乃郁也
イラスト:冬乃郁也
画像のクリックで拡大表示

「そういえば、パワハラ通報サイトのメッセージが出るって、あれは何だったんでしょうか」

「誰かのイタズラだろ。それも直した」

「悪質な感じがしましたが、イタズラ、で片付けていいんですか?」

「それより、せっかくだからクラウド連携した新しい環境、後藤にも説明しておくわ」

 誰のイタズラなのか、気にはなったが、「まあ、直ったならそれでいいです」と気にしないことにした。

 細かいことを気にせず鈍感に。これも五十嵐さんから学んだことだ。

 その時、佐原部長が出社し、サーバー室にやってきた。

「うわっ。佐原部長だ……!」

 こちらに向かってくる佐原部長は、「寝ずに作業して直したんだろうな」というような威圧的な表情だった。

 怖い!

 だが、五十嵐さんは立ち上がり、パソコンを持ったまま佐原部長の元に駆け寄った。五十嵐さんがパソコンの画面を見せながら説明をするにつれて、佐原部長の表情はみるみる明るくなった。しかも、五十嵐さんに頭を下げている。トラブルを解決してくれたうれしさとともに、業者である我々へのねぎらいの気持ちが生まれたのかもしれない。

 佐原部長が自席に戻る頃、他の社員もパラパラと出社してきた。我々は万が一、動かない場合に備えてサーバー室で待機することになった。待機するだけでなく、システムに問題がないかを改めてチェックした。トラブルで顧客が困っているのだから、できることはすべてする。それと、しっかりと作業をしている姿を見せることは、顧客への礼儀である。実際、春村さんは眠いながらも背筋を伸ばして姿勢を正し、パソコンに向かって黙々と作業をしている。ぼくも、ネットワークの通信をチェックしたり、サーバーなどのログを確認してエラーが出ていないかをチェックした。単調な作業だが、それも大事な仕事だ。

 佐原部長がまたやってきた。表情は明るい。五十嵐さんは再び佐原部長に駆け寄り、しばらく話をする。そして、笑顔で頭を下げ、ぼくらのところに戻ってきた。

「佐原部長から動作確認オッケーと言ってもらった。撤収だ」

「でも、ストレージのハードメーカーとの調整、その後の顧客対応は……」

 そう聞こうとした時、「おはようございます!」と元気な声が聞こえた。

 エレベーターを昇ってきたのは、なんと、あの滝下だった。

「滝下! 一体、どうしてここに」

「昨夜は、任せて帰ってしまってすみませんでした。息子の誕生日で……」

「そうだったのか……」

「ここから先は、私が承ります! 五十嵐さんから引き継ぎを受けていまして、昼前にはストレージメーカーの保守作業員が到着します。お任せください。顧客に満足いただけるように進めます!」

 服部課長といい、滝下といい、ぼくは他人の悪い面だけを見ていたのかもしれない。

「五十嵐さん、本当にもういいんですか?」

「ああ、ストレージの故障対応はメーカーの作業範囲だから、メーカーと滝下くんに任せよう。それに、佐原部長は、クラウドに切り替えて処理スピードが格段に速くなっていることに喜んでくれている。ハードの故障の対応はメーカーにやってもらうけど、今のクラウドの環境は快適だから、業務上も全く問題ないはずだよ」

「あの恐ろしい佐原部長が喜んでくれたのは、なによりです。五十嵐さんのトラブル対応の“鉄則”が功を奏したんですかね?」

「ま、それはわからんけど、クラウドに移行したいから、すぐに提案してくれって言われた。新しい仕事を見つけたって感じだ」

 五十嵐さんの話だけを聞くと、すごく簡単に交渉をしたように思える。しかし、佐原部長を説得できたのは、五十嵐さんの能力であることは間違いない。この短時間で解決をして、新しい提案までやってしまう。本当にすごい人だ。

 それと五十嵐さんは、自分や会社のためだけでなく、また、技術志向でもなく、純粋に顧客志向でビジネスをしている。今回、たまたまクラウドという技術を使ったが、技術ありきで提案したのではない。顧客志向を追求する中で、それに最適な技術を組み合わせただけだ。

 顧客志向を貫く。

 だからこそ、顧客が信頼してくれるのだ。その結果、理不尽なことも言われなくなる。仕事から逃げずに、顧客が求めていることを提供する。シンプルだけど、ビジネスで大事なことを、ぼくは学ばせてもらったのだ。

(つづく)

▼本連載は左門至峰氏の小説『ぼく、SEやめて転職したほうがいいですか?』(日経BP、2023年6月19日発行)を著者の許諾の下で転載しています。本文表記は原則、書籍発行時の記述をそのまま掲載しています。

日経クロステック 2023年9月8日付の記事を転載]