プリファード・ネットワークスの富永朋信氏の著書『 人がモノを買うしくみを言語化する “知ったかマーケター”からの脱却 』が2025年9月26日に発刊された。同書の後半ではMVV(ミッション・ビジョン・バリュー)を扱い、最終章のスターバックス コーヒー ジャパンの森井久恵CEOとの特別対談でも、ミッションやバリューとその行動変換について掘り下げている。富永氏はなぜ、マーケティングをテーマとした書籍でMVVに紙幅を割いたのか。そしてマーケターは、それをどのように読み解けばよいのだろうか。[日経クロストレンド 2025年10月1日付の記事を転載]
マーケ本でMVVを掘り下げた理由
――著書の後半でMVV(ミッション・ビジョン・バリュー)やパーパスを詳しく取り上げています。マーケティングをテーマにした書籍で、なぜMVVに多くのページを割いたのでしょうか。
富永朋信氏(以下、富永) 大きく分けて2つの理由があります。まず、マーケティングにおける最大の関心事の一つである「ブランドをどうするか」を考える上で、MVVは切り離せないトピックだからです。
私の仕事はマーケティングなので、いろいろな会社のマーケティング担当者から「自社のブランドを強化したい」と相談をいただくことがあります。その会社の社長と話をすると、前もってマーケティング部門の人たちと話していた内容と、全然違う話が出てくるのです。そこでMVVについて尋ねると、大抵はあまり意識されていないのが実情です。このような状況では、まずMVVの整理から始めることを提案しています。それはなぜか?
ブランドとは企業や組織の「らしさ」そのものであり、従業員一人ひとりの言動から自然ににじみ出るものです。組織が目指すべき方向性が明確でなければ、従業員の行動を適切に方向付け、「らしさ」を創り、伝えることはできません。表面的にブランド価値規定を決め、マーケティングコミュニケーションだけでどうにかしようとするやり方は、結局は透けて見えてしまいます。
プリファード・ネットワークス エグゼクティブアドバイザー
――従業員がブランドの「らしさ」を体現するビークルになるということですね。本書の特別対談にも登場するスターバックスの接客を思い浮かべると、理解しやすいですね。
富永 スターバックスブランドの最も強力な原動力は、パートナー(アルバイトも含めた、スターバックスで働く全従業員)の皆さんだと思います。彼ら・彼女らの接客こそ、「スターバックス」らしさを体現していますよね。
パートナーの言動を方向付けているのがミッションやバリューなのです。森井久恵さん(スターバックス コーヒー ジャパンCEO<最高経営責任者>)との対談では、それらを組織に浸透させ、具体的な行動に変換するための仕組みが確立されていることを学ばせていただきました。
多くの経営者との対話を通じて感じるのは、ブランドとMVVが表裏一体の関係にあることを十分に理解していない方が多いということです。このことに対して警鐘を鳴らしたいという思いがありました。
教養としてのマーケは、MVVの浸透・行動変換にも役立つ
――2つ目の理由についても教えてください。
富永 MVVやパーパスを丁寧に論じたもう一つの理由は、マーケティングの考え方を応用することで、MVVの実践にも影響を与えられるようになるからです。MVVは、他の経営事項よりも一段上位に位置する非常に重要な概念です。組織の人数が増えてくると、経営者が目指したい方向が伝わりにくくなりがちですが、それをうまく方向付けるのがMVVです。ところが「理念を決めたはいいが、皆が意識してくれない」「行動に反映されない」といった状況がよく見られます。
前回、「教養としてのマーケティング」という話をしました。その時お見せしました「マーケティングの全体構造」の図をもう一度見ていただけますか。
仕事としてのマーケティングを進める上で、ポジショニングやブランディングといった概念を理解し、熟知することはもちろん重要。ですが、それよりもベースとなる一段汎用的なレイヤーで、人の心の仕組みを理解していること、さらにそれらよりも一段ファンダメンタルなこととして、懐疑的に物事を見る態度や、世の中の構造に対する理解が重要だという考えです。
そうした土台を整えた上でマーケティングの概念をインストールすると、マーケティングを様々な場面で応用できるようになります。私が常々言っている「マーケティングと人事は一緒だ」「マーケティングと営業は一緒だ」「マーケティングで組織を良くしていける」といったことの意味は、ここにあります。マーケティングはお客さまの心を動かすこと。であれば、それをきちんと設計した上で従業員に向けて行えば、彼らの行動変容ができるのです。
「ミッション=営み」を体現しているスターバックス
――スターバックスの森井CEOとの対談でも、MVの話を中心に進んでいきました。対談を通じて、どのような感想を持ちましたか。
富永 スターバックスにとってのミッションは「ここまで到達したら完成」というものではなく、常にブラッシュアップしていくものだということが、非常に印象的でした。
MVVとは永続的な営みです。今日80点なら明日81点、明後日は82点と上げていき、100点に到達しても、次は101点を目指す。こういう発想は、KPI(重要業績評価指標)やゴールを決めてそれを達成する、という一般的な経営管理の考え方とはあまりなじまないですよね。
スターバックスという企業は、そうした目標達成至上主義のような“罠(わな)”に絡め取られる気配がみじんもありません。ひたすら「ミッションとバリューを体現するのだ」という強い意志が感じられました。
対談の中で、森井さんが「店舗に行くと鎧(よろい)が剥がされる」と言っていましたが、それはおそらく本当なのでしょう。これは驚くべきことです。組織には通常、様々な思惑や、悪意、利己主義が渦巻いているものです。ですから、治安の悪い街を歩く時のように、常に警戒し、アンテナを張りながら行動しないと危ない、というのが普通の発想です。しかし、これは非常に大きなコストです。周囲の人々を疑ってかかることでもありますから。
一方、スターバックスでは、そのようなアンテナを全く立てる必要がないので、仕事に全力投球できるわけです。本当に素晴らしい組織のありようです。対談では、信頼を示すシグナルの重要性についてもお話ししましたが、パートナー同士が称賛や次へのチャレンジを伝え合う「グリーンエプロンカード」はまさにその信頼の証といえるでしょう。
事例から何を読み取り、どう生かすか
――記事では概念やフレームワークとの向き合い方についてお聞きしましたが、他社の事例もまた、どのように向き合うかが難しいものの一つだと思います。マーケターは、事例をどのように読み解いていけばよいのでしょうか。
富永 事例の取り扱いが難しいのは、とにかく分かりやすいからです。事例とは、誰かの視点を通じた一つの物語ですよね。時系列で展開を追うことができます。そうすると、「AがあったからBがあった」というように、因果関係で捉えやすいのです。
ここでの「捉えやすい」には、容易に捉えられるという意味と、「捉えがちである」という意味の両方が含まれます。そして、「捉えがちである」という側面が、事例の“闇”の部分です。人は勝手な解釈をして、最も大事なポイントではない部分ばかりを記憶したり、その記憶に基づいて他者に伝えたりしてしまうのです。
しかし、言うまでもありませんが、物事とは、まるでクモの巣のように様々な要素が関連し合って成立しています。確かに、「ここがツボだ」というような大事なポイントはあるかもしれませんが、そこだけが単独で存在しているわけではなく、はるかに複雑性の高い構造を持っています。
事例として語られている時点で、濃密な情報量はスカスカにそぎ落とされてしまっています。本当に大事な要素が含まれていないこともあり得るのです。これが、事例をたくさん知っても実践に生かしにくい理由だと思います。
一方、事例が効果を発揮する局面も確かにあります。誰にでも理解しやすく、感情に訴えかける力があるので、人を行動に駆り立てる力を持っています。また、模倣しやすいので、身体的に考えようとしたときに参考にしやすいでしょう。
ただし、情報量が粗になっているので、リアリティーのシミュレーションとしての精度は「雑」なものです。ですから、一歩引いた態度で接することも大事だと考えています。
――事例の強みと限界を理解した上で読み解く必要があるのですね。
富永 その通りです。そのためには、表面的な違いにとらわれ過ぎないことが重要です。森井さんとの対談を例にすると、ミッションやバリューに関する森井さんと私の説明は、やや食い違っているところがあります。
ですが、私に言わせれば、それは「かけているメガネの違い」に過ぎません。メガネが違うので計測される数値は異なりますが、本質は同じです。
そのような見方、読み解き方ができるようになることこそが、この本を通じて身に付けてほしい教養だと考えています。絶対的なものは何もなく、すべては相対的であり、差異の集合なのです。だから、ブランドは意味になったり、イメージの集合になったりする。
マーケターには、物事を見る際に絶対的な見方や表現などない、ということをまず理解してほしいと思っています。そう思ってもらえたなら、森井さんの言葉と私の言葉が異なるように見えても、実は同じことだと分かるはずです。
「たかがマーケティング」くらいの構えがちょうど良い
――マーケティングの概念や事例との向き合い方や、MVVへのマーケティングの応用など、本書はマーケティングについて、これまであまり掘り下げられてこなかった側面に、光を当てているように思います。
富永 この本は、マーケティングを何か神聖なもの、特別なものだと思っている人に、それとは異なる視点を提示したいと思って書きました。
ビジネスは、売り上げが上がらなかったらダメですし、もうからなかったらダメ。社会的な使命が果たせなかったらダメです。そうした多角的な「やらなければならないこと」をトータルで達成していくのがビジネスですよね。
マーケティングも、そのための一つの「手段」に過ぎません。それ以上でも以下でもないのです。いろいろな手段がある中で、マーケティングだけが特別に優れている、ということはないでしょう。「たかがマーケティング」くらいの構えが、ちょうど良いのではないでしょうか。
――確かに、マーケティングを特別視してしまうと、視野が狭くなってしまう可能性もありますね。
富永 かつての私は、営業を自分たちの仕事とは別物のように捉えていました。直近のお金への執着が強い、再現性が低い個人技能のように見えていたのです。しかし、この見方は明らかに間違いでした。
営業の現場には、実践力、行動力、そして臨機応変な対応力が詰まっており、これらはマーケティングにとって素晴らしい学びとなります。「営業の人たちと私は違う。私はマーケターだから」といった考え方も、完全に誤りです。
この本は、自分の専門分野を特別視する見方とは、明確に異なる視点から書いています。その意味では、「経営のリベラルアーツとして必要なことを知りたい」という人のニーズにも応えられると思います。本書を読んだ人が、ファイナンスなどと同様に、マーケティングを一つの手段として使えるようになった、という状態になってくれるとうれしいですね。
マーケターは抜け道探しよりも実践を
――最後に、本書を読者にどのように読み、どのように役立ててほしいか教えてください。
富永 私は本書を「実践×マーケティング」のための本として書きました。プリファード・ネットワークス(東京・千代田)に入社してから特に強く感じるようになったのが、実践の重要性です。長時間考え続けてから実行するというタイプの人と、とにかく行動するタイプの人がいたら、結果を出すのは必ず後者です。
本書の内容についても、良いと思ったものはどんどん実践していただければと思います。それと対極にあるのが、抜け道や近道を探して、なるべく手足を動かさずに正解にたどり着こうとする姿勢です。
マーケティングやキャリアの講義をして「質問はありますか?」と呼びかけると、近道を探そうとする質問が非常に多く出てきます。一見効率的に見えますが、抜け道を探そうとする態度からは何も生まれません。行動してフィードバックサイクルを素早く回したほうが、結果的に正解により早く到達できます。
「実践×マーケティング」を実現するためには、原理原則を正しく理解することが不可欠です。原理原則を身に付けていれば、とりあえず行動できますが、それがなければオーバーシンキング・オーバープランニングに陥り、効率が悪化して柔軟性も失われてしまいます。『人がモノを買うしくみを言語化する』を、そのような原理原則を身に付ける補助線として活用してほしいです。
(写真/村田和聡)
富永朋信(著)、日経BP、2200円(税込み)




