世界の掃除を変えた革命的ヒット商品、花王「クイックルワイパー」誕生の裏には、開発者たちの知られざる苦悩と、6年にわたる経営陣との激しいバトルがあった。会社から見放され、追い詰められながらも、大ヒット商品へと導いた異端開発者たちの奮闘ぶりを、花王の現役上席執行役員がつづった『6200万本売れた「ダメ出し商品」 花王「クイックルワイパー」誕生の大逆転物語』から一部再構成してお届けする。名古屋で6年間営業として働いた筆者は念願かなって本社の事業部へ異動。しかし、そこはとんでもない部署だった……。[日経クロストレンド 2025年12月19日付の記事を転載]
一生忘れられないシーン 商品のコンセプトが伝わった!
午前中のスーパーは、客足がまばらでした。売り場にクイックルワイパーの陳列台やテレビデオをセットしても、お客さまは誰ひとり足を止めてくれません。私は段ボールを片づけて、次の店へと向かいました。
3店舗ほど回ったでしょうか。最後に足を運んだのがユニー三島店でした。夕方になり、店内は夕食の食材を求める主婦たちでにぎわっていました。幸いユニー三島店では、レジ前の通路に面した陳列棚の端、「エンド」と呼ばれる売り場の一等地を確保できていました。
私は売り場をセッティングし、段ボールを片づけていました。すると、レジに並ぼうとしていた40代くらいの女性がクイックルワイパーの棚の前で立ち止まりました。奥さまはワイパーの箱を1つ右手に取って(何だろう?これは)と、怪け訝げんな表情で見つめていました。「う~ん」と、少し難しい顔をしましたが、そのまま、左手に持ったかごに入れてくださったのです。さらに取り替えシートも1つ、購入してくださいました。
私は少し離れた場所から、棚に戻されてしまわないかとヒヤヒヤしながら、「どうか戻されないでくれ……」と祈るような思いで見守っていました。
レジに並んでいる間も、視線はずっとかごの中のクイックルワイパーに釘付け。そして無事、お買い上げいただきました。レジで精算し終わった後、そのお客さまはサッカー台に行き、大きなレジ袋に買った商品を詰め始めました。お客さまは、そこでもまたワイパーの箱をまじまじと見ていました。
私は居ても立ってもいられなくなりました。レジ袋に詰め終わった頃を見計らって、お客さまに駆け寄り、名刺を差し出しました。
「花王の者です。ご購入ありがとうございます!」
「あら、そうなの?」
「どうしてお選びくださったのですか?」
「さっきのビデオで、毛を絡め取っていたでしょ。うちは犬がいるの。犬の毛は大変でね。これならいけそうだと思って」
来た! 心の中で叫びました。
フローリングのほこりや髪の毛をスイスイ簡単に取れるのがクイックルワイパーのコンセプト。しかし、クイックルワイパーと同じような商品はそれまで市場にありませんでした。誰も見たことも、触ったこともない商品です。それなのに、コンセプトが消費者にきちんと伝わって、共感していただけたのです。
もしかして、クイックルワイパーが世の中の掃除を変えるかもしれない――。
そんな期待に胸を高鳴らせながら、今日のこのシーンは一生忘れないだろうと思いました。
発売から6年で世帯普及率45%
テスト販売の目標は、6カ月で静岡県の世帯普及率3%を達成することでした。ところが、ふたを開けてみると――僅か40日間で目標をクリアしてしまったのです。想像をはるかに超えるスピードで、クイックルワイパーは飛ぶように売れていきました。
そのおよそ半年後、94年10月に全国販売が始まりました。ヒットの勢いはみるみる広がり、6年あまりで累計販売本数は2000万本を突破し、世帯普及率は約45%に到達しました。全国の家庭の約半分に、クイックルワイパーが置かれている計算です。いつの間にか、あって当たり前の商品と見なされるようになりました。
けれども――。これほどの大ヒット商品に育ったにもかかわらず、開発には6年もの歳月がかかっています。なぜ、そんなに時間を要したのか。
実は、静岡県でのテスト販売すら、会長や社長のGOは出ていませんでした。つまり、現場が独自に判断し、強行したのです。しかも、静岡で爆発的に売れた後でさえ、全国発売の正式な許可は下りませんでした。にわかには信じられないでしょう? でも、本当の話なんです。
開発者たちが見せたこの“強行突破”の裏には、驚くような壁がいくつも立ちはだかっていたのです……。
たった3人の赤字事業本部へ
1992年春――。
名古屋で6年間にわたって営業を務めた私は、東京・茅場町にある花王本社の紙事業本部へ異動となりました。紙事業本部があったのは、本社7階のフロアの端っこ。そこにいたのは、部長と先輩社員のたった2人でした。
花王の事業部の役割は、研究開発部門が作り上げた商品を事業化して利益を生み出すこと。商品に関わるプロデューサーとして、開発とマーケティングの施策を実行します。メーカーに入ったからにはモノづくりをしたいという思いがあった私にとって、本社事業本部での仕事は念願だったのです。
私は86年に新卒で花王に入社して以来、名古屋にある販売会社(販社)に出向して洗剤を担いで営業活動に奔走していました。入社当時はまさにバブル経済真っただ中。量販店のオープニングセールの目玉は、トイレットペーパーやティッシュペーパー、洗剤といった日用品。それを目当てに、開店前からお客さまの大行列ができたものです。駐車場に山のように積まれた商品が、飛ぶように売れました。
「塗谷君、若いんだから、上に乗って積み上げろ!」
量販店の人にそう言われて、うずたかく積まれたトイレットペーパーの山に上り、下から投げ上げられる商品を積んでいったこともありました。
ある日曜日、量販店の売り場の洗剤が欠品してしまい、先輩と一緒に休日で閉まっている自社の倉庫に行って商品を借りてきました。品切れになった量販店の売り場に洗剤を持って行った私たちが受けたのは、お客さまからの大拍手。営業冥利に尽きる思いでした。
ところが一転、翌朝支社に出社すると、上司からは「あまり勝手なことはするな」と雷が落ちました。
入社3年後、元号が平成へと変わった89年、トイレ用お掃除シート「流せるおそうじシートクイックル」(93年に「トイレクイックル」に改称)が発売されました。そのとき、営業の先輩から「あれは絶対売れるから、ちゃんと商品を確保したほうがいいぞ」とアドバイスを受けていました。実際、トイレクイックルは品切れが続出するほど大ヒットしたのです。こうしたことを目の当たりにして、一度は事業本部に行って商品を作ってみたい!という思いが次第に高まっていきました。
当時、新卒入社の文系社員は8割くらいが地方の販社に出向し、営業職からスタートしていました。その全員が東京本社に戻って来られるわけではありません。私の場合、どうやら上司が「元気のいいヤツがいる」と本社に推薦してくれたようでした。理解のある上司に恵まれた私は、晴れて本社の紙事業本部へ異動することができたのです。
「おまえか?名古屋で騒いでいたのは。めちゃくちゃなことをやっていたらしいな」
本社に異動してから、そう声をかけられたことがありました。
その後、本社に通勤し始めたのですが、どうも様子がおかしい。
事業本部なのに、メンバーは私を含めてたった3人。これでは課どころか係の規模で「名ばかり事業本部」です。部長は販売出身で、仕事はきちんとやりますが、昼休みはずっと寝ていました。今と比べれば牧歌的な時代だったとはいえ、とにかく活気がありませんでした。
実は、紙事業本部はトイレクイックルで大当たりして以降、ヒット商品に恵まれない赤字部門だったのです。私が「ついにモノづくりができる!」と喜び勇んでやって来たのは、解散寸前の“お荷物部署”でした。
(次回に続く)
塗谷弘太郎(著)、日経BP、2200円(税込み)

