量の拡大を軸にした金融緩和政策は「リフレ政策」とも呼ばれ、異次元緩和の代名詞となった。「経済学の書棚」第17回後編では、日本の経済学者の中では大勢を占める「非リフレ派」の見方を紹介。「長期停滞論」の背景を解説し、解決策を提言する『21世紀の長期停滞論』、「人々の期待に働きかける」金融政策の限界を指摘する『人の心に働きかける経済政策』、リフレ政策に厳しい評価を下す『日本の経済政策』を取り上げる。

前編 「日銀『異次元緩和』を検証・評価するバーナンキ氏の本」

「経済学の書棚」第17回後編では、日本の経済学者の中では大勢を占める「非リフレ派」が日銀のリフレ政策を検証する本3冊を紹介する
「経済学の書棚」第17回後編では、日本の経済学者の中では大勢を占める「非リフレ派」が日銀のリフレ政策を検証する本3冊を紹介する
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リフレ政策を巡る議論

 日銀は2%の物価目標を当初予定の2年間では達成できず、目標とする時期を何度かずらした。2016年にはマイナス金利政策、長短金利操作を順次、導入した。「量の拡大」に加えて金利政策も駆使したが、物価の動きは鈍いままだった。

 黒田東彦総裁が再任された2018年、安倍晋三政権の意向を受けた日銀は「2019年度ごろ」としてきた達成の見通しを公式文書から削除した。2%目標は結局、黒田総裁の任期中(2013年3月~2023年4月)には達成できなかった。

 経済論壇では、日銀のリフレ政策を支持する論者(「リフレ派」と呼ばれる)と、リフレ政策に反対したり、距離を置いたりする論者に分かれ、議論が続いてきた。経済学者の数に限れば、日本では後者の方が優勢だ。

 リフレ派の多くは安倍政権下で日銀の執行部に加わり、リフレ政策の一翼を担ってきた。2%目標が未達に終わったのは「消費税の増税が原因」、「財政政策が足りなかった」と主張するリフレ派の論者もいる。

 その延長線上で、金融政策と財政政策は引き続き、共に拡張的であるべきだと説く「高圧経済論」も浮上している。高圧経済とは需要が短期的な供給能力を上回り、労働市場での人手不足が顕著になる状態を指す。この状態では労働者の移動が活発になり、生産性も向上するという。したがって、需要を通じた生産性向上を目指す財政・金融政策が必要だと指摘している。

 後編では、日本の経済学者の中では大勢を占める「非リフレ派」の見方を紹介する。

 東京大学教授の福田慎一著『 21世紀の長期停滞論 日本の「実感なき景気回復」を探る 』(平凡社新書/2018年1月刊)は「長期停滞論」の背景を解説し、解決策を提言する書だ。

『21世紀の長期停滞論』(福田慎一著)。世界経済を展望したうえで日本経済の現状に目を向け、長期停滞を打破する方法を探った本
『21世紀の長期停滞論』(福田慎一著)。世界経済を展望したうえで日本経済の現状に目を向け、長期停滞を打破する方法を探った本
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 元米財務長官で経済学者のローレンス・サマーズ氏は2008年のリーマン・ショック後、世界経済は需要不足(過剰貯蓄)を原因とする長期停滞に陥っていると指摘した。福田氏は世界経済を展望したうえで日本経済の現状に目を向け、長期停滞を打破する方法を探っている。

 長期停滞をもたらす主な要因は、予期せぬバブルの崩壊という大きな負のショック、新興国の過剰な貯蓄、人口減少・高齢化、所得格差の拡大だと整理。技術進歩に伴う資本財価格の下落や、企業の経営者が将来に慎重になっている点なども要因として挙げている。

 リーマン・ショックのような大きなショックが起きると、その後の経済活動に恒常的な影響を与える可能性がある。負のショックによるヒステリシス(履歴効果)と呼ぶ。

異次元緩和はデフレ阻止に貢献

 この観点から見ると、日銀が2013年から始めた異次元緩和は経済に大きな正のショックを速やかに与えたという点で、リーマン・ショック後の金融市場の混乱やその後のデフレの進行を食い止めるのに一定の役割を果たしたと評価している。

 異次元緩和では「量の拡大」に注目が集まったが、総需要を刺激するのに最も有効と考えられている非伝統的な金融政策は、中央銀行が将来の金融政策について公約することを通じて、人々の予想をコントロールする「フォワード・ガイダンス(時間軸政策)」だと解説する。日銀は様々な金利のフォワード・ガイダンスを実行し、長期金利は大幅に下落してきた。

 長期金利の下落は総需要の刺激に一定の役割を果たしたが、需要不足の背後にある構造問題を解決するものではない。銀行貸し出しや設備投資が伸び悩むなど、その効果は十分なものではなかったと診断する。

 金融政策と財政政策がいずれもすでに拡大しきった日本では、需要不足を補う観点からも構造改革の推進が必要だと強調。急速に進行する少子高齢化に対しては質の高い外国人労働者の受け入れ、巨額に膨らんだ財政赤字に対しては社会保障関係費の見直しによる財政赤字の削減など、日本が抱える構造問題に対する有効な改革スキームを明確にするよう求めている。

 京都大学公共政策大学院名誉フェローの翁邦雄氏は『 人の心に働きかける経済政策 』(岩波新書/2022年1月刊)で、行動経済学の知見を取り入れ、「人々の期待に働きかける」金融政策の限界を指摘している。翁氏は日銀に在籍していた当時、リフレ派の論客である岩田規久男氏(2013年3月~2018年3月に日銀副総裁)との間で論争を広げ、リフレ政策に反対してきた。

『人の心に働きかける経済政策』(翁邦雄著)。行動経済学の知見を取り入れ、「人々の期待に働きかける」金融政策の限界を指摘した
『人の心に働きかける経済政策』(翁邦雄著)。行動経済学の知見を取り入れ、「人々の期待に働きかける」金融政策の限界を指摘した
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 翁氏によると、異次元緩和によるマネタリーベース(資金供給量)の急増は、日銀が当座預金に金利を払い、銀行に運用資産として保有させる凍結政策によって可能になっており、それ自体には緩和効果はなかった。マネタリーベースの倍増はシンボルであり、市場や経済主体の「期待」を抜本的に転換することで予想インフレ率を上げることが狙いだった。

一般市民の関心は家族の健康と収入

 ところが、一般市民の大半はマネタリーベースという専門用語を知らず、異次元緩和のニュースは何の話だかよく分からないままスルーした。家計の不安の中核は家族の健康と今後の生活設計・収入だ。具体的には賃金や公的年金は今後どうなるか、ということこそが切実な関心なのだと世論調査の結果を基に論じている。

 ここで行動経済学の「フレーミング」の概念に触れ、インフレ目標がポジティブなフレーミングとして国民の共感を得るためには、それが賃金上昇と一体であるという説明が必要だったと振り返る。

 さらに、黒田総裁が就任当初、市場関係者が予期していないサプライズ的な政策変更で心理的衝撃を与え、日銀を畏怖させ、その意図に追随させようとした手法にも疑問を呈する。これはメインストリーム(主流派)の経済学の思想とは異なる古風な政策運営スタイルである。2016年のマイナス金利導入のサプライズは、市場心理を超えて一般市民にまで及ぶ拒絶反応を引き起こしたと非難する。

 慶応義塾大学教授の小林慶一郎著『 日本の経済政策 「失われた30年」をいかに克服するか 』(中公新書/2024年1月刊)は、1990年代以降の日本経済と経済政策の推移を点検し、今後の経済政策のあるべき姿を論じる書。この間の米国を中心とするマクロ経済学界の動向が日本に与えた影響にも触れ、リフレ政策に厳しい評価を下している。

『日本の経済政策 「失われた30年」をいかに克服するか』(小林慶一郎著)。1990年代以降の日本経済と経済政策の推移を点検し、今後の経済政策のあるべき姿を論じる
『日本の経済政策 「失われた30年」をいかに克服するか』(小林慶一郎著)。1990年代以降の日本経済と経済政策の推移を点検し、今後の経済政策のあるべき姿を論じる
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 同書によると、日本では1990年代を通じて景気対策(財政政策)が恒例の年中行事と化したが、財政金融政策によって総需要を下支えする政策を続けても不況から脱出できない状態が続いた。1999年にはゼロ金利政策を導入し、金融政策は限界に達していたが、日本では景気浮揚に使える政策手段が他になくなり、消去法で金融政策に期待するしかなくなっていた。

 そんな状況にあった1998年、ノーベル経済学賞の受賞歴があるポール・クルーグマン氏がエッセイで「人々の期待を変えることができれば、金融政策は有効だ」という新説を提唱すると、日本でリフレ派が形成される大きなきっかけとなった。クルーグマン、ベン・S・バーナンキ両氏らは2000年代初頭を通じて日銀に金融緩和の一層の強化を強く迫り、日本のリフレ派を勢いづけたと分析している。

 しかし、異次元緩和を継続した黒田体制の下での10年間、インフレ率が安定的に2%の目標を達成することはなかった。為政者が国民の心を思い通りに動かすことなどできない、という極めてまっとうな教訓を得られたと総括している。

 そもそもリフレ政策に希望が託されたのは、1990年代に事業規模で総額70兆円にも及ぶ財政政策を実施しても経済の低迷が続いたためである。にもかかわらず、リフレ政策が失敗すると「財政政策が足りなかったからだ」とリフレ派の論者が主張しているのは、自らの存在意義を否定するかのような言説であると強く批判している。

 クルーグマン氏ら米国の経済学者にも厳しい目を向ける。バブル崩壊後の日本に対しては「財政政策は限界なので非伝統的な金融政策をやるべきだ」と要請し、リーマン・ショック後の米国では「金融政策は限界なので、これからは財政政策だ」という。かつての日本では財政政策は効かなかったが、現在の米国では有効だとする納得できる説明はないと疑問符をつける。

財政・金融政策では低成長から脱出できず

 リフレ論争は、財政政策や金融政策は日本の低成長を脱却するための魔法の杖にはならないという、もともと分かっていたことの再確認にすぎないと断じている。

 リフレ政策には一定の効果があったのか、完全な失敗だったのか。経済論壇での議論は続いている。壮大な社会実験の成否を検証する作業は確かに大切だが、そこに過度なエネルギーを費やすのは不毛だ。未来の日本経済のために今、どんな政策を打ち出すべきなのか、ギアをチェンジする時ではないだろうか。

写真/スタジオキャスパー