その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は鶴光太郎さんの『 わかる人的資本経営(日経文庫) 』です。「まえがき」をお届けします。

【まえがき】

本書のねらい

 本書は、「わかる人的資本経営」というタイトルにもあるように、人的資本経営に興味を持っているビジネスパーソン、学生の方々に向けてできるだけわかりやすく解説したものです。「わかりやすく」という意味ですが、「簡単に理解できる」というよりも、「自分のなかで全体像が体系的に見渡せる」「本書の内容を自分のフレームワークに落とし込むことによって応用が利く」ということをめざしています。

本書の人的資本経営へのアプローチ

 読者の皆さんは、人的資本経営というと何を思い浮かべるでしょうか。この言葉が出てきた背景は、本文でも述べているとおり(第8章参照)、企業の人材の質や人材活用・投資施策といった人的資本情報の開示に向けた議論がきっかけになっていますので、それを真っ先にイメージされる方も多いかもしれません。また、リスキリング(第5章)といった人への投資を指すと考える方もいると思います。一方、人的資本経営という言葉がブームになる前は、働き方改革がキーワードだったのですが、それは人的資本経営とどう関係しているか疑問を持つ方も少なくないかもしれません。

 本書はこうしたさまざまな人事・雇用に関するキーワードを体系的に整理して、それぞれが人的資本経営のどの部分に位置づけることができるのか明快に示しています。それを端的に示したのが、30ページの図(第1章)です。人的資本を働き手の能力・スキルと考えると、能力・スキルそのものを向上させる「人的資本の水準向上」を人的資本経営の第一の柱にしています。このなかに、企業が行う従業員研修・教育訓練などの人への投資が入ってきます(第5章)。これと並ぶ第二の柱が「人的資本の稼働向上」です。今ある能力・スキルの水準は一定として、それを最大限発揮させて従業員のパフォーマンスを高めるための手法です。本書では、「人的資本の稼働向上」を従業員のウェルビーイング(身体的・精神的・社会的に良好な状況)の向上に置き換えて議論しています(第6章)。働き方改革、ダイバーシティ施策などもこの範疇に入ってきます。

 こうした人的資本経営の二本柱を下から支える役割を果たしているのが、「人的資本のインフラストラクチャー」です。ここではジョブ型雇用(職務が限定され、キャリアの自律性が担保される雇用形態、第2、3章)とデジタル化・AI(人工知能)などの新たなテクノロジーの活用が重要な構成要素となっています。「人的資本の水準向上」「人的資本の稼働向上」「人的資本のインフラストラクチャー」という3つの取り組みを一体として企業のパフォーマンス向上につなげていくことを、本書では人的資本経営と位置づけています。焦点が合わせられることの多い人的資本の情報開示(第8章)は、「始めにありき」と考えるのではなく、この3つの取り組みが十分進んだ結果として、最後に、投資家へのアピールを通じて資本市場からの評価を高め、企業パフォーマンス向上を補完、促進していく手段として位置づけています。

本書の内容構成

 本書の内容構成も前記の人的資本経営のフレームワークに沿ったものになっています。まず、第1章では、人的資本経営のフレームワーク、その全体像について説明します。次に、それを支える人的資本のインフラストラクチャーについて解説します。具体的には、第2章で従来型の雇用システムであるメンバーシップ型雇用と人的資本経営のめざすジョブ型雇用について取り上げ、第3章でその普及・転換に向けた具体的な取り組み方について、キャリアの自律性をキーワードに据えて解説します。第4章では、人的資本のインフラのもうひとつの柱であるデジタル化・AIなどの新たなテクノロジーの活用が人的資本経営にどう結びついているのかについて考えます。

 第5章では、人的資本の水準向上について解説します。これまでの日本企業の研修制度の特徴を整理したうえで、自ら選択できる学びの仕組みの導入といった、学びの自律性を高めるような施策を提言します。次に、もうひとつの柱となる「人的資本の稼働向上」に焦点を当てます。第6章、7章では、それぞれウェルビーイング向上をめざす経営、企業の社会的貢献からその存在意義を見いだすパーパス経営により、従業員が持てる力を最大限発揮させていく方策を考えます。そのうえで、第8章では人的資本の情報開示について検討します。

 残りの章では、全体的・横断的な見地から人的資本経営を論じます。第9章では、改めて今、従業員から求められる良い企業の条件を探り、人的資本経営のそれぞれの構成要素が互いに補完し合い、相乗効果を生むことを明らかにします。そして、最後の章になる第10章では、人的資本経営を推進する主体である、経営者と人事部の新しい役割、人的資本経営の具体的な取り組み方について検討していきます。

本書の特色

 本書の特色として、以下、3つの点が挙げられます。まず第一に、経済理論に基づく概念の整理です。人的資本について経済学の立場から、その水準と稼働の向上のために何が必要か包括的に論じています。特にコラムでは、人的資本について経済学でどのような研究が行われてきたか、その系譜についても解説しています。アカデミックな世界において人的資本に関する研究の発展の歩みをたどることで、人間の能力・スキルと労働・企業経営とのかかわり合いについて、より筋道立った深い理解が得られるでしょう。

 第二は、従来の雇用システムとの対比を行い、人的資本経営への移行を雇用システムの転換として捉える視点を重視していることです。従来型日本的雇用システムといえば、いわゆる終身雇用、年功賃金といった特徴が強調されます。しかし、その本質は、新卒一括採用・定年までの在籍を前提に会社のメンバーになることが大きな意味を持ち、人事部が職務・勤務地・残業などで強い裁量権を持つ日本独特のメンバーシップ型雇用にあるといえます。しかし、これまでのメンバーシップ型雇用をそのまま温存するのであれば、人的資本経営の推進は困難を極めることになります。そこで人的資本経営を推進するのであれば、雇用システムをジョブ型雇用に向けて変えるように舵を切る努力を始めなければなりません。それが本書のメインメッセージです。

 第三は、システム移行を円滑に進めるための解説にも留意しているところです。言わずもがなですが、日本企業が慣れ親しんできたメンバーシップ型雇用を切り崩していくことは、たやすいことではありません。また、目標とすべきジョブ型雇用もこれまで誤解されてきた面もあり、一部に拒否反応があることも事実です。高い目標ばかりみていると挫折してしまうので、一歩ずつ地歩を固めながら進めていくためにはどのような方法論を採用すればよいかということについても本書では言及しています。以上のような観点から人的資本経営の全体像を解説している本書は、類書にはない視点を提供していると考えます。

 最後に、本書の成り立ちについて述べます。本書は、2023年に日本経済新聞出版から上梓した拙著『日本の会社のための人事の経済学』の続編、姉妹編として位置付けられます。内容は一部重なるところもありますが、人的資本経営のフレームワークを軸に、これまでの筆者の主張を抜本的に整理し直すと同時に新たなトピックも加えて書き上げたものになっています。

 人的資本経営という言葉が世の中に浸透する中で、この分野になじみのない読者でも体系的に学べることを意識して執筆しました。読者の方々が見聞きする、人材にまつわるさまざまな議論・考え方が本書を読むことで明快に整理される一助になれば幸いです。

  2026年1月

鶴 光太郎


【目次】

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