その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は山崎史郎さんの 『人口戦略法案 人口減少を止める方策はあるのか』 です。
【Prologue】衝撃の海外レポート(202X年8月上旬)
「小国」に向かう日本
野口淳一は、通勤のため、東京都の渋谷駅と神奈川県の中央林間駅を結ぶ、田園都市線を使っている。午前7時ごろに横浜市青葉区の2LDKの自宅マンションを出て、青葉台駅から7時32分発の電車に乗る。
7時台の電車は2〜3分間隔で走っているが、途中、溝の口駅あたりから車内は満員となる。5年前に引っ越してきた頃は、これほど混んでいなかった気がする。通勤時間は1時間30分、行き帰りで3時間。1日24時間の8分の1を通勤に費やしているが、その間に、何か記憶に残るような生産的活動をした覚えはない。「真空の時間帯」とでも言ったらよいだろうか。
価値ある行動がまったくないわけではない。毎朝、駅のスタンドで朝刊を買って読む。まずざっと目を通し、仕事の上で何か困った事態が起きていないかをチェックする。そして、混み始めた車内では新聞を小さく折りたたみ、これはと思う記事を熟読する。
野口は39歳。大学を卒業後、内閣府に入って17年目になる。8年前に北海道庁に出向した経験があるが、それ以外は内閣府の各部署を巡ってきた。そして現在は、内閣府政策統括官付きの参事官(課長級)というポストで、少子化対策を担当して2年目となる。
今朝、野口の目に留まったのは、『「小国」に向かう日本―人口減少への警告(海外シンクタンク・レポート)』という見出しの記事であった。海外のシンクタンクが、日本政府の「一億人国家シナリオ」を非現実的であるとする、最新レポートを公表したという。
(嫌な見出しだな……)
と思いながら読むと、記事はレポートの内容を次のように紹介していた。
「2065年までに日本の人口は8800万人になり、ピーク時の2010年の3分の2強まで減るだろう。日本政府は人口1億人を維持することを公式目標として掲げているが、その実現方法はまだ誰も知らない……日本人全体が今、ひとつの選択を迫られている。日本社会に移民を受け入れるか、それとも小国として生きるすべを学ぶか、そのどちらかしかない。おそらく日本人は後者を選ぶのではないだろうか。感情を表さずに優雅な冷静さを保ちながら、消えゆく村落や国富の減少を淡々と受け入れるのだ。労働時間は増え、収入は減るだろうが、家族やコミュニティから得られる喜びや慰めはなくならない。政府は残された財源を老人の健康や医療ニーズに重点的に振り向け、小中学校や大学は閉鎖されるだろう。無人となった地方のインフラは荒廃するにまかせ、一方で都市部の生活水準は可能な限り維持しようと努めるだろう」
数年前から、海外の有力紙誌は、日本の人口減少について再三、警告の記事を載せてきた。
2015年の国勢調査の結果、初めて日本の人口が減少(5年前と比べ約95万人減少)したことが明らかになった時、米ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)紙は、日本政府が目指す「出生率1・8、2060年に人口1億人維持」の達成に懐疑的な見解を紹介するとともに、人口減少の理由の1つに、日本が移民の受入れに消極的であることを挙げた。
英ガーディアン紙は、人口1億人を維持するには出生率2・1が必要で、日本政府が目標とする1・8では十分でないとする専門家の意見を紹介し、日本の出生率低下の要因は、女性が晩婚になっていることと婚外子が少ないことだと指摘した。
また、WSJ紙は、日本の消費の鈍化は、日銀の金融緩和にかかわらず、持続的な低成長をもたらしている、長期にわたる人口減少が悲観的ムードを助長させるのではないか、と警告していた。
東京圏の子育て環境の厳しさ
野口は、自分の家庭を見ても、東京圏の子育て環境は非常に厳しいと感じている。32歳の妻ののぞみと1歳9カ月の長女との3人家族。育児休業明けの妻は、大手メーカーに勤務している。出勤時には、妻と交代で長女をベビーカーで保育所まで送るが、共働きでは、夫婦ともに育児にかける時間は少ない。
最近は、事業所内保育所を設置する動きが高まっているというが、都心のオフィスの場合には、朝の満員電車で、どうやって子どもを運ぶというのだろう。神奈川県在住者の一日平均通勤・通学時間は1時間45分、日本で最も長く、過酷である。しょせん、通勤が容易な地域でしか通用しない話だと思う。
保育所の待機児童の問題もある。横浜市は、以前から待機児童の解消に積極的に取り組んでいるが、保育所を増設してもすぐに空きが埋まり、さらに、保育所の整備が潜在的な保育ニーズを掘り起こすため、新たな待機児童が発生するという。他の地域からの住民の流入も続いているので、横浜市の待機児童の問題は簡単には終わらないだろうと言う人が多い。
こうした状況だから、神奈川県の出生率が1・25(2020年)と、全国的に見ても非常に低いのは、住民の1人として実感できるし、この状況が続く限り、出生率はなかなか上がらないだろうと思う。
(それにしても、朝から不愉快な記事だ)
地下鉄に乗り換え国会議事堂前駅に着くと、野口は新聞を鞄にしまい込み、永田町にある首相官邸前の内閣府庁舎に向かった。
【目次】