その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日はケネス・ロゴフ(著)、村井章子(訳)の『 ドル覇権が終わるとき インサイダーが見た国際金融「激動の70年」 』です。「日本語版への序文」をお届けします。
【日本語版への序文】
ドル覇権に挑んだ円の失速と「トーキョー・コンセンサス」
このたび、拙著の日本語版に序文を書けることは望外のよろこびである。本書では第二次世界大戦後にドルが驚くべき飛躍を遂げた経緯をたどった。ドル・ブロックの当初の中心だったヨーロッパを徐々に、そして最後は決定的に失ったにもかかわらず、二〇一五年までにドルは世界の通貨システムにそびえ立つ地位を獲得する。二〇〇八年グローバル金融危機の震源地となったのはアメリカだが、それでもドルの地位は揺るがなかった。アメリカ人の多くは忘れているが、本書に書いたように、ものごとがまったく違った方向に進んだかもしれない分かれ道はいくつかあった。決定的な分かれ道でカギを握っていたのは、じつは幸運である。ドルの強敵となりうる通貨を持つ国がもうすこし違うやり方をしていたら、ドル以外の通貨がもっと多くの市場シェアを獲得できていたかもしれない。
ドルの物語で日本と日本円は重要な役割を演じている。一九八〇年代に日本経済はアメリカに対抗するようになった。株価時価総額、不動産価値、一人当たりGDPといった多くの指標でアメリカに迫ってきたのだ。下り坂をたどるアメリカに対して、日本は上り調子だった。しかし読者もよくご存じのとおり、日本の快進撃は一九九〇年代の金融危機によって突然止まり、立ち直るのに数十年を要している。
日本の成長が急減速した原因は、人口減、中国の台頭、インフラ投資のリターン低下など数多く挙げることができよう。だがあまり認識されていないが、一九八五年のプラザ合意で日本が円高誘導を迫られたことも重要な要因だ。しかもこのとき、日本は金融自由化を制度的に受け入れる準備が整っていなかったにもかかわらず、金融市場の規制緩和をハイペースで進めるよう圧力もかけられた。加えて日本政府にも銀行や独占に関する不適切な規制など国内政策の失敗があったことはたしかだ。これらの要因が重なり、日本の経済成長は急停止する。もっと段階的な改革を進めていれば、あれほど荒っぽく失速することはなかっただろう。それでも円は、いまなお世界で最も安全な二つの通貨の一つである。あの急降下がなかったら、円は世界で、とりわけアジアでもっと大きな役割を担っていたかもしれない。世界の舞台でドル覇権に対抗するとは言わないまでも、今日より大きなシェアを占めていただろう。
本書では、経済学者の間に定着している重要な勘違いも指摘した。それは、日本以外のアジアの国々が繁栄したのは、ブレトンウッズ体制下のヨーロッパをお手本にしたからだというものである。一部の経済学者は、アメリカの経常赤字をアジアの黒字国が対米投資を通じてファイナンスする構図を指して、ブレトンウッズⅡと呼んだ。しかし実際には、中国をはじめ成功したアジアの国々が模範にしたのは、日本の輸出主導型成長戦略である(「トーキョー・コンセンサス」と題する章を読んでほしい)。今日にいたっても、少子高齢化という悩ましい問題を抱えながらも日本は世界四位の経済大国であり、日本企業はグローバル・サプライチェーンにおける利益率の高い主要部門で重要な地位を占めている。決定的な分かれ道で違う方向に進んでいたら、日本の地位はもっと高かったかもしれない。
アメリカには競争相手国がうまくやることを許すが、うまくやりすぎることは許さないという長い伝統があるが、その好例となってしまったのが日本だった。そしてトランプの関税戦争にも、アメリカのこの姿勢を見てとることができる。本書の最後の部分ではアメリカのこの戦略の弱点を指摘するとともに、ドルが二〇一五年に絶頂期を迎えた後ゆるやかに後退しはじめ、今後はそのペースが加速すると見込まれる理由を説明した。見境なく金融制裁を使ったことが、理由の一つだ。その結果、中国とヨーロッパは貿易や国際金融をうまく切り回すための独自の方法を開発したり、新しい技術を活用したりするようになった。彼らのシステムは期待した成果をまだ上げられていないが、今後五年以内には実を結ぶだろう。その一方でアメリカの政治システムは、ローレンス・サマーズ、ポール・クルーグマン、オリヴィエ・ブランシャールといった一流経済学者が提唱する理論に勇気づけられたのか、政府債務はフリーランチ(ただ飯)だと信じ込んでいる。本書では、本質的に彼らの理論が「実質金利は恒久的に下がる」という疑わしい予想に基づいていることを指摘した。このような理論は、眉に唾をつけて慎重に検討しなければならない。
とはいえ今後最大の懸念は、連邦準備制度理事会(FRB)の独立性が脅かされかねないことである。トランプだけがそうした誘惑に駆られるわけではなく、民主・共和いずれの党が与党になってもこの問題は起こりうる。本書では国際金融における数々の問題を拾い上げて歴史的背景を概説したが、中央銀行の独立性もその一つである(一九八五年に発表した論文では、中央銀行の独立性がマクロ経済の安定性、低インフレ、低い長期金利の維持にとって必須であることを説明するモデルを提示した。この種のモデルとしては最初のものである。従来は、中央銀行は金融規制に従っておればよいというフィン・キドランドやエドワード・プレスコットらの意見が一般的だったが、これは正しくない)。
最後に本書の特徴として、世界の通貨システムの変遷に関する経済学的な説明の中に、個人的なエピソードを織り交ぜたことを挙げておこう。世界各国の政治指導者、中央銀行総裁、研究者、さらにはチェスの名手(若い頃の私はチェス・プレーヤーとして世界を転戦していた)との出会いが随所に出てくる。執筆にあたって全体が重苦しくならないようにしたいと考え、こうしたエピソードを散りばめて各章にアクセントをつけるとともに、問題の複雑さと政治経済学的な視点を明確にしようと試みた。また、興味をそそる本にすると同時に、歴史家やジャーナリスト(彼らはだいたいにおいてすばらしい書き手であるが)には書けないものを書きたいという野心もあった。それに、人工知能(AI)にはそうかんたんに書けないようなものにしたかったことも白状しておこう。いくつかの問題については私には譲れない主張があるが、もちろん人にはそれぞれの考えがあるから異論反論は歓迎する。だがほぼすべてのケースで、私の見解は学術的な研究にしっかり裏付けられていることは強調しておきたい。この本は経済書としてはあまりないタイプのものかもしれないが、他の研究者の刺激になればうれしいし、そしてもちろん、日本の読者には大いに楽しんでお読みいただければと願っている。
二〇二五年七月三一日
ケネス・ロゴフ
【目次】




