様々な企業でマーケティング業務に従事してきた、シンクロ代表取締役社長の西井敏恭氏は2025年6月23日、新著『「顧客が増え続ける」科学 デジタル時代のマーケティング新定跡』を発刊した。西井氏はネット黎明(れいめい)期からデジタルを活用したマーケティングに取り組んできたデジマ先駆者だ。書籍のテーマである「『売った後』のマーケティング」の重要性や、生成AIで急速に変わりつつあるデジタルマーケティング業務について聞いた。[日経クロストレンド 2025年7月25日付の記事を転載、一部改訂]
今回「『売った後』のマーケティング」をテーマにした書籍を発刊されました。改めて、「売った後」のマーケティングについて教えてください。
西井敏恭氏(以下、西井) 「売った後」のマーケティングというと、CRM(顧客関係管理)のことだと思われがちですが、それは誤りです。CRMを実施して、LTV(顧客生涯価値)を高めることだけが、「売った後」のマーケティングではありません。
私は売った後にデータを通じて顧客理解を深めたり、顧客の口コミを誘発して新規顧客を獲得したりすることまで視野に入れた取り組みをしています。書籍では「習慣化」や「エフォートレス(顧客がストレスを感じない)」にも触れています。1人の顧客により多く買ってもらう、買い続けてもらうためのコミュニケーションにはとどまりません。
それを伝えるために、新たな書籍の執筆を思い立ちました。
編集者の立場としては、「エフォートレス」という言葉、つまり購買プロセスにおける小さな心理的・物理的ハードルをなくしていくという発想が、西井さんらしい視点だと感じました。
西井 顧客体験というと、「感動体験」をつくるといった発想になりがちです。ですが、たった1回の感動的な体験をしただけでは習慣化にはつながりません。重要なのは様々な接点での、小さな体験の積み重ねです。
従来の企業と顧客の接点は、仮に年間で3回来店する顧客であれば、その3回で優れた体験を提供することに注力すればよかった。それが、スマートフォンが普及したことで、アプリやECサイトなど、顧客との接点が大きく増えています。顧客はオンラインとオフラインを行き来する中で、少しでも面倒だと感じるとすぐに離脱してしまいます。
例えば、米Apple(アップル)の「iPhone」は機種変更時に旧機種の画面に表示されたグラフィックを、新機種のカメラで読み取るだけで情報を移行できます。この仕組みは、開発に大きなコストが伴ったはずですが、端末移行が面倒で機種編を断念していた層の購買行動を大きく変えた可能性はあります。
過去にも面倒だと思われて、顧客が離脱してしまった経験はたくさんあります。その経験を基に、いかに顧客の体験をエフォートレスにするかを考えるようになりました。
「エフォートレス」はデジタルにとどまらない
エフォートレスな体験設計とは具体的にどのように考えればいいのでしょうか。
西井 細かいことを言えば、入力フォームの改善や、ログインの簡易化が挙げられます。加えて、ECサイトであれば商品が自宅に届いた瞬間の体験や、再購入の体験をエフォートレスにすることが重要です。
かつて、私もキャンペーンページに記載する説明文を「中学生でも分かる表現にしなさい」と指摘されたことがあります。商品・サービスに詳しいマーケターだからこそ、ついつい専門的な話を伝えたくなりますが、その内容が理解できなければ、顧客にとっては一つのエフォートです。
ですので、最近は一度書いた文章を「ChatGPT」に読み込ませて、中学生でも理解できるような文章に直すといったふうに生成AI(人工知能)を活用しています。
オンライン上の体験だけではなくて、(大手ECサイト)「Amazon.co.jp」の配送の箱が簡単に畳めるなど、購買プロセスにおけるあらゆる接点でエフォートレスを心掛けることが重要です。
ある会社は高額商材を扱っていることを理由に、頑丈な箱で商品を届けることにこだわっていました。ところが、箱を開封し、捨てる手間を与えていることを考えれば、体験価値としては真逆の恐れがあります。そういった積み重ねが「売った後」のマーケティングに効いてきます。
そうした誤りを避ける上では、自分が購入したときにどういい気持ちだったとか、エフォートを感じたところは何だったのかを考える習慣をつけることが重要です。いきなり自社のことを隅々まで知ることは難しくても、自分の体験の中で気付きを持てば、自社サービスのエフォートに1つずつ気付けるようになります。そうして、着実にエフォートをなくしていくことが大切です。
仕事になると消費者心理が理解できなくなる理由
マーケターは自身が消費者のときにはエフォートを発見できるのに、“仕事人”になると、途端にそうした消費者心理が理解できなくなるという指摘があります。
西井 それは、「プロモーションの担当者」「SNSの担当者」「PR担当者」といった具合に、「企業軸」でマーケティングする組織になっているからです。
商品開発担当者は開発段階では誰に対して、どんな価値を売るのかを普通は考えて開発しているはずです。ところが、発売後に売るのは販売担当者の責任であるという風に、顧客ではなく企業主体で組織が動いていることが問題です。
これを、「顧客軸」に変革しなければなりません。そうした意識改革をする上で、社内でよく言っているのは、「何かの“オタク”になれ」です。マーケターにありがちなのは、顧客を平均的に捉えてしまうことです。オタクとして何かを突き詰めることで、平均思考から抜け出せます。
書籍の中では「UGC(ユーザー生成コンテンツ)ファースト」という概念を提案しています。このUGCが起こりやすいプロモーションを考える際、まずやることは、過去の高評価の口コミを基に、WHO(どのような人が)とWHAT(何に価値を感じて)を明確化することです。
私は普段の自分自身の購買行動について、「何で買ったのか」「どこにエフォートを感じたのか」を分析することを習慣化しています。UGCファーストも社内では常に伝え続けている概念で、既存のUGCを分析することで、自社にとって本当に重要な顧客がどこにいるのかを言語化できるようになります。
世の中のマーケティング業務は、大半が既存の商品が対象で、新商品のマーケティングを手掛けることは多くありません。そこで、まずは既にSNSなどに投稿されているUGCを分析することから始めます。SNSに出ているものだけではなくて、顧客同士がリアルの場でどのように商品・サービスについて語っているのかを、インタビューなどを通じて尋ねていきます。
一方、新商品の場合は、近しい価値を提供している商品・サービスに関して、SNSでどのように言われているかを見ながら、自社の商品・サービスならどういう口コミが広がると好影響なのかを考えていきます。
とくに、商品・サービスを体験してもらうことをプロモーションの中で設計することが重要です。広告宣伝では購買促進に注力しがちですが、突出した機能や独自性がなければ、多少の機能面をうたったところで、伝わりにくいでしょう。
例えば、「コラーゲンの配合率が従来品よりも何%増加した」と広告で訴求しても、実感が湧きません。顧客が商品・サービスのどこに価値を感じているのかをまず分析して、それをいかに体験してもらうかを設計することが重要です。
実際にUGCファーストを意識して成功した例はありますか。
西井 オイシックス・ラ・大地では「ミールキット」が人気を集めています。このミールキットと近しい商品として、「ちゃんとオイシックス」を展開していました。このサービスを利用するコアな顧客の声を聞いたところ、時短以上に料理の学習に価値を感じていることが分かりました。
そこで、2025年7月に「Oisix CookBox」に名称変更を実施。訴求軸を時短から、学びにフォーカスしたものに変更しました。商品自体は変えていませんが、同梱物を新しいレシピに挑戦できるようなコミュニケーションに変えました。
顧客を理解して、正しく訴求することが重要です。広告面でも、従来の「簡単で時短」という訴求は止めて、「今までできなかった料理がレシピで作れる」という伝え方に変えたことで、いい口コミが増え、CPA(顧客獲得単価)の改善につながりました。
これまで様々な企業でマーケティングを手掛けてきましたが、「売った後」のマーケティングを考えることで、結果的に新しい顧客の獲得につながることを実感しました。
最近、「WHO」「WHAT」といった言葉がマーケティング業界で話題になることが増えています。それは、すなわち、いい口コミをしている人は誰なのか、どこに価値を感じているかという話です。そこを顕在化したUGCを基に、顧客の声を“しっかり聞く”ことが大切です。
デジタルの時代のマーケティングは以前よりもずっと、顧客を捉えやすくなりました。友人の口コミを聞き、検索して、他の人の口コミを参考に購入。その後、何度かWebサイトにアクセスして、情報を得ている、といった行動も実際のデータで見られるようになったのが、デジタルマーケティングの最大の強みです。それをなるべく再現して、他の顧客にも体験してもらうことで成果につながります。
デジタルマーケティングも生成AIの登場で役割が大きく変化しようとしています。
西井 生成AIの進化によって、マーケターに必要なスキルは大きく変化すると考えています。20年以上にわたりデジタルマーケティングに関わってきたため、私はWebサイト制作に必要なHTMLやJavaScriptといった言語を書くことができます。そのスキルは今ではCMS(コンテンツ・マネジメント・システム)に置き換わりました。
デジタルマーケティングの特定の施策に特化したスキルは、生成AIに置き換わっていくでしょう。マーケターは包括して、全体像を考えられるスキルがより大切になると考えています。
ここ最近で言うと、私が見ている100億円以上の広告費を費やしている企業は、その費やす先が次々に(グーグルの全自動広告サービス)「P-MAX」へと置き換わっています。
P-MAXはほぼすべての広告運用業務が自動化されています。従来は広告管理画面でキャンペーンを正しく設計できるスキルが重宝されていましたが、その業務はどんどんなくなっています。運用そのものは自動化されているので、目的に合った広告素材を用意することが重要になっています。
P-MAXは指定したLP(ランディングページ)など、デジタル上のデータを集めて、最大公約数的にAIが自動で広告クリエイティブをつくります。従って、顧客の商品・サービスに対する理解度といった状態や、同じ商品・サービスでも感じている価値が異なる顧客がいることを理解して、LPをつくらないと効果が高まりません。
素材の幅が狭いと、商品・サービスに対して、より高いロイヤルティーが期待できる顧客と出会える可能性が下がります。仮に「コラーゲンドリンク」のマーケティングをする場合、他の競合からシェアを取りたい場合は「よりおいしい」「より成分がいい」という訴求軸が有効かもしれません。
痩せたい、肌がきれいになりたい、といった美容感度の高い層にアピールする場合には、既存顧客の満足度や、習慣化によってどのような効果が期待できるのかといった訴求軸が有効かもしれません。いずれにせよ、マーケティングの目的に合わせてどんな素材が必要なのかを考えることのほうが大切です。だからこそ、自社の顧客の購買プロセスを高い解像度で理解しなければなりません。
顧客理解から、素材集めまで、すべてがAIで完結する時代もいずれは訪れるかもしれません。以前、通販のいろはを教えてくれた経営者から、「文鎮型の組織」をつくれとアドバイスを受けたことがあります。
トップの思いが、すべての顧客に正しく伝えられる組織をつくれという意味だと解釈しています。マーケティングの作業がAIに置き換わる中で、軸となるクリエイティビティーがマーケターには求められていくことになるでしょう。
生成AI時代にマーケターが生き残るには
生成AIが普及し、今後マーケティングという仕事は残るのでしょうか。
西井 目先でいえば、まだ3年ぐらいは残ると見ています。これはまだAIをきちんと使えている人が少ないため、業務に落とし込めていないからです。グーグルは先進的なプロダクトをつくっています。
ですが、もう5年ぐらい前から「マーケティング部」という組織があることで、水平分業になっていてもったいないと感じていました。企業や経営を考えたときに、各業務が「マーケティング思考」を持つことが重要です。生成AI時代には、そうした方向に進むと見ています。
マーケターが生き残る道は経営者になることです。一休の(代表取締役社長)榊(淳)さんが、データドリブンで意思決定して、事業を改善できるのはマーケティング思考を持ったデータサイエンティストであり、経営者だからです。これからのマーケターは、経営的な視点を持つこと求められるのではないでしょうか。
(写真/新関 雅士)

西井敏恭著/日経BP/2200円(税込み)



