『 差別と格差の経済学 』(トマス・ソウェル著、村井 章子訳、日経BP)は、アメリカの黒人保守派を代表する論客が、20世紀後半に定着した「格差=差別」というリベラルな社会観を痛烈に批判する作品である。ここでは、アメリカの思想に造詣の深い会田弘継氏(ジャーナリスト/思想史家)が本書に寄せた「解説」をお届けする。
解説 初期ネオコンの系譜に連なるアメリカ保守主義の知性
会田弘継
本書はアメリカの経済学者トマス・ソウェル(Thomas Sowell)の著書Discrimination and Disparities(Basic Books)の全訳である。同書は2018年に初版が出版された後、翌2019年に増補改訂版としてあらためて公刊された。翻訳は後者に基づく。ソウェルは経済学者としてのみならず、広範なテーマで公共知識人として言論活動を行ってきた。そのホームページで確認できるだけでも1970年代から60冊前後に及ぶ著書を公刊している。ソウェルの言論活動のエッセンスをつかむうえで本書は最適の本だといえそうだ。
これだけの著作を持ち、アメリカの知識社会では広く知られたソウェルが、日本ではアメリカ政治経済や人種問題の研究者(のごく一部)以外によってほとんど論じられてきた気配がないのは、「黒人保守思想家」というレッテルを貼られているためであろう。ソウェルはその黒人保守思想家の代表といえる存在だ。黒人保守思想家らについては、桜美林大学名誉教授の上坂昇氏による優れた研究があるが、そのあとを引き継ぎ黒人保守思想の意義を日本の知識社会に広く伝えようとする営為が見えてこないのは残念である。その意味で、本書の翻訳出版は日本のアメリカ理解の幅を広げ奥行きを深めるものとして意義があろう。トランプ・サンダース現象以降のアメリカの思想潮流は、左右あるいは保守リベラルといった従来の枠組みにとらわれていては理解が追いつかない状態に入ったからでもある。
以下、著者の略歴、思想史的な位置付け、注目すべき本書の論点について簡便に触れていきたい。
ソウェルは1930年6月、アメリカ南部のノースカロライナ州に生まれた。本邦訳書公刊時点で95歳と高齢だが、3年ほど前にも新刊を出し、その発言がいまもメディアで時折紹介されるなど、言論人として健在である。父親はソウェル誕生の少し前に亡くなり、母親も幼時に亡くし、親族によって育てられた。9歳の時に親族らとともにニューヨーク市ハーレムに移り高校まで進むが中退し、電報配達など様々な仕事に就いた。朝鮮戦争(1950-53年)に海兵隊員として従軍、除隊後に高校を卒業し、首都ワシントンにある黒人教育のための名門ハワード大学に進学、成績優秀でハーバード大学に移籍し1958年に経済学専攻の優等生として卒業、コロンビア大学で経済学修士、シカゴ大学で経済学者ジョージ・スティグラー(後にノーベル経済学賞受賞)について経済学博士号を取得した。その後、コーネル大学、アマースト大学、カリフォルニア大学ロサンゼルス校など名門大学で教鞭をとったが、大学教育に対し批判的になって教育現場を去り、1980年から保守系のフーバー研究所シニアフェローとして今日に至っている。
その思想は小さな政府や減税を志向し、社会的問題では個人の自由をとことん追求するリバタリアン(自由至上主義者)とみなされているが、本人はレッテル貼りを嫌う。シカゴ大学でスティグラーや『選択の自由』などで知られるミルトン・フリードマン(ノーベル経済学賞受賞)の下で学んだことから経済問題での主張はリバタリアンと位置付けられる一方、社会問題では伝統的価値観を持ち、安全保障では強いアメリカを支持する立場だ。冷戦期アメリカではリバタリアンは保守思想運動の中核とみなされていたから、ソウェルは保守陣営に属していることになる。興味深いのはハーバード大学の学部学生時代にはマルクス主義に傾倒し、卒論でもマルクス主義を論じていたことだ。20代でマルクス主義に傾倒しながら、その後に転向し市場経済と反共産主義を強く主張するという流れは初期のネオコンサーバティヴ(ネオコン、新保守主義者)とも似通う。ソウェルが2000年代初頭に70歳代になって書いた短い回顧エッセー「マルクス主義から市場へ」(2002年)では次のようにも述べている。
「むかしマルクス主義者だったころ、わたしの一番の懸念は普通の人びとはもっと報われるべきなのに、エリートが彼らを虐げているということだった。いまでも一番の懸念はそれだ。だが、この何十年かで分かったことは、市場主義エリートにも問題があったかも知れないが、それよりずっとひどいことをしているのは政治エリートであり文化エリートだということだ」
この「文化エリート」、すなわちエリート大学の学者や主流派(リベラル)メディアに対する批判的姿勢は、アメリカの戦後保守主義に顕著にうかがえる特徴の一つだ。ソウェルは、特定の(左派)思想と価値観に文化エリートの言論活動が縛られている、と見ている。理想主義を掲げる文化エリートが行う「ひどいこと」(damage)に対し、厳密に「事実」(fact)を追求していくことで反論していくというのが、本書に通底するソウェルの姿勢だ。彼がマルクス主義を捨てて以来の一貫した姿勢でもある。本書の「はじめに」の末尾に引用されるダニエル・パトリック・モイニハン(1927-2003年)の言葉が象徴的である。
「誰もが自分独自の意見を持つことができる。しかし自分独自の事実を持つことはできない」
モイニハンは戦後アメリカの連邦議会史上で最も高い知性を持った上院議員(民主党)ともいわれる。初期のネオコンの代表的知識人であり政治家だ。本書の基本テーマにかかわることなので、モイニハンの軌跡について説明しておく。労働省次官補としてジョンソン政権入りしていた少壮の社会学者モイニハンは1965年に「黒人家族」(のちに「モイニハン報告」と呼ばれる)と題した内部報告書をまとめた。同政権が「貧困との戦い」を進める中で、福祉依存症ともいうべき病弊が生じ、黒人の家庭が崩壊していく状況をデータに基づいて客観的に示した報告だった。しかし、報告はリークされ、1964年公民権法成立後の理想主義的な社会風潮の中で、モイニハンは「被害者に罪をなすりつける人種差別主義者だ」として激しい批判を浴びた。
この報告と相前後して、ダニエル・ベルやアービング・クリストルといった当時の進歩派の少壮学者らの一部が、アメリカの内政における理想主義の行き過ぎを「事実」に基づく現実主義でただしていくために人種・犯罪・福祉政策など内政問題を扱う理論誌『パブリック・インタレスト(公益)』を創刊した。ネオコンサーバティズムの原点とされる(日本ではネオコンは外交・軍事でのタカ派を指すようになってしまったが、それはずっと後に起きた変化である)。モイニハン報告はのちの福祉政策見直しの起点となる。現在では歴史的文書として労働省のホームページで閲覧できるようになっている。
ソウェルが本書の冒頭でモイニハンの事実重視の言葉を引いていることは、経済政策ではリバタリアンと呼ばれることが多いが、初期ネオコンの精神を引き継いだ思想家であることをうかがわせる。本書にもそうした精神が貫かれている。
本書では冒頭から「格差」をめぐって、単に「遺伝」や「差別」に還元できない多様な要因がかかわることを、データで事実を示しながら読者に説く。たとえば「第一子の優位性」。ミシガン大学医学部の1968年の男子学生に第一子の占める比率は第二子以下の2倍以上、月探査に向かったアポロ計画の初期の宇宙飛行士29人のうち22人は第一子か一人っ子だった。こうした事実をはじめ、歴史上、地理上、自然環境上の様々な偶然が絡み合って「格差」が生じることが説かれる。さまざまな要因が複雑に絡んで起きる、いわゆる「意図せざる結果」の問題が冒頭から示唆される。「意図せざる結果」は、保守思想の考え方の要諦でもあり、初期ネオコン思想家たちも強調した点だ。合理主義や科学主義の傲慢を戒める考え方で、フリードリッヒ・ハイエクらの自由主義思想をたどれば分かる通り、この世界の問題は合理主義では割り切れないことを観念するのが市場主義の基礎となる哲学でもある。
その一例は、ソウェルが学生時代に労働省でインターンとして働いたときに研究し、マルクス主義を離れるきっかけにもなった最低賃金法の問題だ。本書では第2章で詳述されている。最低賃金が需要と供給で決まる水準を上回ると、失業率に人種間格差が生じてしまう。この事実はソウェルによって具体的数字を挙げて説明される。インフレにより最低賃金が実質的に無効になっていた1948年には10代男性の黒人と白人の失業率は9〜10%で有意な人種格差はみられなかったのが、最低賃金が引き上げられて実効性を持ち始めると10代男性の失業率は大幅に上昇し、特に黒人の失業率が白人の2倍の水準で推移するようになった。人件費が上がって雇用が減るのに対し、求職の倍率が上がる中で、雇用主は黒人よりも白人優先で雇用する傾向が出てくるためだ。
「意図せざる結果」の最も悲惨な例は共産主義の実験だったということになろう。それはソウェルが第6章の冒頭で引く経済学者シュンペーターの言葉が良く代弁している。「……完全雇用、最大限の生産高、そして全般的な繁栄が、その結果として生じるはずだった。実際に起きたのが、困窮、不名誉、そして挙げ句の果ての流血の惨事であったのは事実だが、それは単なる偶然だったのだ。」
ソウェル自身の言葉を用いてこの事態を説明すれば、「……ある種の社会的現象、たとえば経済格差にも、さまざまな原因、それも相矛盾するような原因がありうる。一部の人はある一つの原因だけを取り上げ、それに基づいて社会のあるべき姿を構想するが、ものごとはそう単純ではない」(231ページ)ということになる。
本書でもう一点注目したいのは、経済格差をめぐる統計の利用が「作為や不作為の誤りによって歪められる」問題である。第4章の「数字の世界」で論じられる。冒頭にはマーク・トウェインの言葉が引用される。
「世の中には三種類の噓がある。噓、大噓、そして統計である」
多くの人が薄々気付いていることであろうが、数字は客観的だから確固たる事実だというのは「印象」に過ぎず、往々にして事実を見誤ったり誤解する原因になるのである。ここでソウェルが挙げる単純な例には次のようなものもある。2000年の公民権委員会の報告書によれば、住宅ローンの最優遇(プライム)ローン申請者を見ると、黒人の44.6%が却下されたのに対し、白人の場合は22.3%だった。これに対し人種差別だとの非難が湧き起こる騒動となった。しかし、アジア系の却下率は12.4%であった。実態は信用格付けが絡んでおり、黒人はサブプライムローンでは白人やアジア系に比べ圧倒的に高い比率で借りているのである。もちろん、差別による歴史的貧困の問題などをたどらなければ、この格差は解明できないという意見もあろう。だが、ソウェルが示す歴史的貧困や格差も複雑な経緯を示しており、われわれの「常識」は次々と覆される。一種の醍醐味さえ感じさせる。
「世帯所得」という統計が生む数字による誤解もある。世帯所得で上位20%と下位20%の所得格差を見るのは、アメリカの格差問題を論じるときの一般的方法だ。だが、たとえば2002年で見ると下位20%の世帯の人数は4000万人なのに対し上位20%は6900万人であり、所得のある人は上位20%では下位20%の4倍に達している。とすると、経済格差の程度をどう考えればよいのか、再考が必要だ。そのほか、所得格差を論じるときに、上位20%と下位20%の人が格差が一定の年月にわたり固定しているように議論されるが、階層間で移動があるはずで、それを無視した論議は正確性を著しく欠くとソウェルは論じる。
こうした議論は、これまで差別や格差を論じてきた「進歩派」な人々にとって足下をすくわれる思いがするだろう。しかも、それが差別や格差問題の「被害者」である黒人の側から出てくることに驚いて、非難のことばをぶつける者さえ出てくる。ちょうど60年前に少壮学者モイニハンに「人種差別主義者」の非難を浴びせかけたのと似る。われわれがとるべき姿勢は、この本で展開されるソウェルという知性の精緻な論議にまず耳を傾け、そこに建設的な批判を加えて、地に足のついた差別や格差の解消の道をさぐっていくことであろう。
(ジャーナリスト/思想史家)
