12年働いた中堅システムインテグレーターをやめようと決心していたSEの後藤智彦。担当企業の緊急トラブル対応に出かけた彼はそこですご腕の先輩SEの五十嵐優一と出会う。転職すれば給料が上がるはずと夢を語る後藤に五十嵐は冷や水を浴びせる……。(この物語はフィクションです)
五十嵐さんの話に納得することはあっても、気持ちはすっきりしない。コーヒーをちびちび飲みつつ、さっきの話に戻した。
「じゃあ、人の20倍仕事ができたら、周りの評価は変わるんですか?」
「20ってのは適当な数字だから、当てにしないでほしいけど。ただ」
「ただ?」
「他の人が1、2カ月かかる作業を、2、3日でこなせれば、それはすごいことだ。さっき、後藤はグーグルの話を出したけど、グーグル創業者のセルゲイ・ブリンは『本当に優秀なソフトウエアエンジニアは平均的な人の10倍、100倍も生産性が高い』って言ってる。お前もそれくらいのパフォーマンスを出してみたら、周りの目が変わるよ」
「100倍かー。ぼくにもそんな仕事ができますかね?」
「普通にやっていたら無理だ。イノベーション、つまり全く違うやり方をすればできると思う。仕事は、時間じゃない」
「ですよね、ですよね。ぼくもそうなりたいわけですよ!」
ぼくはつい言葉に力を込めた。
「けど、現実的には難しい」
五十嵐さんは、ぼくの気持ちを持ち上げては落とす。
「日本におけるシステム開発の多くはRFPによって仕様が詳細に示される」
RFPとはリクエスト・フォー・プロポーザル、つまり、提案依頼書のことだ。
「RFPがどんな内容かは、後藤もよくわかってるだろう。官公庁の入札なんかだとサーバーを何台購入し、そのスペックはいくつなどと、システムの要件が細かに指示されている。これではイノベーションは無理だ。人の何十倍も早くとか、安くとかできることは、あり得ない」
「うーん、たしかに……」
「だからイノベーション、つまり革新的な仕事ができるようなやつは、会社を去る。そのほうが、自分の好きなように仕事ができるし、給料も増える」
「ですよね」
AI(人工知能)によって仕事のやり方が大きく変わっていくはずなのに、我が社はいまだに古くからの受託開発。イノベーションとは無縁である。やはりぼくは、この会社を去るべきじゃないのか。
「日本の会社だと、例えば、1億円の利益をもたらしたって、給料が大幅に増えるわけじゃない。それで給料が1000万円増えることはないだろう」
「うちの会社だと、ボーナス評価でせいぜい、10万円くらいのプラスでしょうね。プラス、社長表彰の金一封が出て、たしか3万円です」
「自分で事業を起こせば、利益は丸々自分のものになる。だから、できるやつは独立していく。またはインセンティブが高い会社、例えば外資系の会社に転職する」
「好きな仕事をしてイノベーションを起こして給料もアップ。そりゃ、会社を飛び出したくなりますよね」
「まあな」
「だからぼく、今の会社をやめて転職しようと決めたんです」
「後藤の人生だから後藤が決めればいいけど、別の見方をすると、利益を生み出さなくても給料をもらえる。それが日本的な今の会社のメリットだ」
五十嵐さんはぼくの転職を否定しているようだ。そして今度は、「メルティーキッス」に手を出した。
この人、もしかしてお菓子を食事だと思ってないか? トラブル対応時はご飯を食べないって言ってたけど、お菓子でおなかを満たすという作戦じゃないのだろうか。
「ところで後藤、転職先は決まってるのか?」
「1社は内定をもらっています。ただ、あまり条件がよくありません。今は、異業種も含めたいろいろな会社とも話をしたり面接を受けたりしていて、どうなるかっていう状況です」
「じゃあ、次どこに行くかが未定なのに、退職願を出すつもりだったのか」
「……え、まあ」
ぼくは小さくうなずいた。
今以上に評価してくれる会社は絶対にあると思っている。しかし、実際に転職活動をしていると、なかなか条件に合うオファーがない。
「ぼくは、妻や娘のためにも、転職を成功させたいんです。だから、五十嵐さんはどうやって転職を成功させたのか、聞きたくって」
「転職はタイミングや相性もあるんだけどな……。まぁ、そんなにおいしい転職先は転がってないさ」
「そういうもんなんですかね」
現実は厳しいってことなのか。
「ただ、本当に優秀な逸材なら、今の会社が放っておかないし、取引先の会社が『年収200万円上乗せするから来てください』って声をかける。転職で成功するのは、だいたいがそんなパターンだ」
もちろん、ぼくにそんな声はかかっていない。
ならば、今の会社にいたほうが無難……?

(つづく)
[日経クロステック 2023年8月4日付の記事を転載]
