12年働いた中堅システムインテグレーターをやめようと決心していたSEの後藤智彦。担当企業の緊急トラブル対応に出かけた彼はそこですご腕の先輩SEの五十嵐優一と出会う。転職をしたいが内定をもらっている会社は今より年収が下がる、そう打ち明けた後藤に五十嵐は……。(この物語はフィクションです)

イラスト:冬乃郁也
イラスト:冬乃郁也
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「で、でも! 転職サイトには、年収800万円から1500万円という高年収の募集があふれています。それだけ、できる人を欲しがっているってことじゃないんですか?」

 五十嵐さんは次の「メルティーキッス」の袋を開けながら、「あれは、『おとり広告』だからなあ」と笑う。不動産でも好条件で安価な物件が載っていることがあるが、それと同じなのだろうか。でもたしかに、最終面接までいかないと年収は教えてもらえないことが多い。そして教えてもらった年収も、想定より安いことが多かった。

「ちなみに後藤、お前の年収、今いくらだ?」

 ぼくはつい、春村さんの顔を見た。春村さんの前で年収を言う恥ずかしさがあった。とっさに春村さんは両手で耳をふさいだ。そんなことで聞こえなくなることはないが、「聞かないことにします」というメッセージだった。

「手当や残業代など諸々含めて、600万円弱です」

「結構もらってるじゃないか」

「いや、普通だと思います」

「じゃあ、転職してもせいぜい550万から600万ってとこだな」

 えーっ、とつい驚きの声が漏れた。それなら、今の会社と変わらないじゃないか。これなら、転職する意味がない。

「給料は、前職の年収が基準になる。だから、後藤の場合は600万円が1つの基準だ」

「残業代やら手当も含めて、ですか?」

「そうだ」と五十嵐さんはうなずいた。

「それに、転職サイトにも800万円を1年目から払うとは書いてないだろ。数年間ちゃんと働いて、実績を残せれば、それくらいもらえる可能性があるってだけさ」

「それ、詐欺じゃないですか」

イラスト:冬乃郁也
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「詐欺じゃないよ、本当に実力があって、転職と同時に顧客も引き連れてくるような逸材だったら、いきなり800万円も夢じゃない。まぁでも、実際には非常に少ないな」

「そんな人でも800万円しかもらえないんですか?」

「あとはインセンティブだ。つまり、営業のような仕事をして、10億、20億円の仕事を取ってくる。または、1億円くらい利益を出したら、プラスアルファでくれるお金だ。それだったら、1000万円くらい払ってくれるだろう」

「1億円の利益で、1000万円ですか……」

「そうだ。もっともっと会社をもうけさせれば、会社は1500万円、満額で払うだろう。だから嘘じゃない。ただ現実的に、そんな人はまず、いないだろうな」

「五十嵐さんは年収が増えたんですよね。いくらになったんですか?」

「なんでお前に年収を言わなきゃいけないの?」

「ぼくも教えましたし、そこはほら、ぼくと五十嵐さんの仲じゃないですか」

 五十嵐さんはちょっと顔をしかめつつ、渋々言った。

「オレは、コンサル会社に転職したからな。ま、ちょっとは上がったよ」

「やっぱり!」

「でも、福利厚生はないから、家賃補助や人間ドック受診も何にもない。だから、実質はプラスマイナスゼロ」

 年収が増えた人は、妬まれないように適当に嘘をつく。ただ、五十嵐さんの話は、あながち嘘でもない気がする。ぼくの場合、会社の福利厚生でマンションの家賃の3割補助を受けている。これがなくなるのは非常に痛い。夢のない現実を聞かされてしまった。

「じゃあ、転職しても給料が上がらないってことですか……」

「いや、そんなことはない」と五十嵐さんはすかさず否定する。

「オレの場合、ちゃんと働いて成果を出せたから、2年目からはボンと上がったよ」

「ボン! ですか。すごい」

「コンサルティング会社はいろいろな契約の価格設定があって複雑なんだけど、オレがいた会社で言うと……」

 五十嵐さんが、具体的な数字の話をしてくれそうだ。ぼくはつい身を乗り出して聞き入った。

「例えばさ、オレ1人の仕事に顧客が月300万円くらい支払っているとする。会社の経費や利益を差し引いても、月100万円くらいの給料がもらえるって感じだ。もちろん、顧客が支払う金額は、仕事の中身で大きく変わる。調査なのか、DX(デジタルトランスフォーメーション)みたいな業務改善提案なのかという内容もそうだし、担当者のランクによっても変わる。ただ、オレは1年目からいい顧客のいい仕事をさせてもらったので、年収は結構増えた」

「福利厚生がなくなったといっても、月100万円だったら年収1000万円以上じゃないですか。ぼくもそれくらい欲しいです。今でもすごく働いていますし、成果も出しています。どうせ真面目に働くなら、給料は高いほうがいいです」

「別に1000万とは言っていないからな? ──けど、激務だぞ。1カ月で300万円の単価の仕事を1人でやるんだ。それだけの価値がある仕事をしなければいけない。顧客の業務を徹底的に理解し、情報を集めて資料を作って説明する必要がある。後藤の会社にいた時とは、比べものにならないくらい大変だった」

「そうですか……」

 大変過ぎるのもつらい。

 でも待てよ。五十嵐さんはさっき、転職後の年収は前職の年収が基準になると言っていた。ということは、その高い年収の状態で次に転職すれば、さらに高年収が期待できるのではないだろうか。

 ちょっと聞いてみよう。

「五十嵐さん、転職を繰り返して、年収が倍くらいに増えたということを聞いたことがあります。それって本当なんですか?」

「そういう成功例ももちろんある。だが、そんなに甘くはないさ」

 ぼくは、「甘くはない」という言葉より、「もちろんある」の方に過敏に反応した。

「大きく増えることもあるんですね」

 そう言ってぼくは五十嵐さんを見た。

 五十嵐さんは何かを思い出すように上を見た。

「お金な……」

 そうつぶやいてから、再び語り始めた。

「一流のスポーツ選手は、プロだからこそお金にこだわるという発言をする。だけど、お金を得ることにこだわっているんじゃない。価値がある選手だということを、客観的な金額で認めてもらうことにこだわっているんだ」

「たしかに……」

「起業家にしても芸能人にしても、一生遊べるほどの大金を得ている人はたくさんいる。だけどその人たちの多くは、仕事をリタイアしない。大概、死ぬまで仕事をしてる」

「なるほど」

「つまり、そういうことだ」

 五十嵐さんが言わんとするところはよくわかった。

「一流の人は、お金のために働いているわけではないのですね」

「そう。だから、お金にこだわって転職するという考え方は、どうなんだろう。オレは違う気がするんだ」

(つづく)

▼本連載は左門至峰氏の小説『ぼく、SEやめて転職したほうがいいですか?』(日経BP、2023年6月19日発行)を著者の許諾の下で転載しています。本文表記は原則、書籍発行時の記述をそのまま掲載しています。

日経クロステック 2023年8月7日付の記事を転載]