12年働いた中堅システムインテグレーターをやめようと決心していたSEの後藤智彦。担当企業の緊急トラブル対応に出かけた彼はそこですご腕の先輩SEの五十嵐優一と出会う。転職を成功させたいと粘る後藤に五十嵐は転職にはメリットが必要と諭す。(この物語はフィクションです)
「オレの場合も、もちろん年収が高いほうがうれしい。でも、派手な生活をしているわけではないから、金に困っているわけではない。年収が高いというのは、単なる自己満足に過ぎない」
「ぼくは、年収が高いほうがいいと思っています」
「イギリスかどこかの調査で、年収700万~800万円くらいの人の幸福度が最も高いというデータがあった」
五十嵐さんの話を聞いて、春村さんも口を開いた。
「たしか、それ以上増えると、逆に幸福度が下がるんですよね」
「そう。年収が高額になると、責任あるポジションを任されたりして、精神的な負担が増える。それに、地位があると、自分の地位や世間の評価を気にするようになる。余分な体力を使う」
「幸せを取るか、お金を取るか、二択なんですかね?」
そう言ったぼくだが、可能なら両方欲しい。
「そんな単純な話ではないが、価値観は人それぞれじゃないかな。ただ、間違いなく言えるのは、金があれば幸せなわけでもないし、金がなくても幸せな人はいっぱいいる」
「私もそう思います。子供の頃なんて、お金なんてもちろんないですけど、楽しかったです」
純粋な話をする春村さんを見て、ぼくは少しだけ、子供の頃に戻りたいと思った。

五十嵐さんも「そう。そうなんだよ」と言って、力を込めて話を続けた。
「子供の頃は、友達とくだらない話をして笑っていたら楽しかった。部活も楽しかった。オレの学校は弱かったけど、汗をかいて、みんなで青春して……。人間って、何歳から金を気にするようになるんだろうな」
五十嵐さんの話を聞いて、ぼくはマザー・テレサの言葉を思い出した。
昔、学校の図書館で読んだ本だ。
「たしか、マザー・テレサが、『人はお金で満たされることはありません』と言っていました」
「名言だな」
五十嵐さんも納得の表情だ。
それを見て、ぼくは素直な気持ちを五十嵐さんに伝えた。
「金銭欲や物欲を満たすと、一時的には満足感が得られますが、本当に一時的です」
「ちなみに後藤は、何で満足するんだ。地位か、名誉か?」
「五十嵐さん、駄目人間ですね」
「駄目人間ってひどいなぁ。じゃあ、なんなんだ」
「愛ですよ!」
家族のことを考えると、本心から出た言葉だった。だけど、言った自分が少し恥ずかしくなった。真夜中じゃなかったら、「愛」なんて単語、口に出せなかったと思う。
「お前もわかってきたじゃないか。オレはうれしいよ」
「うーん。でも、愛が大事だとしても、家族をより幸せにするために、自分がイキイキと働きたいんです。だから、現状から抜け出して、転職にチャレンジしてみたいんです。できるなら、収入アップも期待しています」
「転職するならプラス要素を5つ数えてからって話を知っているか? 日本マクドナルド元社長の原田泳幸さんのアドバイスだ」
「たしか、原田さん自身が何度も転職された人ですよね」
「ああ、『マッキントッシュ』のメーカーであるアップルコンピュータ(現・アップル)から日本マクドナルドへの転職が、マックからマックへの転職と話題になった」
たしか、ぼくが中学生くらいだったと思う。
「プラス要素、つまりメリットが5つって結構な数ですね。給料、役職や地位、やりたい仕事かどうか、それくらいしか思いつきません」
「そのあたりはわかりやすいメリットだな。でも、他にも大事なことがあるぞ」
「例えばなんですか?」
「勤務地の近さ、勤務時間の長さ、福利厚生、有休消化率、社風が自分に合っているか、会社が安定しているかなどだ」
「なるほど。たしかに、そういうことも大事ですね」
「『今が嫌』っていう理由だけで転職したら、デメリットのほうが多かった、なんて可能性もある」
五十嵐さんの話を聞いて、ぼくは冷静に考えることにした。
転職のメリットを数えるために、左手の指を順番に折った。1つは、クラウドやAIなど、今後の成長が見込める分野の仕事をしたい。2つ目は、今の評価されない組織から抜け出したい。3つ目は、年収が上がればラッキー。あれ、もう終わりだ。4つ目以降のメリットがない。五十嵐さんが言っていた福利厚生や勤務時間など、それ以外のことは比較的満足している。
「どうだ後藤、5つのメリットがあったか?」
「いや、まだ考え中です」
あ、そうだ。メリットが1つあった。無能な上司と会話しなくて済む。
「上司と相性がいいかも、メリットと言えますよね?」
「上司との相性なんて運だ。それに人事異動でコロコロ代わる」
たしかに。逆に言うと、今の服部課長が異動でいなくなってくれる可能性だってある。
「いいか後藤、上司との相性が悪いなんてくだらない理由で転職なんかするなよ。バカな上司がいたら、何を言われてもニコニコしてろ。そして、そいつらが見えなくなったらアッカンベーをして悪口を言えばいい。どの職場にも、死んだほうがいいクズは最低3人いる。転職先にだって絶対にいるんだ」
「五十嵐さんもそう思う人がいるんですか?」
「ああ、もちろんだ。口には出さないけどな」
この人なら口に出しそうだけどな。そう思ったけど、ぼくもそのことは口にしなかった。
五十嵐さんは力説した。
「だから、心を無にするんだ。金をいただいているんだから、たった1人か2人、人として気に入らないなんて、そんなちっぽけな感情は置き去ればいいんだ。会社選びで大事な要素は他にもっとたくさんある」
ごもっとも。
もしかすると、ぼくは今の会社のいいところが見えていないだけなのかもしれない。
(つづく)
[日経クロステック 2023年8月8日付の記事を転載]
